第29話 幕間1 プリシラ・アボット
「この、役立たずが」
蔑んだ目がわたしを見下ろしていた。
わたしは焼けるような痛みが広がる自分の左頬に手を当て、口の中に広がった血の味に顔を顰める。すると、その場に倒れこんでいたわたしのお腹に向かって、彼――父であるジョージ・アボットの靴先が勢いよくめり込んだ。わたしの悲鳴と共に血が数滴、床に飛び散ったけれど――もう、これは慣れた痛みだ。
大丈夫、逆らわなければ長くは続かない。
「ゴールディング家の若造を誑し込むのがそんなに難しいのか」
父は癖のある赤銅色の髪の毛を乱暴に掻き上げ、深いため息をついた。いつもより深い皺が眉間に刻まれていて、彼の苛立ちをさらに際立たせている。
申し訳ありません、と謝罪の言葉を言おうとしても、わたしはお腹を押さえたまま悲鳴を押し殺すだけで精一杯だ。
父の舌打ちが頭上で聞こえた直後、荒々しい足音を立てて彼はわたしの部屋から出て行ってくれた。乱暴に閉められたドア、そして少し遅れて鍵が外からかけられる音がした。
蹴られた痛みが少しずつ和らいでくると、やっと呼吸が楽になる。そっと顔を上げると、使用人が使うような質素な部屋が目に入る。小さなベッドと机と椅子、扉が傷んで完全には閉まらないクローゼット。そして、この部屋に窓はない。
わたしがずっと暮らしてきた部屋だ。
のろのろと立ち上がり、父のさっきの乱暴な歩き方で開いてしまったクローゼットの扉を申し訳程度に閉めた。その中には、オルブライト学園の制服が入っているはずだ。
でも、もう見たくなかった。
わたしの唯一の幸せな場所。オルブライト学園。そこにはもう二度と戻れない。制服を見るたび、泣きたくなる衝動が襲ってくる。
通えたのは奇跡みたいなものだった。
サディアス様に近づけと命令されたから、一応男爵家の娘として入学できた。サディアス様からゴールディング家の弱みを聞きだせと言われたから従ったふりをした。
どうせ無理だと思っていたから、サディアス様には余計なことをしないようにしたけど。
でも、一緒にいられる時間は幸せだった。まるで、舞台劇の台本みたいな流れだと思ったの。身分の低い村娘と、貴族の男性との恋。貴族の男性には不仲だという婚約者がいて、村娘は禁じられた恋に苦しむ。でも、いくつもの試練を乗り越えて結ばれる。
それは現実では絶対にあり得ないことだけど、一瞬だけ、わたしがその登場人物になれた気がした。
わたしはアボット男爵家に生まれたけれど――それは名前だけみたいなものだ。
この屋敷の使用人であった母が、父に無理やり手をつけられてできた子供。それがわたし。母はわたしを出産して少ししてから、わたしを連れてこの屋敷から逃げ出そうとしたけれど失敗したんだそうだ。その時に父に振るわれた暴力が原因で亡くなったのだと使用人たちに聞いた。
わたしが生きているのも奇跡なのかもしれない。
父には邪魔な子供として扱われ、幼い時から使用人の仕事を教えられた。気に入らないことがあったら殴られるのはいつものことで、それは――半分だけ血のつながった兄、ブランドン・アボットも同じだった。
急に、ドアの鍵ががちゃがちゃと鳴った。
わたしはそこで咄嗟に部屋の隅に逃げた。狭い部屋だから逃げたと言えるほどの距離じゃない。でも、この状態で鍵を開けてくる人間といったら――。
「プリシラ」
そう唇を歪めて笑う彼の姿を見た瞬間、腹の奥が冷えた。
父と同じ赤銅色の髪の毛、茶色の瞳。普通だったら温かみを感じさせる色なのに、わたしにとっては恐怖の色だ。
この男爵家の跡取りである彼は、二十歳になったというのにまだ婚約者が決まっていない。貴族の男性なら、十代後半でほとんど婚約者が決まる。でも彼はオルブライト学園に通っている時に暴力沙汰を起こしたせいで退学となり、悪名を轟かせてしまった。そのせいで、まともな貴族の女性とは結婚できないかもしれないと言われている。
その笑い方も醜悪で、特に女性を嘲るように見る目が父親にそっくりだった。
「お前みたいな役立たずは殺してしまおうかって父さんが言ってたぜ?」
彼は部屋の隅に身体を小さくして立っているわたしを見て、低い笑い声を上げた。「お前が失敗したせいで、アボット家の立場が少しだけ悪くなってるみたいだしな? お前のせいで迷惑を被ってるんだから、少しは反省してもらわないと」
そう言いながら彼がわたしに近づいてくる。
運動もせず、ただこの屋敷の中で怠惰な生活をしている彼はわたしよりもずっと身体が大きい。太っているせいで動きは多少鈍いものの、腕力だけは凄まじいものがあった。
その彼がわたしに手を伸ばしてきたので、殴られる! と思ってわたしは唇を噛んで目を閉じた。
でも。
今日はいつもと違った。
腕を掴まれて乱暴に引かれ、気が付いたらベッドの上に転がされていた。
――何?
とわたしが目を開くと、その巨体がわたしの上にのしかかってきて――。
「どうせ、殺されるんだったら一回くらい良い思いをした方がいいだろ」
下卑た笑い声が頭上で響き、わたしの全身に悪寒が走った。
だって。
たとえ半分だとはいえ、わたしたちは血がつながってる。ブランドンはわたしの兄なのは間違いない事実なのに。
「わ、わたしはっ、妹――」
そう言いかけた瞬間、平手打ちされる。そのまま、髪の毛を掴まれて揺すられ、恐怖のあまり泣き出してしまった。
「お前なんか妹のはずがないだろう! お前なんか、あの平民の子! 俺の母さんとは全然違うんだよ!」
ブランドンの母親は数年前に亡くなっている。
ブランドンに甘く、彼と風貌と体格がよく似た女性だった。わたしを嘲るような目も全く同じ。嫌味を吐かないと生きていけないといった彼女は、暴力こそ振るわなかったものの、わたしにとっては恐怖の対象である女主人だった。でも、ブランドンにとっては大切な母親だ。彼女が亡くなった今でも、それは変わらないのだろう。
気持ち悪い。
怖い。
何とかしないと。
わたしは恐怖で身体が動かないものの、必死に頭を働かせた。このままこの男に乱暴されるなんて厭だ。そんなことをされたら生きていけない。
じゃあ、どうする?
「わた、わたしは! まだサディアス様に会う理由が残っています!」
嘘だとしてもいい。今の状況から逃げられるなら何でもする。
わたしはがたがたと震えつつ、必死に叫ぶ。
「サディアス様から借りたペンがあって! それを返さなくてはいけないんです! ゴールディング家の家紋入りのペンで、絶対に返さないと駄目なやつです!」
「何?」
わたしにのしかかっている怪物は、少しだけ動きをとめて胡乱そうな声を上げた。
「だから、サディアス様のお屋敷に行こうと思っていて! 返さなかったらきっと問題になりますから!」
実際に、わたしは彼から高級なペンを一本借りている。図書室でわたしがペンをなくして困っていた時に、「返すのはいつでもいいよ」と渡してくれたものだ。
それを思い出したら、何としてでも彼に返さなくてはいけないと焦燥感に駆られてしまった。
「まだわたしはお役に立てます! サディアス様に近づくことができます! だから……」
泣きながら必死に言うわたしを見下ろして、ブランドンは大きく舌打ちをした。
「じゃあ、その後ならいいな」
巨体がベッドから降りて、わたしの身体に自由が戻る。全身に鳥肌が立っていて、今にも吐いてしまいそうなほど気分が悪い。立ち上がるどころか、何もできそうにない。
ブランドンがその体重の重さを知らせるような大きな足音を立てて部屋を出て行くと、わたしはぼろぼろと涙をこぼして泣いた。
どうにかしなくちゃ。
逃げなきゃ、もう無理だ。
この際、途中で死んでもいい。あの怪物にいいように弄ばれるくらいなら、命を絶つことなんて簡単。死ぬ覚悟があるなら何でもできる。父やブランドンに殺されるよりも、サディアス様やゴールディング家の方たちに殺された方がマシ。
わたしは結局、舞台劇の登場人物にはなれないんだろう。
大団円は訪れない。わたしの未来はほとんど確定している。
でも、諦めちゃ駄目なんだ。
だって、サディアス様がおっしゃっていたもの。
――君は、真面目な女性だと私は知っている。努力はきっと報われるし、苦しんだ分だけ報われるべきなんだと私は考えている。だから、諦めてはいけない。力になれることがあったら、言って欲しい。
だから最後にもう少しだけ頑張ってみよう。
サディアス様にもう一度会って、相談できたら。
彼は優しい人だから、きっと……力になってくれる。
そう信じたい。