第86話 血は水よりも
「……どういう状況だ……」
イリヤの茫然とした声が微かに俺の耳に届いたが、それに応える余裕のある者はこの場にいなかっただろう。何しろ、屋敷の外が騒々しい。おそらくここもすぐにその騒動に巻き込まれるだろう。
――さらに。
その騒ぎに乗じて魔道具を持ち帰ろうと動き出したコートニーと、金目のものが他にあるかもしれないと目を輝かせて廊下に出て行こうとするダイアナ、ただ一人身じろぎせず硬直しているカルヴィン。
ジャスティーンが微かに苦笑しつつ俺の肩を叩き、それからもう一度その視線をオルコット公爵に向けた。
その時、目の前に血の飛沫が舞った。
あっという間に床に生まれた魔術の文字列、緻密な模様。そこに青白い光が弾け、目の前にいたジャスティーンの身体が跳ね飛ばされたようだった。
「ジャス!」
思わず俺は手を伸ばしたが、それより早くジャスティーンの肉体がくるりと宙を舞い、応接室の隅に逃げ込んでいた。彼女は身を守るようにその場に屈みこみ、素早く視線を辺りに走らせた。
「大丈夫、怪我はないよ」
彼女は笑って目を細めたのだが、その声は緊張していた。
「……今はまだ、な」
そう声を上げたのはオルコット公爵である。
彼は身体を微かに震わせながら立ち上がり、流れ出る血など気にした様子もなくジャスティーンの方へ足を踏み出した。彼の足元に広がった魔術陣も一緒に動き、床に血が流れ落ちる。そしてその血が魔術の文字列を一層輝かせ、何らかの反応を起こしているようだった。
「……禁術」
ヴァレンタインの掠れた声が響き、それに気が付いたのかオルコット公爵が神経質そうな笑い声を立てた。
「首輪付き、貴様が言うことでもあるまい」
「……そうですね」
ヴァレンタインが自分の喉に手をやり、銀色に輝く魔力封じの魔道具を押さえる。「あなたも遠くない未来、『これ』を付けることになるのかもしれませんが? ここまでの騒ぎになってしまったら、隠し通すことは無理でしょう」
ヴァレンタインの視線がさらに素早くソランジュに向けられる。そこで僅かに彼女の瞼が動いたが、開くことはなかった。
「隠し通すことが無理でも、その前に――」
公爵はそこで一瞬だけ苦痛に眉を顰めたものの、ヴァレンタインを力なく見つめたままだった。だが何の前触れもなく公爵の魔術が実体化して、ジャスティーンの方へ襲い掛かる。
公爵の魔術師としての力は凄いものだったと、後で思い返した時に思った。
だが今は、純粋に驚いただけだった。
他の魔術師たちが放つ魔術というものには、必ず『前触れ』があると思う。体内に流れる魔力が膨れ上がり、魔術式として構成されていくのに時間もかかる。
しかし、公爵にはそれがない。
魔術を受けた方は、気が付いたら手遅れというわけだ。
「ジャス!」
俺は気づくのが遅れたことに僅かな自己嫌悪を覚えながら、慌てて彼女の元に駆け寄った。
部屋の隅に膝を突いていた彼女の両足には、青白い蔦のようなものが巻き付いている。しかも、その蔦の先端が槍か何かのように変形して突き刺さるのも見てしまって、自分の眉間に皺が寄るのも解った。
「……はは」
ジャスティーンは床に広がっていく自身の血だまりを見下ろしながら、虚ろに笑った。「昔からそうだった。あなたは他者に容赦がない。殴られるのは慣れていたけれど、これは初めてだね……」
――慣れていた? 殴られるのに?
また、俺の意識が理解しがたいものに乗っ取られた気がした。
でもそこで、ジャスティーンが俺を宥めるようにこちらの腕を掴んできた。ジャスティーンの視線はのろのろと侯爵へと向けられ、暗い炎がその双眸に灯るのも見えた。
「昔は、あなたの存在は単なる脅威だった。絶対に逆らってはいけないものだった。母と一緒に、女であるがゆえに蔑まれ、兄と差別されて生きていくのは理不尽だと考えていた」
「ではその悩みから解放されたらどうだ」
オルコット公爵が微かに鼻を鳴らした。
そして気が付けば、彼の左手には新しい魔術が完成していたようだ。青白い剣のようなものがそこにはあって、まるで生き物か何かのように低い唸りを上げている。
「我が由緒正しきオルコット家に無能な魔術師などいらんのだ。お前ごときが魔術師の真似事をしても、何の名声も得られん。だから最期に、私のために役に立て」
そこで、オルコット公爵の左手が素早く動いた。
魔術によって作られた剣は、それが利き手でないせいだろうか、宙にぎこちない弧を描いた。
何も考えられないまま、ジャスティーンの身体の前に飛び出す俺。オルコット公爵の魔術の剣の攻撃を避けることもせず、防御の秘術を使ってそれを受けた。
もちろんお互いの魔力が反発し合い、応接室の中は爆風に晒される。
今度は壁すらも吹き飛ばされるほどの衝撃があり、屋敷が不気味な揺れを伝えてきた。
当然だが、応接室の中にいた俺たちもその衝撃を受けたわけだ。
「馬鹿なの!?」
「わたしたちが逃げるまで待ってください!」
姉二人の叫び声が鼓膜を揺らしている。ヴァレンタインも何か叫んでいたようだったが、それよりもイリヤの悪態交じりの叫びの方が大きい。
「俺、今、めちゃくちゃ無力なんだけどー! 勘弁してくれよ、死ぬからな!?」
ヴァレンタインに抱え込まれるようにして庇われたイリヤには怪我はなかったようだが、ヴァレンタインの額や頬には血が飛び散っていて、それに気づいてから俺は『しまった』と思った。
――ごめん、やりすぎている。
「……でも、ジャスを傷つけようとするのは許せない」
俺はそう呟きながら、ただオルコット公爵を睨みつけた。
二度目の魔力のぶつかり合いでさらに深手を負ったらしい彼は、崩れ落ちた壁の近くで荒い呼吸を繰り返している。
片腕はなくても元は魔術師団のトップなんだっけ? 結構しぶといな、と思いながら俺は周りに向けて短く言った。
「先に逃げろ」
――屋敷の外で起きているらしい『何か』。
魔力のぶつかり合いみたいなものが感じ取れたが、思っていたほど長くは続かなかった。しかも、そこにいたらしい魔術師たちの気配が近づいてくることも感じ取れた。
そこで、やっと我に返ったらしいカルヴィンが慌ててヴァレンタインとイリヤに駆け寄り、簡易的な防御秘術を展開させた。さらに、逃亡のために新しい秘術を組み立て始めたようだ。
「……これは一体」
気が付けば、崩れ落ちた壁の向こう側にバルニエ家の若い魔術師が二人、立ち尽くしていた。彼らの視線の先には、目を閉じて床の上に倒れたままぴくりとも動かない主人――ソランジュ・バルニエがいる。
「いや、え? 逃亡したギャストンを見つけた、んですが……え? ソランジュ様?」
魔術師二人は冴えない顔色のままぼんやりと呟き、その近くにいたダイアナが呆れたように腕を組んで笑って見せている。
「それどころじゃないでしょうよ」
「あなた方も逃げるなら今が最後のチャンスですよ」
コートニーも乱れた髪の毛を直しながら頷く。「何だか、遠くの空に凄い魔力の大群がいます。こちらに向かってきているみたいですし……あれ、こちらのお仲間じゃないですよねえ?」
――そっちがルーファスだろうか。じゃあ、屋敷の外で感じ取れた魔力のぶつかり合いは、逃亡した魔術師と残っていた魔術師たちの争いか?
俺はそんなことを考えながら、ジャスティーンの傍らにしゃがみ込んだ。先ほどまであった蔦のようなものは消え去っていたが、裂けた絨毯の上に染み込み彼女の血は少なくはない。
治療は――と俺が顔を顰めていると、ジャスティーンは『必要ない』と言いたげに首を横に振った。やがて彼女がゆっくりと立ち上がろうとしたので、その足がふらつかないように俺は支える。
「ありがとう」
本当に小さくジャスティーンが俺に優しく囁き、俺の肩を叩く。一瞬だけ和らいだ表情はすぐに引き締められた。
そこからは一気に廊下の外が騒がしくなった。
二人の魔術師はまずいことになったと察知したようで、もちろん逃げることを選択した。他の魔術師たちにも声をかけながら、やがて来るであろう者たちから逃げるように促している。
コートニーもダイアナもこの場から姿を消したし、空気を読んだのかカルヴィンもヴァレンタインとイリヤを連れて外へ出ていこうとする。
ただ一瞬、カルヴィンが俺の方に視線を投げてきたが、それが妙に鋭かったのが気にかかったが――。
すぐに彼らの姿はこの場から消えた。姉二人も当然のように逃亡した。
残されたのは意識のないソランジュ・バルニエと俺たち三人。
「あなたの背中は大きかったですよ」
ふと、ジャスティーンがオルコット公爵に言葉を投げた。口調もさっきまでとは違って、他人じみたものに変化している。
「でも今は、とても小さい」
オルコット公爵が壁際でしゃがみこんだまま、憎々し気にジャスティーンを見上げる。それを見下ろしている形になったジャスティーンは、どこか嬉しそうな輝きを瞳に乗せた。
「昔のあなただったら、先ほどの魔術でこの場にいる全員を殺せたでしょう? でも今は違う。随分と弱くなったものです。年老いたと言えばいいでしょうか?」
「それは、右腕を取り戻せば」
そう言いかけた公爵の台詞を、右手を上げることで遮ったジャスティーンは、くつくつと笑い声を上げ始める。
「一度手に入れた権力は、そんなに魅力的でしたか? でももうあなたの時代は終わったんです」
「貴様――!」
そこで、ジャスティーンの表情が抜け落ちた。
「引き際が醜い」
それを聞いたオルコット公爵の表情も強張った。
ジャスティーンは小さくため息をこぼした後、ちらりと俺に視線を投げる。
「……ここにあなたと私しかいなければ、殺していたかもしれない。たとえ後でどんな罪に問われようとも、ね。禁術に手を出したあなたをオルコット公爵家の一員にしておくのは醜聞となりますから」
まあ、自分も醜聞に塗れているけれどね、などと小声で囁くのも聞こえたけれど。
「大義名分さえ整ってしまえば、私はあなたを喜んで殺すでしょう」
俺はそう続けた彼女の横顔を見つめながら、ジャスティーンのことが心配だった。きっと、俺には理解できないような確執が彼らの間にあるのだ。
「……はっ、自分の父を手にかけると?」
オルコット公爵が嘲るように言ったが、それよりもジャスティーンの声の方が冷えていた。
「自分を父と思うなと言ったのはあなたです、公爵。世間一般的には、『血は水よりも濃い』、『血より濃いものはない』という言葉があるようですがね? 間違いなく、世の中には血よりも濃いものがある。オルコット公爵家の血などくそくらえだ。滅んでしまえばいい」
そこで、ジャスティーンが急に俺の肩を抱き寄せて目を閉じた。
うーん、俺の出番はもうなさそう……なのだろうか。
困惑したまま俺がジャスティーンと公爵の顔を交互に見やると、そこでやっと彼女が安堵したように笑った。
「兄に断罪されてください。あの馬鹿真面目な兄は、きっとあなたにも容赦はしないでしょう」




