第87話 このまま新婚旅行といこう
「わたしたち、先に帰るから!」
応接室を覗き込んで声をかけてきたのは、ダイアナだ。彼女の背後に疲れ切った様子で姿を見せたコートニーは、虚ろな目をしつつも怪しい笑みを浮かべてぶつぶつ呟いている。
「よくやりました。この短い時間で頑張りました。わたしは天才なのかもしれません……」
――何が?
そう疑問に思ったものの、コートニーのすぐ後ろから姿を見せたヴァレンタインが無言のまま首を横に振ったので、今は訊かないことにした。
後で知ったことだが、ジャスティーンが怪我をして動けなくなったオルコット公爵と、意識を失ったままのソランジュに拘束の魔術をかけている間に、屋敷の外では色々あったようだった。
俺が期待していたほど、ルーファスの動きは早くなかった。
屋敷の庭では、逃げ出した男を連れ戻してきた魔術師、さらにその横をすり抜けて逃げ出そうとする魔術師、使用人たちまでこれから起こることを察知したのか、金目の物だけを持って屋敷の外に出ようとしていた。
そんな状態であったから、ダイアナたちが例の地下室に戻って魔道具を盗み出そうとしていることも誰も目にとめることなかったらしい。一応、ジャスティーンはイヴを彼らの護衛として付き従えさせたようだが、契約獣の出番は全くないままだったとか。
コートニーは秘術でその大きな魔道具を持ち帰ることにしたようだ。その辺りの流れは、さすが悪知恵だけは働く俺の姉二人である。
「なくなっていることが解ったら、追ってくる奴らがいるでしょ?」
というダイアナの言葉に、慌ててコートニーが偽物の魔道具を造ることにしたのだという。
屋敷の中に戻って浴室から浴槽を持ち出して再設置、ヴァレンタインに相談しながら『それっぽい』魔道具を大急ぎで組み立てた。もちろん、作動させたら偽物であることは解るだろうから、地下室もろとも壊しておくことは忘れない。徹底的に壊すことで、自分の悪事がバレるのを恐れたソランジュや魔術師たちが証拠隠滅したと偽装したわけだ。
……さすがだ。
ただ、コートニーとヴァレンタインの疲労が目立っているから、俺が考えているよりもずっと大変だったのだろう。
イリヤとカルヴィンは他人事のようにそれを見守りつつ、そして最終的にはダイアナに急き立てられるように辺境の地へと旅立っていった。
そしてその場に残された俺たちは、バルニエ家の壊れていない部屋に移動し、ルーファスがここへやってくるのを待っているわけだが――。
「……変だな」
やがて、ジャスティーンがやがて奇妙な表情で窓の外を見つめ、首を傾げて見せる。
「何が?」
「君は気づかない? 随分な魔力持ちがこちらへ向かってきている」
そう言われてみれば――と、俺も彼女の横に立って窓の外を見た。いつの間にか日は傾き始めていて、空の色が赤みを帯びている。ただそれだけなら平和な光景なのだろうが、屋敷の外ではいつの間にか戦闘が始まっていた。
多くの飛竜が空を駆け回り、その背中に乗っているのであろう魔術師による空中戦は派手だった。魔術同士のぶつかり合いは美しいとも言えたが、攻撃を受けた飛竜が街中に墜落していく光景は背筋が冷えるような感覚を与えた。
そんな中で、バルニエ家に向かって飛んでくる飛竜が数頭。
それと同時に感じる、魔力による圧迫感。
「……まるで」
ジャスティーンが冷えた声を吐き出しながら、部屋の中央に視線を投げた。「まるで、以前のあなたのような」
俺たちがいる部屋は、会議室か何かのように飾り気のないものだった。
中央にある大きなテーブル、木の椅子。それ以外に家具らしいものはない。とはいえ、いかにも高価そうな椅子に座らせられたオルコット公爵と、今にも椅子から滑り落ちそうな格好のソランジュがいる。意識を失いながらも僅かに苦しそうに息を吐くソランジュを睨んだまま、オルコット公爵が鼻を鳴らした。
「……解らんな」
「それは魔力を感じ取れない、そういう意味でよろしいでしょうか」
その言葉を聞いた瞬間、オルコット公爵の視線が彼女に向けられた。
憎悪よりも濃い何かがその双眸に見え隠れしていたが、公爵はその頃から随分と大人しくなっていた。彼は何事か考えこんで口を閉ざしたまま、その時を迎えたのだ。
「お前は何をしているんだ」
バルニエ家の庭に降り立った飛竜は四頭いたが、もちろんその背中に乗ってきたのはルーファスである。足早に屋敷の中に入ってきた彼は、まるで俺たちがどこにいるのか見えているかのように一直線にこの部屋を覗き込んだ。
そして彼は眦を吊り上げ、ジャスティーンをまっすぐに睨みつけている。
その彼の背後から王宮魔術師団の制服を着た人間たちが次々に姿を見せて、少なからずその顔に驚きの感情を乗せながらオルコット公爵を見ることになる。
「なりゆきなんだ」
ジャスティーンが僅かに首を傾げながらルーファスに笑いかけたものの、ふと居住まいを正して言い直した。「なりゆきなんですよ、ルーファス・オルコット公爵?」
――うん?
俺が少しだけ困惑して、何故か眉根を寄せているジャスティーンの横顔と、ルーファスの厳しい表情、そしてどこか虚脱したような口元を見せているオルコット公爵を交互に見た。
ああそうか、ルーファスの魔力が以前と比べて大きすぎる?
そんな疑問に俺も首を傾げた瞬間、外に新たな飛竜の羽ばたきの音を聞いた。窓の外に目をやると、陽が落ちて暗くなりかけた中庭にゴールディング将軍と騎士と思われる青年が地面に降り立つ姿があった。
ルーファスは外を見なくても理解したのだろう、僅かに慌てたようにジャスティーンの腕を掴み、その耳元で何か囁く。それから彼の視線が胡乱気な光をはらみつつ俺に向けられ、地を這うような低い声が飛んできた。
「君に渡した魔道具の動作がおかしい。後で話を聞かせてもらおうか」
「……あー……」
俺は面倒なことになったなあ、と思いつつそっと目をそらしたが、しばらくの間、俺に突き刺さる彼の視線が痛かった。
どうやらゴールディング将軍と一緒に来た若い青年は、ソランジュ・バルニエの息子であったらしい。言われてみれば彼の整った顔立ちは母親に似ている。
最初、屋敷に入ってきた時から顔色が悪かったが、将軍とルーファスたちの前で事情を説明し始めたジャスティーンの話を理解していくと、さらにその表情は悲壮なものを帯びていった。
ゴールディング将軍がこの場にやってきてからは、一気に問題の収束に向けて動き出したと言っていい。彼はジャスティーンの説明が正しいかどうか調べるよう、一緒に来た王宮魔術師団の皆に命令を出して、壊れた屋敷の瓦礫の撤去、証拠品となるものを探させ始めている。
その慌ただしさから取り残されたかのように、青年がその場に立ち尽くしたまま小声で呟く。
「バルニエ家は終わりだ……」
そしてそのすぐ近くで、ルーファスが眉間に皺を寄せていて、おそらく彼も『オルコット家も終わりだ』とか考えているんだろうと予想がついた。
ジャスティーンが全部対応してくれているのをいいことに、俺はまるで部外者であるという表情で遠巻きにして彼らを観察し、全てが終わるのを待っていた。
が。
ソランジュ・バルニエが荷物か何かのように屋敷から運び出され、飛竜の背中に乗せられていき、それに続いてオルコット公爵が罪人のような扱いを受けながら引き立てられていく頃になって、何だか風向きが怪しいことになってきた。
ルーファスとジャスティーンはずっと何か言い合っていたし、ゴールディング将軍はそんな二人の傍で渋い表情を見せていた。
漏れ聞こえてくる言葉から察するに、ジャスティーンは適当な嘘も混ぜ込みつつ、俺の立場を守ろうとしてくれているみたいだ。魔女である俺が関わっているのは、自分が助けを求めたからだ、とか何とか。ここまで大きく屋敷が破壊されたのは、俺ではなくジャスティーンの判断が誤っていたからだ、とか何とか。
その上で、ジャスティーンが責任を自分一人で取るという態度を取ってくれているのだが――。
……何と言うか、いたたまれない。
だが、ルーファスがそれを『はいそうですか』と納得するわけもない。
そしていつになく機嫌の悪そうな表情を見せたジャスティーンが急に俺を見て。
「解りました、もういいです」
と、ジャスティーンがルーファスに乱暴な口調で言葉を投げつけた後、俺の傍に歩み寄ってきた。
「おい!」
ルーファスが眦を吊り上げて何か言おうとするのを遮り、彼女は俺の手を握って少しだけ表情を和らげる。しかし、その双眸には何か企んでいる輝きがちらついている。
「あの、ジャス?」
俺が彼女に聞こえるくらいの声をかけようとすると、ジャスティーンはルーファスたちに顔を向けて大きく叫んだ。
「勝手に今回の件に首を突っ込んで申し訳ありませんでした! 父が関わっているかもしれないと疑って、内密に動いたつもりでした! こんなこと、誰も相談できませんでしたし! 結局、自分一人ではどうにもできませんでしたし、かなりの大事にしてしまいました! その責任を取って、辺境警備団の団長は退任致しますし、もう二度とオルコット家に戻ることもしません! 縁は切っていただいて結構!」
……うん?
やっぱり色々と嘘が混じっているようだが、それよりも、団長を退任ってことの方が問題だ。
「というわけでユージーン」
そこでジャスティーンが俺を見下ろして微笑んだ。
「え?」
「退任したら暇になるし、そうしたら」
「いや、イーサンが泣くんじゃ」
「このまま新婚旅行といこう。そうだ、そうしよう。貯金はあるから、新居を買ってもいいし、いや、君の実家に嫁入りしてもいい。どっちがいい?」
「え? え?」
どうしてそうなった。
俺はしばらく茫然と彼女を見上げていたのだが、彼女の背後で険しい顔をしているルーファスを見たら、話を合わせておこうと思ってしまった。いや、ジャスティーンは彼らから俺を守ってくれているわけだし。
「新婚生活は二人きりの方がいいかと」
「解った」
「逃がさないからな!」
ルーファスが続けてそう叫び、そして残念ながら本当に逃がしてもらえなかった。