第54話 俺が男だと駄目ですか?
「それで?」
ジャスティーンが密やかな笑い声を上げる。そして、しゃがみこんだままだった俺を立ちあがらせると、さっきまでイーサンが座っていたソファに座るように促してくる。
俺の向かい側にあったソファに座った彼女は、魔術を使ってお茶を淹れてくれた。宙に浮かぶティーポットと、テーブルの上に唐突に出現した真っ白なティーカップ。
もしも俺がいつもの自分であったなら、彼女が使う魔術の術式とか魔力の流れとか気になって観察していただろうが、今はそれどころではなく。
「その、真面目な話をしたくて」
俺は思い切って口を開く。
ジャスティーンは僅かに首を傾げ、片眉を跳ね上げた。
「いつも、団長は俺が男に戻るって言うと邪魔する、みたいに言いますが」
「……うん?」
少しだけ彼女の目が戸惑ったように光を揺らめかせる。
「本当に邪魔するんですか?」
「あ?」
何だ、そんなこと? と言いたげな彼女の苦笑。彼女にとっては、今更といった感じの質問だろう。でも、俺にとってはとても重要なことだ。目の前に出されたお茶に手を出すどころか、膝の上に置いてぎゅっと握りしめているこちらの様子に気づいたのか、少しずつ彼女の目が細められていった。
「そうだね、邪魔したいかな」
やがて彼女はそう言ったものの、すぐに眉尻を下げる。「でも、本当に嫌がるなら話は別だよ」
いつもと変わらない彼女の様子。自信満々で、自由気ままで、それなのに姉たちとは違って周りの人間を気遣う様子を見せる。今もそうだ。俺の表情を読んで、真面目な質問だと理解できたからなんだろう。
「俺は男に戻りたいですし、戻ったらきっと、団長は俺に興味をなくすと思うので……あまり近づきすぎるのはどうかと思うんです」
俺がじっと彼女を見つめながら続けると、彼女の眉間に皺が寄った。
彼女の唇は動かない。
多分、俺の次の言葉待ちだ。
でも。
あれ?
何で俺、こんな空気を作ってるんだっけ?
何だか、完全にお別れみたいな言葉を出そうとしているけど。それって、俺が望んでいたことだったっけ?
「いや、あの」
俺はそこで混乱し始めた額に手を置いて、そっとティーカップに視線を落とした。「だって俺って男だし。その。団長は男である俺には興味がなくて。俺が男でもいいっていうなら話は別だと思うんですけど。いや、だから」
こんなぐだぐだと同じことを言っているのは、自分でもまだるっこしいと思った。
言いたいことはちゃんと言うべきだ。当たって砕ける勢いで。
そこで、よし、と気合を入れて顔を上げる。
「俺が男だと駄目ですか?」
向かい側に座っている彼女は、首を傾げたままの角度で固まっていた。つい、俺も固まってしまう。
でも、一度吐き出してしまった言葉は戻らない。
緊張で腕が震えるのは初めてだったし、こんなに自分の感情が乱れるのも初めてだった。
いっそのこと、潔く『男は困る』と振ってくれと思う。そうすれば、完全にこの変な関係も終わるわけだ。こんなに悩む必要もなくなる。
やがて彼女は低く唸り、「そうだね……」と小さく言った。
俺の心臓が冷えたのは、それが『そういう意味』だと思ったからだ。しかし、すぐに彼女は次の言葉を続けたから、ただの接続詞みたいな単語だったようだ。
「私が好きになったのは、男なのに女の子になって色々苦労していた君だからね……。こんな突拍子もないことに巻き込まれた君が面白いと思ったし、揶揄いたくなった。そして口説きたいと思ったのは、君が君であったからであって、『普通の』女の子だったらここまで考えなかったと思うよ?」
「え?」
それはつまり。
一瞬遅れて、顔に血が上るのが解った。
そして、そんな俺を驚いたように見た彼女は――。
「……どうしたんだ? 何でそんなに……」
困惑した彼女は何か言葉を探していたようだったけれど、俺は再確認のためにこう訊いてしまう。
「俺が男でもいいんですか? 興味……持てます?」
その問いを受けた彼女は少しだけ何か考え込んでいたけれど、やがて口元に笑みを浮かべた。
「何故、そんな質問をするのか訊いてもいいかな? 何故、そんな顔をするのかも。それはつまり……私のことが気になっているってこと? 恋愛的な意味で?」
「えっ、あ、その」
つい、俺は彼女から目をそらした。「そ、そう、ですかね?」
「へえ」
気が付いたら、ジャスティーンはソファから立ち上がり、俺のすぐ傍に立って見下ろしていた。
何だか熱でも出ていそうな俺の頭はまともに働かないし、眩暈すら起きているような感じでソファから立ち上がれる感じもしない。ぐるぐると余計なことばかり頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え、そして気が付いたら。
ジャスティーンが俺の肩に手を置き、そっと身を屈めてきた。
え? と思って俺は目を見開いたまま、伏せられたせいで余計に長く見える彼女の睫毛をすぐ眼前に見た。そして、遅れて気が付くのは自分の唇に当てられた感触だ。
ジャスティーンは何の予告もなしに、俺の唇に自分のそれを当てていた。
あ、これ、キスだ。
そんなことに思い当たると余計に訳が解らなくなってきて、俺は彼女の腕を掴んで……押しやるべきか引き寄せるべきかも悩んでしまう。
「ちょ……」
ちょっと待って、と言いかけたのだけれど。
俺はこういったことが初めてだったから予想していなかったのだけれど。
話すためには唇を開ける必要があって。
キスをしているんだからそんな状態で口を開けたら――。
「うー……」
唸る俺、必死に彼女の腕をばしばしと叩く。
舌が! 舌が入ってます、先生! 先生って誰だ!? 何だこれ、何だこれ、何だこれ!
理解できないというか、してはいけない気がする!
だって、その舌の動きが! 妙に艶めかしいというか、さらに……色々なところを甘噛みされるというか。っていうか、世の中の恋人同士ってのはこういうキスをするのが当然なのか!?
ばしばしばしばし。
ただ無意味に彼女の腕を叩き続け、やっと解放される。俺の唇の前で、彼女の吐息が感じられたのだけれど、そんなささやかな刺激でも今の俺にはとんでもないことで。
力尽きてぐったりとソファにもたれかかってしまうと、ジャスティーンはくつくつと笑い、さらにとんでもない行動に出た。
俺の太腿の上に跨るような格好でのしかかってきた彼女は、目元に凄い色気を乗せた表情でこちらを見下ろしたのだ。
「正直に言えばね」
彼女の手のひらが俺の熱くなった頬に当てられた。「本当は君にイタズラしたいよ? 性行為に慣れていないだろう君に良からぬことを教え込んで、女の子の快楽を教えてあげたいって」
「え、でも!」
「それでも、君が望むなら……私が『女』になってもいい」
「は?」
俺の耳元に唇を寄せてきた彼女は、さらに声を顰めて続けた。
「もしも君が男に戻ったら、『そう』してもいいってことだ。君が私を犯してもいい、ってこと」
言・い・方!
言い方がヤバい!
っていうか、犯すって、犯すって!
気が遠くなって、本気でソファの背もたれに体重を預けてしまった俺。
そんな俺の首に腕を回し、くっくっく、と笑って身体を揺らす彼女。間違いなく俺を揶揄って遊んでいる!
「でもね」
ジャスティーンが少しだけ声のトーンを落とし、耳元で囁く。「君が私のことを意識してくれて嬉しいと思うよ? だって君、女性が苦手だよね?」
「……そりゃ、まあ……」
あの姉たちを見ていたら幻想も夢も抱けないわけだし。
「そんな君が私に興味を持ってくれたのは何故か、考えたことある?」
「え?」
「多分君は、最初は私に『女』を感じなかったんじゃないかな。私はこんな格好で、女好きを公言しているし」
確かにそうだった。
男装の変人だと思ってた。
「だからね、私たちはちょっと特殊だったんだよ。私は君がただの男性なら興味を持たなかったし、君だって私が単なる女性の上官だったら興味を抱かなかっただろう。それなのに、いつの間にか『こう』なってる。でも、最初のきっかけなんてどうでもいいんだよ。恋なんてものに理由をつけるのも馬鹿馬鹿しいことだ。結果が全てなんだ」
「結果」
そこで、ジャスティーンは少しだけ身体を起こし、俺を見下ろす格好で――後で思い直した時にとんでもない格好だと思ったけれど――今までで一番女性らしい微笑みを浮かべた。
「私に興味を持ってくれてありがとう。その様子だと、真面目に考えてくれたんだろうね? かなり悩んだのだと予想できるよ」
「それは……まあ」
「悩みは尽きないだろうし、慌てることはない」
「うー……」
正直なところ、本当にどうしたらいいのか解らない。誰かを好きになるのも初めてだし。
唸り続けていたら、またジャスティーンが顔を寄せてきた。二度目のキスである。
でも、二度目だったからだろうか、目を閉じて自然に受け入れ――。
俺は男なのに、こんなに受け身でいいのか!?
と、自己嫌悪に陥ったり、この関係に反対している存在――ジャスティーンの兄だったり王女殿下だったり侍女だったりを思い出して頭を抱えたのだった。