第58話 幕間11 ヴァレンタイン・スイフト
「うっそだろ……」
目の前の男は、苦痛に呻いて身を屈めた。魔力を封じられてしまった今の自分は、彼がどんな魔術を使おうとしたのか読み取ることができない。それでも、爆発するかのような魔力の流れだけは感じることができた。
ああ、凄い魔力だ。
だから逃がすわけにはいかない。
私の右手の中にあるのは、遥か昔に手に入れたドラゴンの爪。それに宿っていた魔力は、ウェンディの肉体の保管のために使ってしまったけれど……咄嗟に手にした武器としては優秀だった。棍棒のように握っていたドラゴンの爪を、今度は刃物のように持ち直す。鋭く尖った方を彼に――殺さない程度に使うにはどうしたらいいだろう?
その僅かな逡巡が隙になったのかもしれない。
彼――カルヴィンという名前だけしか知らない男が、後頭部を押さえながら素早く身体を反転させた。私の攻撃が届かない位置にまで逃げた彼は、そこで自分の手を見た。頭から少しだけ流れ出した血が、その手のひらを赤く染めている。
もったいないな、と思いながら私は首を僅かに傾けた。
血。血。血。
今の自分は、それに何も感じることができない。昔の自分だったら、明るく正しい道だけを歩いていた自分だったら、誰かを傷つけることなんて絶対にしなかったはずだ。
でもそれは、ウェンディが傍にいてくれたからだ。
彼女のために、自分たちの未来のために、選んで歩いた道だからだ。
「本当に、殺すつもりはないんですよ」
そう続けて言いながら、ウェンディの笑顔をなくしてからやってきた自分の罪を思い出す。私の手は罪に汚れている。
ウェンディは優しかった。明るくて無邪気な性格だった。私が誰かを傷つけることを……彼女は望んではいないだろう。だからせめてもの決意として、他人を傷つけたとしても命までは取らないと決めた。
だからカルヴィンも殺すつもりはない。
ウェンディが目を覚ましてくれるまで、ただその魔力の宿った血を――。
『すまない、ヴァレンタイン』
唐突に、頭の中で聞きたくもない声が弾ける。
何故、こんな時に聞こえるんだろう。彼女を失ってから、幻聴が聞こえるようになった。思い出したくない光景が目の前に広がる。忘れてしまいたい光景。
棺の中に入れられたウェンディ・ランチェスターの真っ白な顔。
魂が抜けてしまったその肉体は、ウェンディのものとは思えないほど……人形じみていたと思う。
だから最初は信じられなかった。ウェンディに似た人間が死んだのだと思った。それなのに。
『事故だったんだ。首の骨が折れたらしい』
兄――トリスタン・スイフトが棺の前で神妙な表情を作っていたが、その視線が僅かに私からそれていた。
彼は知っている。兄は何かを知っていて、隠している。嘘をつく時、何か都合の悪いことを誤魔化す時、必ずその明るい茶色の瞳は私の目から逃げてしまう。
「何があったのか教えてください」
私がそう言うと、さらにトリスタンの表情は苦渋に満ちたものに変化した。結局彼は、私に何も教えてくれなかった。
その代わり、何があったのか徹底的に調べた。
そして自分と血のつながった彼を軽蔑するに至ったのだ。
私は幼い時に一歳年下のウェンディ・ランチェスターと婚約した。彼女は公爵家の一人娘で、婿となる男性を探していた。私はしがない子爵家の次男であったけれど、幼馴染としてお互いの屋敷を行き来しているうちに幼いながらも恋に落ちた。幼いがゆえに純粋だったと思う。二度とこんな感情は持てないと思うほどに強く、特別な想いとなった。
残念ながら、私は女性に人気のあるような綺麗な顔立ちではないと自覚していた。
だからそれ以外で、彼女の隣に自信を持って立てるよう努力した。
私は魔力が他人よりもかなり多かったから、それを活用しない手はない。学園で魔術を学び、王宮の魔術師団に入って活躍すれば誰もが私を認めてくれるだろう。
そうして、結果を出したのだ。
将来有望な魔術師として足を踏み出すことができた。
そして、ウェンディよりも一年先に学園を卒業し、王宮の魔術師団に入って働き始めた矢先の出来事だ。
私が忙しくしている間に、兄がウェンディを口説いたらしい。
そんな兄、トリスタンにも婚約者がいた。我々よりも身分の高い伯爵家の三女で、子爵家の跡取りである兄の妻として来てくれる貴重な女性。だが、気の強い――高慢な少女だったのだという。
兄はその彼女にいいように扱われていて、身分差もあって何も言い返すことができない生活を送っていた。そこで、私の婚約者のウェンディの優しさに惹かれ、横恋慕をした。
もちろんウェンディは兄の誘いを断ったし、相手にしなかった。
でもそれはトリスタンの婚約者の耳に入り、諍いが起きた。
『事故だったんだ』
兄はそう言ったけれど、実際は兄の婚約者――ペネロピ・ファーカーに階段から突き落とされたのではないかと噂が聞こえてきた。
ウェンディとペネロピは同じ学園に通っていて、事故は学園内で起きた。事故の目撃者はいなかったらしいが、ウェンディに嫌味を言うペネロピの姿は幾度も見かけられたから――そういう噂が出回ったのだ。
それから、貴族同士の腹の探り合いがあった。
ウェンディは殺されたのか?
兄がウェンディを口説こうとしたから、ペネロピが恋敵を排除しようとしたのか?
結局それはうやむやにされた。貴族は醜聞を嫌うから、まともに調査などしないまま事件は事故とされ、揉み消されることになった。
私は兄を恨んだし、兄の婚約者も同様に憎んだ。
それでも、私は。
学園の禁書庫で読んだ魔術書を思い出して、恨みつらみを自分の中から消し去るためにそちらに意識を向けたのだった。
ドラゴンや魔物の心臓、爪、骨、血。
あらゆる魔物から取れる魔石。
色々な種類の金属、石。
魔力を秘めた物質なら何でも。
学生時代の記憶を頼りに、その本に書かれていたことを実行する。
ウェンディの死因が首の骨折だったことが幸いだった。肉体の欠損があれば、それと同等のものが復活に必要となる。私は他の人間の死体を墓から掘り返し、首の骨だけを回収すればよかった。
その他には、新鮮な血。人間の、魔力を秘めた血。これは街で適当な人間に声をかけ、金で買った。
問題は彼女の魂を肉体に呼び戻すこと。
これは私の記憶の中では一番曖昧な部分だ。禁書である魔術書の中でも、簡略化された魔術文法しか載っていなかった。おそらく、残してはいけない情報だったのだろう。
だから私は色々な文法を組みなおし、何とか完成させようとしたが……どうやっても上手くいかない。そうしている間に、彼女の肉体の劣化が進む。
だからまた新しい血を与える――この繰り返しだ。
だが、私がやったことは禁じられていることであり、隠し通すことができずに明るみに出ることになった。あれほど努力して手に入れた魔術師としての立場は剥奪され、魔力を封じる魔道具を取り付けられた状態で何らかの罰を受けることが決まった。
そこで私は逃げたのだ。
ウェンディの身体と共に。
その時にはウェンディの肉体は完全に生きていた頃の美しさを取り戻していたし、ここで諦めるわけにはいかなかった。もう少しなのだ。あと少しで完結する。終わる。彼女が戻ってくる。
「諦めるわけには……」
そう呟きながら、必死に頭を振る。幻聴はまだ聞こえている。頭の中に兄の声がこだましている。
『事故だったんだ』
『事故だったんだ』
『事故だったんだ』
こめかみに痛みが走る。脈打つ血が暴れている。血管を突き破り、そのうち吹き出すかもしれないと思えるほどに。
「お前、頭おかしいだろ」
カルヴィンが舌打ちしながら言うのが聞こえた。やっとそこで、現実の世界が目の前に広がった。もう兄の声は聞こえない。カルヴィンの声にも魔力が宿っているのだろうか。幻聴をかき消すくらいの力が。
それに安堵して、私の鼓動が緩やかになる。
「……そうですね、ずっと狂っていますよ? もう自分がどこに向かっているのかも見失うほどに」
「一人で狂ってろよ、くそ」
彼は乱暴に手のひらを自分の服で拭い、冷ややかな視線をこちらに投げてくる。そして意外なことを言ったのだ。
「魔女を攻撃してただで済むと思うなよ?」
――魔女。
魔女?
魔術師と魔女は関わってはいけない。
それは魔術を学んだ頃に知った暗黙の了解だ。使う術の構成が違うから、まともに戦えば反発しあう。そこでどんな反応が起きるのか、予想もつかない。
「ムカついた、ムカついた。俺、ずっと誰かに襲われるとかなかった。俺は大切に扱われてきたんだ。男の魔女だったから、誰もが俺を敬い、どんなことでも願いを叶えてくれた。それなのに」
ぶつぶつと彼は呟いている。
それは私に向けた言葉ではなかったのかもしれない。
後頭部に走るのであろう痛みに顔を顰め、苛立ったように軽く右手を上げて。
何か――呪文を唱えた。
その呪文の合間にも、悪態なのか何なのか、言葉が飛び交う。
「そりゃ、死者が蘇ってくれたらいいと思うよ」
「母さんよりも、父さんが」
「ぶん殴って、何してくれたんだって問い詰めて」
「どれだけ俺の姉だか妹だかを作ってくれたのかって」
「恨み言を垂れ流してやって」
私は首を傾げたままの格好で固まっていた。
何をするつもりなんだろう。
彼が放とうとしている術は、何を目的としているのだろう。
彼が魔女であるのならばおそらく――魔術師が造り出した魔道具の中で、私が過去に造り上げた魔術言語の術式が大量に刻まれたこの場所で、その力を行使しないだろう。そのくらいの知識は彼にもあるに違いない。あまりにも危険な行為だから。
彼の美しい顔。
魔力が放たれているせいか、風もないのにその髪の毛も揺れている。
その魔力がみるみるうちに膨れ上がるのが伝わって――。
「待ってください」
私が彼をとめようとしたのが、おそらく遅すぎたのだと思う。私の目の前で、彼の術が完成したらしいのが理解できた。その術式は見えなかったが、凄まじい圧力が私の身体を地面に押し倒そうとしている。膝が震え、気が付いたら膝を床についていて――。
目に見えない何かが――熱量が弾け、地下の空間を縦横無尽に走り出した。
私の背後で、何かが壊れるような音がする。
必死にそちらに顔を向けると、ウェンディが眠っている浴槽にひびが入っているのが目に飛び込んできた。彼女の身体を新鮮に保つための液体がその割れた部分から流れ出し、床に染み込んでいく。
「やめてください!」
私は必死に叫んだものの、その場から立ち上がることもできない。
そして。
壊れた。壊れた。壊れた。
ウェンディの命綱が切れた。切れて、壊れて、もう戻らない。まさか、そんなことが。駄目だ。
そんな絶望を感じながら、私は必死に叫び続ける。
私の苦労は。これまでの努力は。ウェンディを助けるための――。
急にこんな事態を引き起こしたカルヴィンに対して殺意が芽生えた、と思ったが。
浴槽から流れ出した紅色の液体が色を変えているのが目に入り、怒りといった感情が掻き消え、息を呑むことになる。
変化。目に見えるほどの異変。
その液体は紅色から……無色透明へ。そして、僅かな光が浴槽の中から。
我に返った私は、床を這うようにしてそちらに向かう。私の身体を押し付けるような圧が少しずつ消えていって、自由に動くようになる。
「ウェンディ……」
そう言いながら浴槽の中を覗き込むと、濡れた彼女の髪の毛と、赤みを帯びた頬が見えた。まるで生きているみたいに。いや、生きている。そうだ。
だって……睫毛が震えている。
彼女は、生きている。