第80話 潜入という言葉の意味
「時間さえあれば、その期待に応えるんだけどね」
目を細めて俺を見下ろす彼女の瞳は、僅かに奇妙な感情に揺らいでいるように見えた。彼女の右手が俺の頬を撫で、そのまま首筋に降りていくと、これはまずいと焦ってしまう。
「じ、時間。ないって、意味」
俺の混乱が台詞の組み立て方を忘れたようで、単語の羅列のようになった。そんな俺に対して、馬乗りになっている彼女は何も考えるところはないのか、その指先が喉元から鎖骨辺りにまで滑っていく。
「ユージーン、君は私が他の誰かと時間を過ごしていたら嫉妬してくれるかな?」
「は? え?」
「私のこと、少しくらいは好きでいてくれている? 恋愛的な意味で。私と夜を一緒に過ごしたいと考えてくれる?」
あ、これは駄目だ。そう唐突に理解したのは、俺の上に乗ってる彼女の視点が俺ではないものを見ていると気づいたからだ。
……何か、あった?
「ジャス。まず、落ち着こう」
俺も深呼吸して言葉を取り戻す。思考回路がゆっくりと動き始めるのを自覚しながら、次の言葉を口にした。
「何かあったのか? 何だか急に様子がおかしいというか、別のことを考えているように思えるんだけど」
「……さっき、彼女と少し話したんだけどね、泊まることになりそうだ」
「彼女。ソランジュ・バルニエ」
「そう。もっと彼女から話を引き出すためには、不本意ながら多少の……」
そこで、僅かにジャスティーンは苦し気に息を吐き、いたずらをしようとしていた手をとめた。それから、俺の上から退いてベッドの端に腰を下ろし、額に手を置いて疲れたように俯く。
「時間稼ぎだけして、頃合いを見て帰ろうという予定だったのにね。予想外の展開になりそうで……少しだけ、動揺しているんだろうな。やっと逃げ切ったと思ったのに」
「逃げ切った?」
俺もベッドから身体を起こし、僅かに距離を置くようにしてジャスティーンの横に座り直した。横目で彼女の苦悩交じりの表情を窺い、思わぬところで『弱さ』を垣間見たと思った。咄嗟に手を伸ばしたくなったが、触れてもいいものか解らないから自分の手は宙を彷徨うだけだ。
そんな中で響いた彼女の次の言葉は、さらに沈んだものになった。
「父の名前が出た」
「え?」
ジャスティーンの父親の名前?
っていうか、それを持ち出したのはこちら側では? ジャスティーンはソランジュに訪問した理由として口実に使ったはずだ。
だが……そうか。
ソランジュ・バルニエからもその名前が出たってことなのか。
だから。
「彼女が嘘をついているのでなければ、おそらく私は父とやり合うことになる」
ジャスティーンがそう続けたことで、俺の予想が当たっていたのが解る。だから俺はこう訊いた。
「ええと……手伝いが必要ってことか?」
「いや」
気が付いたら、ジャスティーンの手が俺の手を握り込んでいた。俺の膝の上に置かれた自分の手が、緊張なのか何なのか解らないが、僅かに震える。
俺に向けられたジャスティーンの双眸には暗い光が浮かんでいて、その声も強張っていた。
「私はきっと、父の前では冷静ではいられない。でも君の前では格好つけた自分でいたいんだ。私のことを少しでも好きになってもらえるようにね」
「え……と」
「君が『普通』だとしたら、私は『普通』じゃない。自分の内面が歪んでいることは、自分が一番よく知ってるんだよ」
彼女はそう言って、ベッドから立ち上がってしまった。
そのまま客室のドアの前に歩み寄り、何らかの魔術をかけたんだろう。本当に僅かな魔力の流れが揺らいだかと思えば、扉の鍵が解除されたのが俺にも伝わってきた。
俺に背中を見せた状態で、彼女は小さく笑った。
「だから……タイミングを見て、彼らを全員連れて先に帰っていて欲しいんだ。飛竜の魔道具には警備団の宿舎までの空路が登録してあるから、私抜きでも帰れる」
「いや、あの」
俺は慌てて彼女の後を追って立ち上がる。
そして。
「俺、普通じゃないのは見慣れてるし扱いなれてる」
「……何?」
ジャスティーンがそこで振り返って困ったように俺を見下ろすので、ついニヤリと笑ってしまう。
「姉たちに比べればジャスは普通どころか平凡」
「平凡……」
「ジャスは団長で俺は団員。こき使ってくれていいわけだし、それに」
「それに?」
「多分、そう簡単に俺たちだけで逃げるのは無理のような気がする。何かひと騒動おきそうだ」
どういうことだ、とジャスティーンが表情で問いかけてきたので、俺はギャストンとかいう魔術師の『潮時だな』という独り言が気になった。彼だけここから逃げ出すかもしれない。
それに、これから客室を抜け出して姉たちと合流したとしても、きっとそこでもこの客室と同じように何らかの魔術がかけられている可能性が高い。ということは。
魔女の秘術で魔術を壊そうとすれば、どこかの小屋みたいに吹き飛ぶだろうし、そうなったら追っ手に見つからずに逃げることは不可能のような気がする。
「というわけで、俺は姉たちが暴走する前に何とか引き留めてくるので、適当なところで助けにきて欲しいというか……」
と、わざと彼女の袖を掴んで『お願いします』という意味を込めて上目遣いで見上げたら、ジャスティーンの喉からくぐもった音が漏れた。
「……あざとい……」
彼女が額に手を置いて呻く。
俺の初めての色仕掛けっぽいものは成功したようだ。精神的に苦しんでいそうなジャスティーンを何とかしたいと思っただけの、俺が男として大切なものを失ったような気になるだけの、内心複雑になるだけの技。だが、開き直ってしまえば何ということもない。……多分。
俺が拳を握りしめて笑っていると、ジャスティーンも小さく笑い声をこぼした。
その後は予想通りと言うか、何と言うか。
俺に無理はしないようにと言い置いて、ジャスティーンは客室から出て行った。彼女がバルニエ公爵夫人と魔術師たちを足止めしてくれている間に、俺も客室を出て姉たちの魔力を探したのだが。
「面倒だから壊してしまえばいいのよ」
と、苛立ったように腕を組んでいるダイアナと。
「魔女の秘術で壊すんですか?」
と、無表情なのに凄く厭そうなのが伝わってくる声音のヴァレンタイン。
「俺、ここに必要?」
と首を傾げている幼女、誰かが魔術を壊してくれるのを待っているだけのコートニー。何をしたらいいのか解らず、途方に暮れた様子で周りを見回していたカルヴィン。
そんな彼らを見つけたのは、バルニエ公爵邸の裏庭の一角である。美しく刈り込まれたたくさんの植木、石造りのベンチや花壇、そういったものに隠されるようにして、地下へと続くらしい石扉が地面にあった。
明らかに魔術による鍵がかけられているその扉を見下ろしながら、全く隠れようともせずに小声で話し合っている彼らを見つけた時には、この世のすべてを恨みたくなったものだ。
別れて潜入しようとした意味! 潜入という言葉の意味すら理解していないのだろうか!?
何故、こんなに堂々としているのか!
「会いたかった」
呆れ切って植木の陰で座り込みそうになった俺を見つけたのか、カルヴィンが両腕を広げてこちらに歩み寄ってきたので、とりあえず避けておく。この裏庭には他に人の姿は見えないが、公爵邸と離れをつなぐ渡り廊下には使用人らしき姿もあったし、建物のあらゆるところで魔術師らしい魔力の塊が動いているのも感じ取れる。彼らがいつこちらの様子に気づいてもおかしくない状態だ。
「例の魔道具は見つかってないのか」
俺が気を取り直して、そう小声で訊きながらヴァレンタインの近くに歩み寄ると、彼は困ったように首を横に振った。
「いや、おそらくこの地下にあります。自分の血を使った魔道具の気配くらいは読み取れますから、間違いないですね」
「どのくらい血を使ったんですか?」
そこで、何故か頬を染めたコートニーがそわそわとした動きで俺たちの間に割り込んでこようとしたが、とりあえず俺もヴァレンタインも聞き流しておいた。
「秘術で鍵を壊そうとすれば、どこかの誰かのように爆発させるのが確定ですので」
「おい」
カルヴィンの突っ込みらしい声も聞き流しておく。
「別の方法で開けるには……」
と、眉根を寄せて見せたヴァレンタインが、その視線を俺の喉元に固定させた。「それ、何ですか?」
彼の視線の先を見下ろして、俺はジャスティーンから受け取ったネックレスを手で押えた。青く輝く魔石付きの魔道具だが、そう言えば正確な機能を聞いていなかったな、と思った。
「これは使えますね。ちょっといいですか?」
ヴァレンタインが安堵したような声音で続けたので、俺は素直にそれを首から外して渡す。彼はネックレスの裏表をじっと確認した後で、地面に膝を突いて石扉の上にそれを置いた。
「針程度に細くした魔力を流せますか?」
ヴァレンタインはすぐ傍にいたコートニーを見上げてそう言うと、「お任せください」と嬉しそうな声が飛ぶ。
ヴァレンタインが手短に説明してくれたのだが、そのネックレスには防御魔術のための言語が緻密に組み込まれているらしい。そこへ、他の魔術言語と重ねて魔力をぶつけることで、反発力を引き起こしてどうこう……よく解らないが、鍵を壊す衝撃を生じさせるんだとか。
そんなことを聞いている間にも、ばちん、という音が響いて石扉が開く。そして目の前に現われたのは、意外にも大きな地下へと続く階段である。階段の両脇には魔道ランプがついていて、隅々まで煌々と照らし出していた。
辺りを見回してみても、誰もこちらに気づいていないようで、近寄ってくる魔力は感じられない。俺はネックレスを拾い上げ、そのまま皆と一緒に地下へと降りることにした。もちろん、念のため石扉で入り口は塞いでおいた。
しかし、これはかなり順調なのでは。
後は、目的の魔道具を奪って逃走すればそれでいい。皆を逃がした後で俺はジャスティーンと合流して、この屋敷からお暇して終わり。
そう信じたかったのだけれど――。
「……改造されてますね」
ヴァレンタインがそう言った辺りから、不穏な空気が漂い始めたのだった。