第53話 キスしていいかな?
と、いうわけで早朝。
夜番の俺たちはいつものように任務を終えて、警備団の本館の前に帰ってきていた。頭上には朝焼けの色が広がる空。回収した魔物の肉や魔石などを手際よく運んでいく皆の姿。これもいつもの光景だ。
アレクシアの手を取って馬の背から降ろすと、彼女は少しだけ疲れたように首や肩を動かしてため息をついた。
「……女性には厳しいお仕事なのですねえ」
さすがに眠いのだろう、彼女は目を指先でこすりながら俺を見る。「やっと眠れるんでしょうか。それとも朝食を?」
「……朝食ですかね」
まだベッドの中であろう姉のことを思い浮かべながらそう言うと、彼女はそれを察したかのように微笑んだ。
「じゃあ、お手伝いします。いつも、調理場を使ってますよね?」
「え、ええ、まあ」
相変わらずアレクシアは俺に詰め寄ってくる。女性同士だと彼女は思っているから、距離感なんてあってないものなんだろう。俺の眼前に彼女の双眸……ちょっと怖い。
思わず彼女から目をそらすと、その視線の先にデクスターとジェレマイアの前に立って、幾度か頷いている様子のサディアスの姿があった。
「失礼」
そして、サディアスが俺たちの前にやってくると声をかけてきた。
「サディアス・ゴールディング様、お疲れ様でございました」
さすがのアレクシアも、王女殿下の婚約者であるサディアスには最大限の礼儀を払うらしく、ぴっと背筋を伸ばして表情を引き締めた後、恭しく頭を下げている。ずっとそのまま、普通の侍女みたいに大人しくしてくれたらいいのに、と考えているうちに、どんどん彼らの話が進んでいく。
「エメライン王女殿下にプレゼントを贈りたいのだが……」
というサディアスの言葉――正確にはデクスターの命令通りの言葉だが――に、アレクシアは目を輝かせている。
辺境の地では納得いくものが見つけられないかもしれない、とか、王女殿下の好みは、とか色々言っているうちに、これもデクスターの計画通りなのか、警備団の男性たちがそれを聞きつけてやってきた。
「村にも腕のいい細工職人がいてな」
とか。
「魔石を使ったアクセサリーとかが人気で」
とか。
「ただ、デザインは趣味のいい女性が考えた方がいいだろうな。職人の腕は確かだが、王都の人間の方が目が肥えてるだろう」
とか、二人を取り囲んでわいわい言い合っているうちに今日の予定が決定していたのだ。
サディアスとアレクシアが団員連中と一緒に村の細工職人に会いに行く、という任務である。
アレクシアは王女殿下が喜ぶためなら! を目を輝かせていて、もうすでに俺の見張りという役目のことは忘れているらしい。大丈夫か、それで?
「侍女もちょろいな」
俺の横でそれを見守ったデクスターがニヤリと笑い、「面白そうだから俺も見に行くわ」とジェレマイアが言う。
そして。
「せっかく時間を作ってやったんだから、頑張れ」
と、デクスターが俺の肩を叩き、俺は思わず低く唸ってしまった。しかも、「失恋したら慰めてやるから」とか言い出す始末。正直、いらない。
というか、心の準備が……と、胃の中に重い石を詰め込んだような状態で俺はその場を離れたのだった。
「あら、随分冴えない顔をしてるんじゃない?」
ダイアナのために朝食を作って部屋に届けると、ベッドから足を下ろしながらそう言われた。姉は髪の毛を掻き上げ、小さな欠伸を一つこぼしながらテーブルの上に並べられる皿やカップに目をやった。
俺の表情よりもサンドウィッチと野菜のチーズ焼き、フルーツとヨーグルトに興味があるらしい。
そんな姉を見つつ、俺はふと思いついたことを口にした。
「ちょっと、これを見て欲しいんだけど」
と、手首から例のブレスレットを抜いてダイアナに見せた。「これ、王都で使われている通信用の魔道具らしいんだけど。少し、改造できないかなと思っていて」
「ふうん?」
そこで、ダイアナの目に少しだけ関心の光が瞬いた。
まあ、俺の願いとしては簡単な話で。
こちら側の話が筒抜けになるのを防ぎたいわけだ。必要な時だけつながるようにしたい。俺の許可がない限り、相手に――ルーファスに聞こえないようにしたい。
もしかしたら、この会話も筒抜けなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。それが解らないのが厄介なのだ。
今しているこんな会話を知られたらまずそうだな、とは思うけれど……まあ、その時はその時である。
俺が望んでいる改造内容を伝えると、姉は小さく鼻を鳴らした。
「だったら、コートニーに送り付けてやりましょ? 姉さんだったら改造なんて簡単にできるはずだし」
ダイアナが俺の手からブレスレットを取り、じっとそれを見つめている。そして、綺麗なのに胡散臭さもある笑みを浮かべて見せた。
そして、ダイアナの手のひらの上で秘術の術式が展開した。赤色と白色の複雑な帯と秘術の言語がブレスレットを取り囲み、完全にその魔道具を封じたのが解った。ダイアナの秘術は、その正確さと緻密さが凄いと思う。男性だった俺はどちらかというと魔力量で抑え込むところがあったけれど、彼女は限られた魔力量で一番最適だと思われる秘術を使う。その辺りは俺も見習わなくてはならないな、と考えているうちに、いつの間にかブレスレットは彼女の手のひらの上から掻き消えていた。
「早ければ明日の朝には戻ってくるでしょ」
そう言われて思わず安堵の息を吐いたが。
いや、『あの』姉のことだから余計な改造も付け加えてくるのでは!?
と気が付いて少しだけ心臓が暴れる音が上がったが、でもまあ、仕方ないと開き直ったのもその直後のことである。
そんな些細な問題よりもずっと大きな課題が俺の前に立ちふさがっているのを思い出したからだ。
普通だったら、姉に朝食を作ったら自分の部屋に戻って寝る時間である。でも、俺は空いた食器を片づけてから、宿舎の中にジャスティーンの魔力の気配があるかどうか探る。
ここに魔力の気配はない。
どうやら彼女は本館の方にいるようだと知って、俺はゆっくりと宿舎の玄関を開けて外に出た。朝日が眩しすぎて、眩暈すらした。
「やあ、おはよう」
俺が団長室の扉の前で硬直して数分。
自分の気配を殺しているはずだったのに、気が付いたらその扉は内側から開けられていてジャスティーンが俺の前に立っていた。
早朝から仕事をしていたのか、団長室の中にある大きな机の上には書類が積み重なっているし、その近くにあったソファには髪の毛がぼさぼさになりながらも顔色がよくなっているイーサンが座っている。
「おはようございます」
イーサンは少しだけソファにもたれかかるようにしてこちらを見て、眠そうに目を閉じ――そのまま寝そうになっている。ソファの前にある低めのテーブルの上には、イーサンがチェックしていたのだろう書類も山積みだ。
もしかして徹夜で仕事をしていたんだろうか、と俺は眉を顰めたが。
「どうしたんだ? 何か話が?」
そうジャスティーンが俺の肩に手を置きながら顔を覗き込んできて、俺は――。
近い!
駄目だ、近すぎる!
改めて気づかされる、ジャスティーンの睫毛の長さとか、整った顔立ちとかが妙に頭の中に残る。本当、今更だというのに何だろうこれは。俺の意識が以前と変わったからだろうか?
何だか、妙に……近づかれるのはヤバいと感じる。
咄嗟に後ろに下がろうとして、ジャスティーンが眉を顰めたのが解った。逃げようとした俺の手を掴み、さらに顔を寄せようとしてきたので俺の心臓が跳ねた。
「いや、あの。その、話があるのは確かなんですけど」
自分でも情けないと思われる声でそう言うと、ジャスティーンの目に少しだけ不安そうな光が浮かんだ。そして、彼女は俺の腕を引いて団長室の中に促した。
「イーサン。寝るならここじゃないところで頼む」
俺に対しては優しい仕草を見せてくれるジャスティーンも、イーサンのことは乱暴に扱う。まさにたたき起こすといった表現が似合う動きで彼を立ち上がらせ、扉の向こう側の廊下に叩きだした彼女は、そのまま扉に鍵をかけて俺に向き直った。
「それで? 何か重要な話なんだろう?」
廊下から「団長!? 仕事は!?」と叫ぶイーサンの声が聞こえる。
でも、ジャスティーンはそれを無視してさらに俺に一歩近づいた。
「……ええ、まあ。その、お聞きしたいことが」
何だか妙にいたたまれない気分になって、彼女から目をそらしたけれど。
どうしよう、やっぱり何か変だ。変なのは間違いなく俺で、今までにこんなに慌てたことがないってくらいに頭の中が混乱している。
質問しようと心に決めてきたというのに、いざその場面になると言葉が喉の奥に張り付いて出てこない。何だこれ、どうしてこんなに……感情が制御できないんだろう。
今まではそうじゃなかった。
どんなことだって平然と対処できてきたと思うのに、今の俺はどうだ。
男として情けないというか。
頭に血が上っているというか、顔が……きっと変な顔をしているだろうと自覚して、余計に慌ててしまう。もう完全に制御不能である。
「……キスしていいかな?」
「何故に!?」
俺が一人でおたおたしているのを見下ろしていたジャスティーンが唐突にそう囁いてきたものだから、俺はそう叫び返す。彼女の手が俺の頬に添えられ、妙に色気のある微笑みを浮かべられて。
「何故か今日は、もの凄く可愛い顔をしているから」
そう言われて、俺の『何か』の限界値を超えた。
違う、そうじゃないんだ! 俺は、男として! これは違う、こういうんじゃなくて!
「普通、そういうのは男性側からするものじゃないんですかね!?」
どさくさに紛れてそんなことを叫んでしまっていて、それを聞いた彼女は驚いたように身体を引いた後、ニヤリと笑って言った。
「じゃあ、どうぞ?」
両腕を開いて受け入れるような体勢を取った彼女を目の前に、俺はとうとうその場にしゃがみ込んで頭を抱え込んでいた。