第23話 おまじない
「わたしは望んでないわ!」
エメライン王女殿下は真っ青な顔色のまま胸の前で両手を組み、そう叫んだ。「こんなのは厭よ! だからやめて!」
しかし、サディアスの冷めきった目は変わることはない。
まあ、どこからどう見ても彼らの間には恋愛感情なんてものは欠片もなく、不仲であるのは一目瞭然なわけである。
それでも、王女殿下はゴールディング将軍を睨みつけるようにして命令した。
「サディアス・ゴールディングを傷つけることは、わたしが許しません。わたしの婚約者ですもの」
「しかし、王女殿下」
苦々しい表情でゴールディング将軍がエメライン王女殿下と、自分の息子を交互に見やる。そして、ぎり、という歯ぎしりの後で剣を鞘に収めた。
「解りました、いいでしょう。ただし、第一騎士団からは追放します。我が愚息はただの一兵卒としてやり直させます。これだけは譲れません」
「でも」
王女殿下はそれでも将軍にとりなそうとしたが、さすがにこれ以上は無理そうだった。
サディアスはそこで他の男性たちの手から解放されたが、立ち上がろうとはしなかった。そして、目も腕も失わずに済んだというのに嬉しそうでもない。
礼も言えないのか、と将軍はそこで心底呆れたようだが――。
「エメライン王女殿下」
サディアスはその頭をそこで僅かに下げ、平坦な声で続けた。「あなたを失望させ続けたことは申し訳ございません。しかし、私はあなたが心より愛するそこの……オルコット公爵令嬢と同じような人間にはなれません。あなたに会う機会を与えられるたび、どれほど彼女が素晴らしい人間なのか語られましたが、私は彼女を超えることはできないでしょう。彼女が噂通りの人間であるならば、オルコット公爵家で一番の魔力持ちであり、素晴らしい魔術師であります。しかし、私は――」
まあ、この台詞で何となく察することができた。
辺りに漂う空気も、少しだけ変わったと思う。
エメライン王女殿下は目を白黒させて、何か言いかけようとしたけれど言葉が見つからないようだったし、その背後にいたジャスティーンは額に手を置いてため息をこぼした。その後で、小さく「それは酷い」と呟くのだ。
多分王女殿下は、ことあるごとに比較したんじゃないのかと思う。
サディアス・ゴールディングと、ジャスティーン・オルコットを。それできっと、ジャスティーンに対する好意を散々語った、とか?
「あなたが望むなら、名目上の夫で仕方ないと考えています。あなたが求めているのは私ではなく、そこにいる……」
「ちょっと待ってくれないか」
サディアスの言葉を遮ったジャスティーンの表情は、さすがに冴えなかった。
その背後にいるイーサンはもうすでに魂がどこかに飛んで行ってしまっているのか、表情が完全なる無である。
まあ、見物客である俺たち団員連中も、これは関わらない方がいいやつ、という感じになってきていたし。
早い話、単なる痴話喧嘩だろ、これ。
そういうことである。
「ここで発言を許していただきたいのだが」
ジャスティーンがいきなり、つかつかと俺の傍に歩み寄ってくると肩を抱いて続けた。「今の私の恋人は彼女なので、王女殿下の傍にはいられない。それだけは許して欲しい」
巻き込まれたー!
俺は目を細めて隣に立つジャスティーンを睨むが、もちろん彼女は気にしない。王女殿下も「えっ!」と眦を吊り上げたものの、さすがに空気を読んだらしい。いつものように『ジャスはわたしのもの!』と叫ぶこともなく、唇を噛んでいる。
「……ジャスティーン・オルコット」
そこでゴールディング将軍が呆れを通り越した目で見つめてくる。「噂通り……とんでもない御仁のようだ」
「いい噂ではなさそうで残念だ」
ジャスティーンは苦笑した後で王女殿下に視線を戻す。「前も進言させていただいたが、王女殿下と婚約者殿は話し合う時間が足りていないのだと思う。もう少し、歩み寄った方がいいと何度も……」
「だって!」
エメライン王女殿下が泣きそうに顔を歪ませる。「サディアスだって、あの男爵令嬢と……!」
「それは誤解だと何度も」
サディアスがため息と共に重い何かを吐き出した。「ただ偶然、一緒にいた時を見られただけで我々の間には何も」
「嘘よ。皆、言っていたわ。あなたたちは友人以上の付き合いだって。わたしなんかよりずっと、彼女は可愛らしい人なのでしょう?」
「皆? 私の言葉より他人を信用なされるとは……」
犬も喰わない何とやら。
俺はジャスティーンの手を押しのけつつ、興味津々でこの様子を見守っていたデクスターの襟首をつかんでこの場から離れようと思ったが、そこで、ふと。
「あの、少しだけ気になることがあるので失礼しても?」
俺は地面に膝を突いたままのサディアスを見下ろし、そっと首を傾げて見せる。
目の前にいるこの美形は、確かにジャスティーンよりも遥かに魔力は少ないようだ。でも、デクスターと同じような魔剣持ちの気配が感じ取れる。それは腕のいい剣士であることの証明でもあるけれど、俺が気づいたのはそれじゃない。
何か違和感を覚えて、じっと彼を見つめた。
魔力の中に感じるものがある。それが俺の勘違いでないのならば、ちょっとした事件なわけで。
「どうした?」
ジャスティーンが困惑したように俺を見下ろしてくる。俺はそんな彼女にぎこちなく微笑んで見せた後で、軽く左手を上げてひらひらと動かした。
そして、その手のひらに自分の右手を寄せ、人差し指で軽く一本の線を描いた。その途端、俺の人差し指から魔女の秘術による刃が生まれ、手のひらからぽたぽたと流れ落ちる血の道筋を作った。
「ユージーン?」
慌てたようなジャスティーンに、俺はすぐに何でもないと首を横に振りながら言った。
「俺の血を引き換えにしないと無理そうな『何か』があります」
「何か?」
俺は小さく頷いた後、おもむろにサディアスの前に近づいて左手を彼の胸の辺りに当てた。
サディアスと王女殿下が何か声を上げたようだったが、その前に俺の左手は水に沈むかのように彼の胸の中に消えて――思い切り、引き抜いた。
ぶちぶち、という肉が引きちぎれるような音が響く。
その途端、俺の喉元にはゴールディング将軍の剣が突き付けられていたけれど、俺は気にせず左手の中にある『それ』を皆に見えるように掲げた。
「魔術ではないですし、どんな腕利きの魔術師が近くにいたとしても気づく人もいなかったでしょう」
俺はそう言いながら、左手の中にいる子猫程度の大きさの黒い物体を見つめた。
黒い肉塊というか、黒い蛇を数匹まとめたような形状のそれには、いくつも小さな頭部と細かい歯のある口があった。きぃきぃと鳴くのも皆に聞こえただろう。
「何それ、魔物か……?」
デクスターがドン引きしたように遠くから声をかけてくる。さすがに近寄りたくないようだ。
「いや、魔女のおまじないみたいなものだよ」
「おまじない!? 呪いとかじゃなくて!?」
「うん。このくらいの秘術なら、秘術なんて呼ぶのもおこがましいようなもので。ちょっとした、恋のおまじないというか、何と言うか」
「は? 恋?」
「ただ、おまじないとしては簡単なんだけど、その分、気づかれにくいんだよね。魔女のおまじないってのは解除するのが面倒だし、放っておいてもいつかは消えるから放置していてもいいけど……まあ、その頃には仲違いが決定的になってるかもしれないし」
サディアスは自分の胸に手を置いて、そこに何の傷もないことを確認してから立ち上がった。そして、冷徹な目を俺に投げてくる。
「あなたは魔女か」
「えー、まあ、はい」
「それは何だ。何があった。私の身体の中にそれが?」
「そうですね」
俺は何て応えようか悩みつつ、低く唸る。「でもまあ、もうあなたの身体の中は綺麗になりましたから、これからは大丈夫だと思いますよ? 多分、あなたに片思いしている女性か誰かいたんでしょうね。王女殿下との仲違いをさせるためなのか知りませんけど、その誰かがどこかの魔女に頼んだのか、お二人が仲良くならないように画策したんだと思います」
「え?」
「ついでに、その誰かと仲良くなるように、でしょうか」
その誰か。
サディアスは綺麗な形の眉を少しだけ寄せ、小さく呟いた。
「プリシラ・アボット男爵令嬢……」
「それがあなたのご学友ですか? 何か違和感を感じませんでした? 王女殿下と会話しようとすると邪魔が入ったり、その代わりにその男爵令嬢との時間が増えたり」
「でも、しかし。彼女はとても……そんなことをしそうには」
「女って怖い生き物ですよ? 例外はもちろんいますが、腹の中が真っ黒な女性っていうのもたくさんいるわけで。過去に色々見てきた俺が断言します」
「俺?」
「えー、あー……」
俺は慌てて視線を彼からそらしておく。
でも何となく。
サディアスの双眸に浮かんだ光が、今までよりも柔らかくなったのは確かだったし、エメライン王女殿下も心配そうにサディアスに歩み寄り、何か言いたそうにしているのも確かだった。
「それなら、改めて話し合うべきだ。誤解も色々あったんだろう」
この状況を見守っていたジャスティーンが、エメライン王女殿下とサディアスにそう話しかけ、本館の応接室を貸し出すと言い出した。すると、サディアスは真摯な目で頷き、王女殿下をエスコートするように手を差し出した。王女殿下も一瞬だけ驚いたようにそれを見たものの、拒否はしなかった。
そして気が付いたら。
「ねえ、それちょうだい」
俺の目の前に、ダイアナが何の前触れもなく姿を見せていた。にこにこと微笑みつつ、無邪気な女性の姿を回りに見せつけながら。
「わたしの実験体にするから。ね、いいでしょう?」
よくないなんて言わないわよね? という圧をかけながら俺に詰め寄ってくるので、俺は無言で左手の中に蠢く『おまじない』の核を彼女に渡した。黒く脈打ち、きぃきぃ鳴くそれを胸の中に抱きしめながら、ダイアナが浮かれた足取りで宿舎の中に入っていくのを見送る。
しかも、宿舎のドアのところで振り向いて、「今日の晩ごはんにはちゃんとデザートもつけなさいよ! カットフルーツじゃなくて、焼きプリンとかの方がいいわね!」なんてリクエストも投げてくる。
俺は力なく頷きながら、やっぱりうちの姉はとんでもないと心の中で呟いたのだった。