女神様のお気に召すまま
某年某月某日。
大陸の覇権を握る大国、ヴィルツィエル皇国に、異世界から巫女が召喚された。
巫女の名前はリリカ。わずか十六歳の彼女は、創世神たる女神の託宣を授かる存在であり、世界各国における数々の問題――世界にはびこる瘴気を祓い、その瘴気によって狂っていた人々を解放した。
そうして彼女は、人々からいつしか“花の巫女姫”と呼ばれるようになった。
彼女は老若男女を問わず人々に慕われ、誰もが彼女の心を得ようとした。
花の巫女姫たるリリカの尽力によりようやく平和を取り戻したヴィルツィエル皇国は、今宵は王宮にて、盛大なる夜会が開かれている。
リリカの元に集うのはこのヴィルツィエル皇国でも特に女性陣の関心を集める王太子カイル、騎士ヘンドリクス、魔術師シーズエ、宮廷音楽家タルトリット、などなど、実に魅力的な男性陣だ。
愛らしい巫女姫の元に集う麗しの殿方達。誰もがその姿をうっとりと見つめ……ているわけでは、ない。
「殿下はあたくしの婚約者なのに……!」
「ヘンドリクスもですわ、わ、わたしに、わたしに剣を捧げてくださったのに」
「ああ、お泣きにならないで。ふふ、シーズエ様ももう、私のために花を咲かせてくれはしないのね……」
「タルトリットの歌、最後に聞いたのはいつだったかしら」
リリカの周りに集う男性陣の、本来の婚約者であるはずの女性陣は、そっと身を寄せ合ってささやき合う。
彼女達ばかりではない。他にも多くの女性が、婚約者や想いを通わせていたはずの恋人に捨てられた。リリカに心奪われ、恋焦がれ、そして今こうして人目もはばからず彼女の関心を得ようと男達は必死になっている。
その姿を見ていることしかできない女性陣の涙など知る由もない。ただリリカだけが、花のように美しく、男達に囲まれて楽しそうに笑っている。
「リリカ、今日は客人がいらっしゃっているんだ」
「なぁに、カイ。いったいどんな人?」
「神殿からの使者が、どうしても君に会いたいと」
「神殿から!?」
ぱあっとリリカの顔がほころんだ。その笑顔に男達が笑み崩れ、女性陣はそっと悲しげに目を伏せる。
「やったぁ! ずっと待ってたの、えへへ、逆ハーエンドまで頑張ってよかったぁ」
「リリカ?」
「ううん、なんでもない。カイ、ヘンディ、シー、リット。神殿からの使者って、私に用があるんでしょ?」
「ああ、大恩ある花の巫女姫に、直々に礼を伝えたいと、わざわざ……」
そのときだ。
「神殿からのご使者様がいらっしゃいました!」
まるで王太子がリリカにその来訪を告げるのを待っていたかのように声高々に従僕が言い放った。
大広間の扉が大きく開け放たれ、しずしずと入ってくるのは、創世神たる女神ハルモニアの紋章を大きく背に背負った、真白い衣装の一団だ。
その先頭に立つ青年の姿を目にした者は、誰もが一様に呆けたように彼に見惚れた。男も女も老いも若きも関係なく、彼から目を離すことができない。
それはそれは美しい青年だった。
生命をそのまま映したような鮮やかな赤の髪を長く伸ばし、瞳はごうごうと輝く見事な黄金。圧倒的な美貌の前に誰もが息を飲み見惚れる中で、ただ一人動く者がいた。リリカだ。
「リュカさまぁ!」
周囲が止める間もなくリリカは豪奢な桃色のドレスを翻して彼の元まで駆け寄っていく。
リリカが口にした、リュカ、という名前に、先ほどまでとは違った意味合いで誰もが息を呑んだ。リュカ。それは、世界中に点在する神殿の頂点に立つ、神皇猊下の名前だった。
世界各地を回ってその所在を明らかにしないはずの存在が、ここに、いる。
そんな彼の元まで駆け寄ったリリカは、頬を紅潮させて、これまた周囲が止める間もなく彼の腕にしなだれかかった。
「お会いしたかったですぅ! 召喚されたときもお会いできなかったから、ずっと、本当にずっと待ってて……っ! リュカ様、私、私、あなたのお嫁さんにふさわしくなりました!」
「……僕がリュカだと、よくご存じだね」
「えっあっ、だ、だって、一番先頭だから! ね、リュカ様、ほら、私達名前もよく似てるし、巫女の私と神皇のリュカ様、ほら、ぴったりお似合いでしょ!?」
懸命に言葉を紡ぐリリカの姿を「かわいらしい、リュカ様がうらやましい」という視線で見つめるのはやはり男達であり、女性陣は「なんて無礼な真似を……!」と恐怖におののいている。
当たり前だ。現代において、神皇猊下とは、現人神だ。巫女が託宣を受けるものならば、神皇猊下は神そのもの。女神ハルモニアの夫たる男神なのだから。
誰もが知る当たり前の常識など、異世界の少女には関係がないのか。
いやしかし、それにしても。
ああほら、神皇猊下の背後の、彼に仕える神官達が、リリカを取り押さえようと……と、こわごわとリリカと神皇猊下のやりとりを見つめていた者達は、あ、と次の瞬間目を見開くことになる。
自らにしなだれかかっていたリリカを、神皇猊下が、ぺいっ!!!!!と、それはそれは容赦なく叩き落としたからだ。
「ふべっ!!」と、無様な悲鳴を上げて床に倒れ込むリリカを一瞥してから、神皇猊下は「汚いものにさわってしまったなぁ」とのんびりと衣装のほこりを払い、側仕えらしい神官にその手をぬぐわせる。
ぽかんとその姿を床の上に座り込んで見上げるリリカにもはや興味はないのか、神皇猊下はその艶やかななる美貌に笑みをたたえて、背後を振り返った。
「我が君、どうぞお手を」
恍惚とした響きを宿して、神皇猊下はその白皙のかんばせを薔薇色に紅潮させ、神官達に守られるように囲まれていた一人の女性をそっと自らの隣に招き寄せた。
ざわりとどよめく周囲などなんのその。神皇猊下にはもう彼女しか見えていないらしい。
神皇猊下の隣に、彼の腕に抱かれるようにたたずむのは、顔の下半分を覆面で隠した女性だった。波打つ金の髪と紫の瞳が印象的な、神皇猊下と同じ年の頃と思われる女性だが、それだけだ。どこにでもいそうな女性、という印象でしかない。
そんな彼女が、神皇猊下に、甘く、熱く、とろけるようなまなざしを向けられている。
女神ハルモニアの夫君として彼女に生涯を捧げるべき“神皇猊下”にあるまじきまなざしに、周囲に戸惑いが広がっていくが、そんな中でリリカが立ち上がった。
「なっなによ、あんた! リュカ様から離れなさいよ! そこは私の場所なんだから……っ!」
愛らしい顔立ちは嫉妬に燃え、東方の国ではおそらくこういう顔を般若と呼ぶのだろう。そのままリリカは神皇猊下の腕に抱かれる女性に掴みかかろうとする。
神皇猊下がその整った眉をひそめて腕の中の女性をかばおうとするが、それを女性が制し、彼の腕から抜け出て、自ら覆面を取り払う。
そして、その淡く色づく唇が動いた。
「――――頭が、高くってよ?」
――――――――――びたんっ!!
リリカがその場に、まるで見えない何かに圧し潰されるように、床に叩きつけられた。
彼女ばかりではない。女性の声を聞いた誰もが、抗うすべもなくその場にひざまずきこうべを垂れる。
王太子も、騎士も、魔術師も、宮廷音楽家も、彼らの婚約者、あるいは恋人だった者達も、みな、一様に。
その姿を見届けて、金の髪と紫の瞳という、女神ハルモニアが持つという色彩とまったく同じ色を宿した女性は、にっこりと笑った。
見る者に不思議と安心感を抱かせる、そして同時に、逆らう気力のすべてをあますところなく奪い去ってしまう微笑みだ。
ただひとり、神皇猊下だけが「僕だけにその笑顔を向けるべきなのに」と子供のように唇を尖らせている。
そんな彼に苦笑してから、女性はそっと真白く長い衣装のすそを持ち上げて、その場にいる者達全員に向かって一礼してみせた。
「お初にお目にかかりますわ。わたくし、ハモニと申します。この意味をご存じの方は、この場にいらっしゃるかしら?」
「なっなによ!! あんたのことなんか誰も知ってるはずがないじゃない! モブのくせに出しゃばらないでよ……むぐっ!?」
「リリカ、だめだ! 彼女は……このお方は……っ!」
「まあ、さすがヴィルツィエル皇国の王太子。さすがにご存じでいらっしゃるのね」
王太子がリリカを抱え込むようにしながらその口を押さえ、その場に平伏する。
何事かとどよめく周囲が、彼に説明を求める視線を向ける。
王太子が全身を震わせながら、その口を開いた。
「女神ハルモニアが現世に降臨されるときに名乗る名前。それが、“ハモニ”様だ」
その言葉に、大広間中が震撼した。女神ハルモニアが、必要に応じて、人間の女の胎を借りて現世に生まれ落ち、世界をその名の通りの“調和”へと導くとは、有名な伝承だ。
まさかそんなと誰もが呆然とする中で、ハモニと名乗った女性を再びその腕に抱いた神皇猊下が、冷ややかにリリカを睥睨した。
「我が君が世界各地の瘴気を祓い、我々神殿はその補佐として各国の問題もついでに解決してやったんだがね。そのすべてが、気付けば我が君ではなく、そこのお嬢さんの功績になっているから、どういうことかと思って調べさせてもらったよ。どういう手段を使ったかは知らないが、我が君が訪れた後の地の残りかすを処理して、それでいい気になっていたようだね。まあ我が君は目立つのを好まれないし、僕としては放置してやってもよかったんだけれど……」
「だって、神殿にやってくるお嬢さん達が、あまりにもお気の毒だったんですもの。愛する人に無下に捨てられて、けれど恨むこともなく、ただ悲しみに暮れるお嬢さん達の力になりたかったの。わたくし、一応、“愛”の女神でもあるのだから」
ね? と、ハモニの紫のまなざしが、ひざまずく王太子達の婚約者だった女性達へと向けられる。ああ、と誰かが吐息をこぼした。届いていたのね、と、誰かが声を震わせた。
愛しい男に裏切られてもなお、復讐に走るでもなく、ただ大人しく身を引いて、それでも抱えきれない悲しみを神殿にささげることでなんとかやり過ごそうとしていた女性達だ。
ハモニは、女神ハルモニアは、そんないじらしい女性達を見捨てない。
「ええと、リリカさん、だったかしら。あなた、その瞳、わたくしから奪ったものね?」
問いかけの形でありながらも、それは断定だった。
未だに王太子によって取り押さえられながらも暴れていたリリカの瞳が、大きく見開かれる。そのこげ茶色の瞳の奥に宿る、神秘的な紫の光に、ほう、とハモニは溜息を吐いた。
「困ったお嬢さんだこと。この世界に来るときに、勝手にわたくしからかすめとったのね。それを手伝ったお方にはもうお灸をすえさせてもらったけれど……それにしても、いっそ見事ね。わたくしの目があったからこそ、あなたは、わずかな瘴気だったら浄化できたし、何より、殿方達の心を奪うことができた。わたくしの目と声はね、少しばかり他人には魅力的すぎるらしいの」
「僕は目も声もなくても、我が君の全部が好きだよ!」
「あなたには聞いていなくてよ」
はいはいはいはい! と手を挙げて主張する神皇猊下をばっさりと切り捨て、ハモニは初めてそのかんばせから笑みを消した。
やわらかな微笑から一変して、断罪者のかんばせになった女神ハルモニアと呼ばれる存在は、そうして、その銀の枝のような手を、震えるリリカの瞳へと伸ばす。
「ごめんなさいね。返してもらうわ」
何か、が。確かにその時、何かが、リリカの瞳から零れ落ち、ハモニの手中へと収まった。それをごくんとハモニが一飲みすると同時に、リリカはその場で意識を失う。
夢から覚めたような顔で呆然としている王太子をはじめとした周囲を見回して、ハモニは再び微笑んだ。
「わたくしの目的は果たしたわ。あとは好きになさいな」
ハモニに向けられる視線には、いつしか熱がこもっていた。対して、床に倒れ伏すリリカへの視線は、冷たい蔑みが宿るばかりだ。
あれだけ彼女への愛をささやいていた男達も似たようなもので、今度はハモニにそのまなざしを向けようとしている。
その無粋な視線から守るように、大きな袖で自らの妻を包み込んだ神皇猊下は、そのまま彼女と、部下達とともに、ヴィルツィエル皇国が王宮、その大広間を後にしたのだった。
――のちに、花の巫女姫リリカ、という名は、ヴィルツィエル皇国の史書から抹消され、代わりに女神ハルモニアの化身ハモニの名が民草に広く知れ渡ることになるのだが、それはまた、別の話だ。