第32話 助けていただけませんか
「ちょっとあなた、パン食べる?」
「やめてください」
俺はパンを持った手を差し出した姉の手首を掴んで、そっと息を吐くことになった。
焼き立てのパンを投げつけてやる、なんて言っていた姉が手のひらを返したのは仕方ないのかもしれない。応接室に通されていた噂の男爵令嬢は憔悴しきった様子で俯いていて、俺たちがその部屋に入るなり急いでソファから立ち上がったものの、貴族とは思えないほど質素な服に身を包んでいた彼女は痩せ細っているのが明らかだったからだ。
プリシラ・アボット男爵令嬢は、艶のない金色の髪の毛と不安げな色を映している緑色の瞳を持っていた。平民が着るような飾り気のない麦藁色の服は――ドレスと呼べるものではない――色褪せていて妙に安っぽく見える。
頬と唇の端には暴力によるものか痣ができていたが、それを隠す化粧などもしていない。よく見てみれば、袖から覗く手は働く側の人間だということを示すほど荒れていたし、爪すらまともに手入れされておらずただハサミで切っただけだろうと思われた。
「急にお伺いして申し訳ございません」
緊張と不安に震える声でそう言った彼女は、深く頭を下げる。
一番最初にゴールディング将軍がソファに腰を下ろし、続いてレスリーや俺たちも……といったところで、姉が振り上げようとしていた手を差し出したというわけだ。
まあ、餌付けしたくなるほど彼女が痩せていたからな。
そんな姉を宥めている間も、プリシラは将軍を目の前にして誰の声も届いていないみたいだった。身体の前で握られた両手は震えていたし、ただでさえ悪かった顔色が、この場にサディアス・ゴールディングがいないと知ると絶望の色に染まっていくのが解る。
「息子に用があるということだったが」
立ち上がった彼女をもう一度ソファに座らせると、そう将軍が口火を切った。
レスリーとジャスティーン、魔術師二人が将軍の脇に控え、俺たちはソファの一番端に座って無言。まあ、姉はパンを食べて完全にこの場の観客になっていたが。
「わた、わたしは……」
プリシラはしばらく目の前にある大きなテーブルを見つめた後、泣きそうな顔でポケットから美しい銀色のペンを取り出してそこに置いた。「これを、お返ししたくて。サディアス様にお礼と……それと」
すると、将軍がふ、と失笑した。
「それが本当の目的ではないだろう」
「それは……」
彼女の唇が震え、そして少しずつ頭が垂れていく。まあ、ゴールディング将軍の持つ威圧感に耐えられる人間は少ないだろう。誰よりも立派な、鍛え抜かれた肉体を持ち、腕と足を組んで斜に構えたような彼。悠然としていながらも、ただならぬ気配を放つその姿は恐ろしい。
プリシラは完全に委縮して、言いたいことも言えないように思えた。
「失礼」
そこで、ジャスティーンが軽く手を上げて嫣然と微笑む。いつもと変わらぬ男装の姿と、おそらく意識していつも以上に柔和な口調。天性の女たらしを形にしたような彼女は、ソファから立ち上がるとさりげなく彼女のすぐそばに歩み寄る。
「緊張していると上手く説明できないだろう? どうだろう、場所を変えようか?」
気遣うような彼女の声は、少しだけプリシラの心に届いたようだ。不安げな表情はそのままだったが、ほっとしたようにジャスティーンを見上げたプリシラの目には何か決意のようなものが見えた。
「あの」
彼女は思い切ったように口を開く。「助けていただけませんか。わたし、父と兄に脅されていて……」
「この怪我もそう?」
ジャスティーンがそっとプリシラの頬に触れると、びくりと彼女が身を引いた。
でも、ジャスティーンの笑顔が凄く優しいからだろうか、プリシラの身体から緊張感が抜けていくのも解る。
「そ、そうです」
おろおろとしつつ、ジャスティーンから目をそらしたプリシラは、何と言うか守ってやりたくなるような弱さも垣間見えたのだけど――。
――何だこれ、俺は何を見ているんだろうか。
何だか自分でもよく解らないけど、妙に胸がムカムカするような、変な気分になった。
だが。
「わたし……身体の大きな男性というか、強そうな男性が苦手で。上手く話せなくなってしまって申し訳ないです。いつも父や兄に暴力を振るわれているので、そういうふうになってしまっているのかも……」
と、彼女が涙目で続けると、少しだけ罪悪感を覚えた。何だこれ。
何か俺は自分の心の中に奇妙な引っかかりを覚えつつも、そこからはプリシラの滑らかになった口から説明されたことに誰もが意識を集中させることになる。
プリシラの生活は過酷だった。
ジョージ・アボット男爵と使用人の女性との間にできたのがプリシラ。使用人と同じように扱われ、育った。暴力を振るわれない日はないようで、まともに食事も与えられなかった。
彼女の母が亡くなった時に、プリシラはアボット男爵に言われたそうだ。母親の病気を治すために、高価な薬を与え続けたと。その分の金を働いて返さない限り、家を出ることは許さない、と。
彼女は家を出たとしても行くあてもなく、それに従った。そうしているうちに、アボット男爵にまつわる悪い噂も聞こえてくる。
領地の人間からは暴利を貪り、逆らえばもちろん部下に暴力を振るわせる。利益を出している農家からは、使用人にと若い女性を人質に連れて帰ることもあるようで、領地から逃げ出さないようにするためなら手段を選ばない。
ただ、連れて帰った使用人……少女が長く屋敷にいることはないようで、もしかしたら人身売買とか、犯罪に手を染めているのではないかという。
「気が付いたらいないんです」
プリシラは言う。「わたしよりも年下の可愛い女の子が、使用人として屋敷で働いていたかと思えば気づけばどこにもいなくて。それを不審に思った屋敷の人間が、それとなく父に確認したみたいなんですけど、その人もいつの間にか仕事を辞めてしまって」
怯えたような彼女の表情を見れば、何を懸念しているのかは誰の目にも明らかだ。まだ確認は取れていないが、川に死体が上がっていたなんていう噂もある。
「……実は、わたしもはっきりとは言えないんですけど」
プリシラは膝の上できゅ、と両手を握りしめて続けた。「父が良からぬ人たちと関りを持っているみたいなんです。わたしが学園に通うことになったのは、その。サディアス様に近づくようにと命じられてなんですが……その」
そこで、彼女の言葉が妙に歯切れが悪くなった。すると、すかさずジャスティーンが彼女の肩に手を置いて力づけるように微笑む。そうしてやっと、プリシラは言葉を続けた。
「サディアス様を篭絡させろと、何かの魔道具なんでしょうか、黒い宝石のようなものを渡されました。それをサディアス様が触るものに仕掛けると、魔術か何かが発動すると言われました」
それは魔女のおまじない、だ。
でも、直接本に仕掛けたわけじゃないらしい。わざわざおまじないを固体化して使う方法は……俺も知っているけど『古い』やり方だった。何しろ、手間がかかるから面倒だし出来上がった精度も悪い。
少なくとも、俺たちが住んでいるこの国――カニンガム王国では新しいやり方が好まれているはずだ。
「わたしは夜中、一度だけですが父がその相手と会話しているらしい声を聞いたことがあります」
プリシラは強張った表情で続けた。「父の寝室の前を通った時、父が独り言のように何か言っていました。多分、相手はそこにいなかったと思うんです。わたし、気配とか魔力に敏感な方で、父の部屋の中には父以外はいないと感じたんです。でも、誰かと会話をしていて」
「通信の魔道具かな」
ジャスティーンが合の手を入れると、彼女が小さく頷く。
「おそらくそうだと思います。でもそれに、父の言葉が王国共通語じゃなかったのも気になったんです」
「何?」
そこで表情を険しくしたのはゴールディング将軍だ。それまで、男性恐怖症らしいプリシラを気遣って気配をできるだけ消そうとしていた彼が、身を乗り出したのは不穏な予感を覚えたからだろう。
プリシラもその頃には少しだけ将軍の気配に慣れてきていて、びくりと肩を震わせたもののすぐに表情を引き締めて頷いた。
「わたし、学園で他国の言語も勉強しました。だから、アクセントとかで解ったんです。父はおそらく、ベレスフォードの言語を話していました」
ベレスフォード。
俺たちが王都にやってくる時、空から見た山々。あの向こうにあると言われた国の名前だ。
「ベレスフォードの人間が、ゴールディング家の人間を操ろうとした?」
将軍が唸るようにそう言うとプリシラはおずおずと頷いて見せたが、それでもどこか困惑したような雰囲気がある。
「でも、もしかしたらなんですけど」
そう前置きした後で、彼女は言う。「父は自分の領地に見切りをつけていたような感じがするんです。領地の人間からかなり高額な税金を取り立てていましたが、家と土地を捨てて逃げ出す人も多くて。最近は、資金繰りに困っている感じがしていました。使用人に払う給金にも困るというか、難癖をつけて支払わない、ということが続いてました。かといって、この国には父を援助してくれるような貴族はいませんから……ここから逃げたかったのは父なんじゃないかと」
「男爵が?」
将軍が眉根を寄せて言うと、プリシラは頷く。
「随分、領地には父の悪名が轟いていますし、もう限界だったのではないかと」
「まあ、一理あるかもしれんな」
「それにその……こう言ってしまっては元も子もないのかもしれないですが」
プリシラはそこで初めて、素の笑顔を見せてくれたと思う。何の裏もない、ただ面白がっているような表情。
「父はそんなに頭がいい人間ではないと思います。優秀な人間は周りからすぐに逃げ出してしまって、他人を操る方法は暴力だけでした。そんな人間に、どんな魔術を使おうともサディアス様を操るとか無理だとわたしは思っていたんです。せいぜい、サディアス様のお屋敷の情報をいくつか引き出すだけ、というか。でも、ベレスフォードに逃げてその情報を王家に差し出せば、そこそこお金になるんじゃないかな、って」
「なるほど」
将軍はそこで苦笑して、そっと息を吐いた。「思ったよりも小物だったか? だが絶対に見過ごせん」
「はっきりとした証拠が必要なのですよね?」
俺はそこでやっと口を開く。
途端に皆の視線がこちらに向いたが、どことなく俺と姉の存在をずっと忘れていたみたいだった。
「魔女が関わっているのはおまじないの存在で解ってますし、アボット家に忍び込んで探したら、俺だったら証拠が見つけることができるかもしれません。ちょっと行って覗いてきてもいいでしょうか?」
「そんな簡単に」
レスリーが呆然と呟くのが聞こえる。
「忍び込むなんて言わなくても、正々堂々、玄関から入れるだろう?」
しかし、ジャスティーンは首を傾げながらそう言って、にやりと笑う。「君は学園の制服を持ってるしね。プリシラ嬢の友人です、と言って訪ねればいい。サディアス君がプリシラ嬢のことを心配してるとか嘘をついて乗り込めば、その男爵だって喜んで迎え入れてくれるんじゃないかな」
「あったまいい!」
ぱん、と手を叩いて喜んだのは姉のダイアナだ。「じゃあ、わたしも! わたしも制服持ってるし!」
――いや、それはとんでもなく不安しかない提案だよ?
俺が渋い表情で姉を睨みつけるけれど、ダイアナはどこ吹く風だ。それに、とんでもないことを言う。
「どうせそいつのこと処刑するんでしょ!? じゃあ、わたし! わたしがやる!」
もう、本当に黙っててくれ。
俺は問答無用でダイアナの口を手で塞いだ。また思い切り噛みつかれた。そして血が出た。誰かこのケダモノを引き取ってくれないだろうか。もう泣きたい。