第85話 幕間20 ジャスティーン・オルコット
――状況を掴まねばならない。
話があると父が告げた後、私たちが向かったのはバルニエ家の応接室である。しかも、応接室自体に逃亡防止のために魔術がかけられていて、我々全員が閉じ込められている。
そしてそこにバルニエ家の魔術師たちの姿はない。逃げたと言われている魔術師を探して外に出たらしいが――さて、どうなることやら、だ。
少し頭の回る人間であったとすれば、バルニエ家に見切りをつけて逃げ出すなら今が最後のチャンスだと気づくだろう。
父は確かに有名な魔術師だったが、それはあくまで過去形だ。このバルニエ家――ソランジュ夫人と手を組んだとしても、凋落を絵にかいたような父がどれだけバルニエ家の悪事を隠し通すことができるのか。もうすでに、破滅の音が聞こえ始めている。
私は応接室の片隅に立ったまま腕を組み、沈黙を守ったまま頭を必死に巡らせていた。それに、動かせるのが思考のみという現状もあった。
父はさも当然であるかのようにわたしとイリヤに『服従』の魔術を使い、「ついてこい」と言った。この状態で逆らえば胸に鋭い痛みが走り、呼吸すら危うくなる。これは普通、犯罪者にだけ使用が許されている魔術だ。
父にとって、私という存在はその程度の価値しかないのだろう。
今となっては、その事実に失望することもない。当たり前のようにそれを享受するだけとなった。
だが、それでも。
幼い頃に芽生えた憎悪が消えることはなく、ただ冷えた感情が全身に行き渡る。
父を殺す夢を幾度も見た。目が覚めるたび、そんな夢を見たという罪悪感よりも、『やってやった』という暗い喜びに身を震わせたことを覚えている。そして、ただの夢なのだと言い聞かせるまでがいつもの流れだ。
だから父が右腕を魔物に喰われて失ったと聞いた時は、一人で祝杯を上げた。それを他人が聞いたら眉を顰めることだと解っているが、ただ嬉しかった。
幼い頃、母に冷たく当たる父に逆らうことが多かった。そのたびに、手を上げられたことを思い出す。手袋をした大きな手で殴られ、私の小さな身体は簡単に吹き飛ばされた。
母はそのたびに身を挺して庇ってくれたが、そうやって彼女の身体に痣が増えていくのが悔しかった。私が母を守ることができないという、明確な証だ。
父が母を幸せにできないのなら、私の手で何とかせねば――そう思っていたのに、不幸のまま母は亡くなった。
あれからずっと、私は父の不業の死を願い続けている。
誰かを憎むということは、意外と体力と気力を使う。鏡の中に映った自分の顔は、最初、本当にこれが自分なのかと疑うほど険しかった。
警備団に飛ばされて毎日が平和だったから、そんな歪んだ感情を少しだけ忘れていた。鏡の中に映し出された顔も、穏やかに見えるようになったというのに。
こうして父を目の前にすれば、簡単に憎悪に囚われてしまう。
「魔女と手を組もうっていうなら、お金でしょ、お金」
ダイアナ嬢のそんな声に、ふと意識を引き戻される気がした。我に返るとソファに座っている彼女が嫣然と微笑んでいるのが見えた。
相変わらず、ダイアナ嬢とコートニー嬢はどんな状況にも動じないようだった。二人はソファに並んで座っていて、父を相手にして当然のように交渉を始めていた。
「わたしは魔術師が造る魔道具に興味がありますので、ぜひその情報をいただきたいのですが」
その二人の背後に立っているのがユージーンとカルヴィンだ。
困惑した表情で何か言いたそうにしているカルヴィンは、幾度も隣に立っているユージーンに視線を投げていた。だが、ユージーンはいつになく強張った表情で父を見つめたまま人形のように固まっていて、カルヴィンの様子に気づいていないようだ。
別のソファにはイリヤとヴァレンタインが腰を下ろしている。イリヤは魔力がないためか、『服従』の魔術をかけられても私ほど苦しんではいないようだった。だが、かといってヴァレンタインがそれを許すわけもなく、明確な敵意を持って父を睨んでいた。
そしてソランジュは穏やかに微笑みつつ、ソファに座ってお茶を飲んでいる。
ある意味、彼女がこの場で一番、状況を理解していなかったのかもしれない。おそらく彼女は、父が自分の味方についたことで安心していたのだろう。一度は王宮の魔術師団の中で魔術師長という立場に立った男を、信頼しているのだと思うが――。
「お金で雇えるならそれでいいわ」
そうこともなげに言った彼女は、もうすでに話し合いには興味を失っているようで、退屈そうに視線をテーブルの上に落としている。
「……雇われてもいいですが、こちらとしては迷惑なことは避けたいと考えています」
そこでユージーンがぎこちなく口を開いた。
冷えた口調で話す彼――彼女?――の表情はいつもと別人に思えた。それに心なしか、いつもよりゆっくりと話すことを心がけているようだ。
これは多分、時間稼ぎだ。
さっき、ユージーンはわざと私に手首につけた魔道具を見せたようだった。つまり彼はあれを使って、兄に連絡を取ったということだ。
王都にいる兄が行動を起こせば、この後どうなるか。
飛竜を使えば、あっという間にバルニエ邸にやってくることも可能だ。だとすれば、あと少し大人しくしていれば――あの真面目な男が部下を連れて乗り込んでくる?
だとすれば私は下手に動かない方がいい。私が沈黙している間にも、ダイアナ嬢たちが色々と話をしている。この応接室に入ってから、確実に時間は過ぎている。
そう、このまま父にかけられた魔術に従い、大人しくしていれば兄が――。
そんなことを考えている間に、少しずつユージーンが早口になっていった。
「我々も叩けば埃の一つや二つ簡単に出るものですから、これ以上厄介ごとに関わってそれが表ざたになった場合、いくら魔術師が魔女に関わらないと言っても問題が出てくるでしょう。正直なところ、はした金程度で関わりたくはないのが本音です。しかも、そちらの魔術師が考えているのが腕の再生でしょう? 生贄がいくらあっても足りない、禁術と同様の行為です。確かに、あの地下にあった魔道具は凄いと思います。あれを利用して、さらに改良を加えれば肉体の再生も可能なものになるのかもしれませんが、その計画に関わったらまた俺の一族の悪名が轟くことも明らかなわけで。もう本当に、迷惑で仕方ないんです。大体、うちの一族は昔から良からぬことをしでかしてきたのは明白なんです。母も父も、とんでもない。それでも、その悪事は自分の家族を巻き込むことはしなかった。むしろ、家族のためにやってきた結果が俺だ。俺がこんな身体になったのは母の我が儘だった。でも、それでも」
「ちょっと」
ダイアナ嬢が困惑したようにユージーンを振り返りつつ、ソファから立ち上がる。
気づけばその場にいた全員の視線が彼に――黒髪の美少女に向けられていた。
ユージーンはさらに眦を吊り上げ、ソランジュの後ろに立っている父に向って言葉を吐き出した。
「それでも、血のつながった実の娘を素材にしようという、あなたよりはマシだ」
口調が荒れているとか、それ以前に彼の言葉の内容に私が眉を顰める。
素材。
つまりそれは。
私が口を開こうとしたその時、それほど遠くない場所で魔力の乱れを感じた気がした。
自分にかけられた父の魔術のせいで上手く読み取れないが、父はきっと気づいただろう。目の前で険しい表情を見せているユージーンの存在よりも、ずっと厄介だと思われる動きがバルニエ邸の外にある。
そのタイミングで、ユージンは右手を上げて続けた。
「何だかよく解らないけどムカつく。ジャスのことをただの道具としか思ってないのが見え見えで、何だか……損得関係なく殴りたい。俺、あまり争いごととか面倒だし、逃げるのが得意だったけど、そんなの本当に関係ないんだ。何もかも面倒くさい」
その台詞が終わった途端、彼の手のひらから青白い光が弾けた。
「ちょっと!」
「嘘!?」
「おい!」
などという、混乱に満ちた叫びと同時に、凄まじい轟音が響く。彼自身も理解していたはずだ。この応接室にかけられている魔術と秘術がぶつかり合ったらどうなるのか。
床が揺れ、応接室のテーブルもソファも吹っ飛ぶくらいの振動。置いてある家具、彫刻や絵画、あらゆるものが粉砕するほどの魔力の暴発。
しかもその衝撃波が我々に襲い掛かる前に、ユージーンは防御の秘術を全員にかけていたらしい。まあ、全員というのは誤りで、父とソランジュにはかけていないようだったが。
だが、さらなる秘術が展開されたことで、先ほどよりも小さい衝撃が続けて起きた。屋敷が崩れなくてよかったと思うほど、凄まじい結果が目の前に広がっていたわけだ。
そして気が付いたら私の目の前にユージーンがいて、情けなく眉尻を下げて申し訳なさそうに微笑んでいた。そして、私を守るかのように抱き着いてくる。
「えーと、ごめん?」
言葉に迷ったのか、何のための謝罪なのか解らない声が彼の口からこぼれた。
私が硬直していたのは本当に一瞬で、我に返った瞬間、思わず彼を――私よりも幼い身体つきの彼女の身体を抱きしめてしまっていた。
「無茶するね?」
そう彼の耳元で囁くと、苦笑交じりの返事があった。
「うん、うっかり」
――うっかり、ねえ。
でも何故か。
そんなユージーンが好ましく思えたというか。
今までとは違う表情も好きだというか。
いつも飄々としている様子を崩したのが、私に対する父の態度だったということが嬉しかったというか。
上手く表現できないのだが、本当に凄く……胸に響いたのだ。
私が彼を抱きしめたまま辺りを見回すと、床に倒れこんでいるソランジュと、彼女の傍に膝を突いている父が見えた。防御魔法も出せずに衝撃を受けたのだろう、衣服が裂け、血で汚れているらしい父は随分と小さく見えた。
気を失っているらしいソランジュの怪我も酷いようであったが、父が庇ったのか致命傷的なものはなさそうだ。だが、その美しい顔には血が飛び散っていて、頬には大きな傷ができていた。むしろ、美というものにこだわる彼女にとっては、それが致命的とも言えるだろう。
「貴様……」
父が腹の辺りにある怪我を押さえながら立ち上がろうとすると、急にユージーンが私の肩を押してそちらを向いた。
「もう一発、ソファであの男を殴り倒してから逃げよう」
――ソファで?
「いや、あのね、ユージーン?」
「で、どさくさに紛れてあの魔道具を盗んで帰ろう。逃げ遅れたらマズイことになるのは確定だし、面倒なことはルーファスに押し付ければいい。もう厭だ、帰りたい。俺、どうしたんだろう。感情に抑えがきかない」
「うーん……」
どうしたものか、と私が言葉を探している傍らで、コートニー嬢が嬉しそうに両手を叩いて言った。
「早く盗んで帰りましょう! 持ち帰って研究させてもらいます! それはもう、全力で!」