第79話 魔女のくせに普通
――困った。
俺は人の気配が消えてからベッドから降り、客室の中を歩き回りながら小さく唸った。
寝室の隣には居間があり、ソファの他にも大きなテーブルと椅子があった。テーブルの上に置かれた水差しとグラス、花瓶に飾られた色とりどりの花。
さすが公爵家の客室ということもあって、調度品はどれも一流品だ。靴の裏に感じる柔らかな絨毯の感触も、居心地の良さも格別。
ただ――。
この客室には、見事に魔術による脱走防止の仕掛けが施されている。
――こっそり抜け出して、姉たちの様子を見に行こうと思っていたのに。
俺はバルコニーへと続く大きな窓に手をかけようとして、慌てて動きをとめた。下手に触ったら、魔術をかけている奴に知られてしまうかもしれないと思ったからだ。
窓の外を見るに、どうやらこの客室は二階にあるようだ。魔術さえかけられていなければ、逃げ出すのは簡単だろうに――。
んんん、と唸りつつ腕を組んで首を傾げていると、誰かの気配を廊下に感じて慌てて身を翻した。自分の足音が絨毯に吸い込まれて聞こえないのは助かる。もう一度寝室に戻り、ベッドに潜り込んで目を閉じた瞬間、ドアに仕掛けられている魔術が解除されるのが解った。
さっきジャスティーンと一緒に来た魔術師だろうか。ドアの向こう側に感じる人物は、どうやら俺と同じように気配を窺っているようだった。
ドアが開いたのは少し時間が経ってからだ。
足音は聞こえないが、呼吸だけは響いている。
厭な予感がする。いざとなったら寝てるふりをやめて殴り倒していいだろうか、と考えた時だった。
「何をしている」
唐突に、何の気配もなく新しい声が響いた。『新しい』と知ったのは、呼吸音だけ響かせていた人間が小さな驚きの声を上げたからだ。俺も悲鳴を上げそうになったし、身体が震えそうになったのを必死に堪えて息をとめる。
「いや、これは!」
若い男性の声が必死に何か弁明をしようとしたが、後から現れた男性は苦々しさを含んだ声でそれを遮った。
「それはソランジュ様のモノだ。先に手をつけようとしたのか?」
「その、それは」
「お前の失敗を隠してやった恩を忘れたのか。また余計なことをしようとしたんだな?」
「恩は確かに感じてるけど、でも。見逃してくれないか、ギャストン……」
その時、ギャストンと呼ばれた男性が何かをしたのだろう。若い男性の苦痛を伴った呻き声が響いた。
「お前のせいで」
その言葉の後、寝室から二人が出て行く気配がした。無理やり引きずられたのか、絨毯では隠しきれなかったどたどたという足音も聞こえる。
「……死体が見つかったのは……」
ドアの向こう側、居間に二人がいるらしい。ギャストン――おそらく、この屋敷の主のソランジュの傍にいた壮年の魔術師だろう――が若い男を問い詰めているらしい声が聞こえる。
「……可能なら生かしたまま帰してやる予定だったろう。それをお前が余計な欲をかいたから足がついた。どう責任を……」
「だ、だって記憶は消して帰すって言ってたから。もったいないと思って……」
「だから意識朦朧としている女に乱暴しようと? しかも、抵抗されて殺したとか、どれだけ間抜けなのだ」
「でも。死体の一つや二つ、増えたって今更……」
俺はそっと目を開けて、ベッドに横になったままドアの向こう側の会話に耳を澄ませていた。
ほんの少しその会話を聞いただけで、何となく状況が理解できる。
「……そうだな、一つや二つ、増えても問題はない」
ギャストンの平坦な声が続くと、明らかに若い男が安堵したように笑った。
「そ、そうだよな? 今までだってたくさん死んで……」
「ああ、お前の死体が増えても大丈夫だ。今度は死体が見つからないように獣の餌にでもさせておく。安心しろ」
――あ。
俺は思わず唇を噛んだ。
その直後、扉の向こう側で響いた鈍い音。それは骨が砕けるような音だったと思う。
そしてそれに続く、不安を感じさせる静寂。
ギャストンらしい気配と魔力だけが揺らめいているのを感じながら、俺は複雑な気分だった。
あの若い男は、薬を盛られて意識を失っている俺に手を出そうとしたんだろう。不本意とはいえ、今の俺はそれなりに見目のいい女だ。
彼はどうやら女性を襲うのがこれが初めてではないようだし、以前はそれで『成功』したこともあったのかもしれない。
ただ、成功した後に口封じをしたものの、死体の処理は下手だった。そういうことだ。
そして結局、ギャストンに殺される羽目になった。
寝室にギャストンが足を向けたのを感じて、俺はもう一度目を閉じる。ドアの開く音の後に、俺が起きていないか観察するような気配。そして、小さなため息と共にドアが閉められた。
「……バジルがいなくなったのもそうだが、もう潮時だな」
そんな独り言が聞こえた後、客室から廊下へ彼が出て行ったのが解った。
――バジル?
俺は先ほどのギャストンの言葉を思い出し、『あの』バジルのことだろうか、と眉を顰めながら目を開けた。
もしも同一人物であるのなら、彼はスモールウッド家に幾度も足を運んできた若い魔術師のことだ。
『うっそ、あんた魔女のくせに普通なのな!』
そんな笑い声交じりの彼の声を頭の中で思い浮かべながら、ベッドから身体を起こしてゆっくりと居間へ続く扉を開けた。そこには何の異常も見られない、先ほど見たばかりの光景があった。
廊下へ続く扉にかけられた魔術も何の変化もなく、やはり俺はどこにも出られないようだ。
仕方ないからベッドに戻り、そこに腰を下ろしてため息をこぼす。
「普通……」
俺は彼――バジルに困惑を見せたと思う。
彼に言われるまで、自分が『普通』だと考えたことがなかったからだ。魔女の家に生まれ、魔女として育った。それも、特別である男の魔女として。
だから、自分がいつも異質だと感じていた。
「それ、褒めてます?」
俺がそう問い返すと、癖っ毛の金髪頭が何度も頷いて見せた。
「褒めてる褒めてる!」
彼の無邪気そうな緑色の瞳が煌めき、楽し気な笑い声も上がる。スモールウッド家の応接室で、俺が持ってきた薬を受け取った彼は、無造作に金の入った袋をテーブルの上に放り投げた。
「ほら、魔女っていい噂聞かないじゃん? 頭おかしいとか暴力的だとか理性がないとか話が通じないとか!」
「……まあ、否定はしませんが」
俺は顔を顰めながらその袋を手に取り、中身を確認する。いつも通り、いつもの流れだ。それを見守りながら、彼は唇を尖らせた。
「あんたが魔女でなければ、引き抜くんだけどなー」
「引き抜く?」
「そ。うちの職場、金払いだけはいいから! その分、やべーことさせられるのはしゃーないけどな!」
「……聞かなかったことにしておきます」
「おう!」
にしし、と笑った彼は、ソファに座ったまま上機嫌に身体を揺らしていた。それだけ見ていれば、彼が命に係わる問題を抱えているようには思えない。
「あんた、すっげー魔力持ちなんだろ? だったら手を組んだら何でもできそうだと思ったんだけどな、もったいねえ」
「手を組む……」
「可能性はないかもしんないけど、もしも仕事が欲しいなら声をかけろよ!? 俺、何か手伝ってやっから!」
……いちいち、騒々しいなあ、と思いながらもそれが嫌味を感じさせない男だった。
だから、俺は苦笑しながら彼に頼んだのだ。
「もしも、俺がこの家を出るようなことがあったら頼みたいんですけど」
「おう?」
「この屋敷に残るのは生活破綻者だけだと思うので、薬代は食料とかも含めて支払ってもらえたら助かります」
「食料? そんなんお安い御用だね! その分、値引きしてくれるんだろ!?」
そうだ。
俺は彼に食料を頼んであった。どうせ、まともに料理など作れない人間ばかりなのだから、せめてそのくらいは――と思って。
――バジルがいなくなったのもそうだが――
さっきの台詞。
ギャストンが言っていたのは、何だったのだろう。バジルはここで働いていた? そして姿を消した? ではどこに行った?
俺はそこまで考えて、どうせ確認できないなら考えるだけ無駄だと結論づけた。
そして諦めてベッドの中に潜り込む。俺は一応、薬を盛られて意識を失っている設定である。どうせもう一度、ギャストンはここへ戻ってくるだろう。ソランジュという女主人のために、俺の血を抜くために。
だが、予想に反してギャストンよりも先にジャスティーンが姿を見せた。
「洗面所に行くという理由で、ちょっとだけ抜けてきた。大丈夫だった?」
明らかに魔術を使って寝室に『飛んできた』と思われる彼女は、寝ている俺の腹の上に跨って見下ろし、こちらの頬を撫でてきて――。
「……今、何故か身の危険を感じているんだけど、これは大丈夫に含まれるんだろうか」
俺は目を細めて彼女を見つめた。