7・あの頃に比べれば、ここは天国だ
その後、アイリスの案内で宿に向かった。
「じゃあまた明日ね」
「おう」
宿屋の前で別れる。
早速中に入り、お金を前払いする。
そして部屋に入ると「あっ、そうそう」と宿屋のおばさんがやって来て。
「明日の朝は七時からご飯だから! 食べたかったら、遅れないで来なよ!」
「分かった、ありがとう」
礼を言う。
朝食まで付いてくるとは、なかなかサービスのいい宿屋だ。
感動していると、おばさんは違う風に受け取ってしまったのか、
「ボロいだろう?」
と苦笑しながら言った。
ボロい……? もしやこの部屋のことか。
しかし。
「そんなことはない。なんならかなり快適だ。金が貯まるまでは、しばらくここに泊まらせてもらうことになると思う」
と返した。
するとおばさんは嬉しそうな笑顔で。
「おお、そうかいそうかい! あんたは優しいねえ。別にあたしに気を遣わなくてもいいんだよ?」
「気を遣う? 別にそんなつもりはなかったが……」
「最近は『こんな汚いとこ、泊まってられっか!』と怒り出す冒険者もいるからね……あんたみたいな方が珍しいんだよ……まあゆっくり安んでいってよ!」
最後におばさんはそう言い残して、階段を下りていった。
うむ……どうやら、なにか勘違いされているらしいな。
別に俺は気を遣ったつもりはない。本当に快適だと思っているのだ。
確かに一つ一つの設備は年季が入っていて、決して部屋も広くはない。
しかし掃除は行き届いており、目立った汚れは見当たらない。宿屋のおばさんも愛想がいい。これに文句を言う冒険者は、俺に言わせればまだまだ甘い。
「もっと酷い場所に一週間は泊まっていたこともあったしな」
たとえば竜の巣だ。
いつ何時、寝ている時にも竜は襲いかかってくる。
竜の巣は広く、一度入れば外に出るのは至難の業だったから、仕方なくそこで寝泊まりしていたが……あの頃に比べれば、ここは天国だ。
「すっかり外も暗くなってきたな」
窓の外を見て呟く。
暗殺者から足を洗って一日目。
見るもの見るものが全て新鮮に見える。こうしていると、本当に暗殺者を辞めてよかったと実感が湧いてきた。
「さて……今日は早めに寝るとする——ん?」
ベッドで横になろうとすると。
持参していた通信紙が点滅した。
「紫色の点滅……これは姉さんからか。嫌な予感はするが、出ないわけにもいかないな」
この通信紙は遠くの相手とでも通話出来るようになる、便利な代物だ。
暗殺によっては、目まぐるしく変わる状況に付いていくため、こま目に通信を取って情報を仕入れる必要があった。
こんなもの、本当は持ってきたくなかったが……暗殺者を辞める際、レイラ姉さんから突きつけられた数少ない条件の一つだ。やはり姉さんとしては俺が(暗殺者を辞めないか)気にかかるのだろうか。
俺は通信紙に魔力を流し込み、通話をはじめた。
「はい、こちらラウルだ。どうしたんだ?」
『……私、怒ってます』
「ん?」
開口一番「怒ってます」とは……?
「一体俺がなにかしたか?」
『家を出てから、一回も通信してこなかったですよね?』
姉さんはなにを言ってるのだ。
「用がなかったからな」
『……! 用がなくても、姉には通信するものです。これだから最近の弟は……』
クソでか溜息のレイラ姉さん。
「用もないのに、なにを話せばいいんだ」
『そりゃあ、今日の昼なにを食べたかとか些細なことでもいいでしょう。ちなみに私はハンバーグを食べました』
「よかったな」
『美味しかったです』
「俺はイアナ焼きだ」
『イアナ焼き? なんですか、それは』
姉さんも生まれてこの方、リスティド一族に縛られていたので、庶民的な食べ物を知らないのだろう。
「甘いおやつみたいなものだ」
『ほう……それは気になりますね』
声のトーンが上がる姉さん。
姉さんは自他共に認める甘いもの好きなのだ。
「また一緒に食べに行こう」
『ふふん♪ 仕方ないですね〜。相変わらずあなたは私にべったりなんですから〜。一緒に食べに行く時は、いーっぱいイアナ焼きとやらを奢ってあげますね〜』
なんか、すごく上機嫌になった。
無論、姉さんと一緒に食べに行くつもりはない。それどころか、出来る限り姉さんとはもう会いたくない。
さっき言ったことはただの社交辞令だ。
ただ機嫌が悪くなった姉さんは、かなり面倒臭い。今から俺を探しに来て、連れ戻そうともしないとは限らないのだ。
ご機嫌取りをしても損はないだろう。
「それで……本当に用件はそれだけなのか?」
『あなたの声が聞きたかったのもありますが——ラウルに一つ、やってもらいたいことがありまして。まずそれから……防音は大丈夫ですか? これから言うことは、他人に聞かれたくないんですが』
「問題ない。宿屋の部屋なんだが、すぐに防音魔法を施した」
知らない部屋に入ったら、防音魔法と結界魔法を使う。
それが暗殺者の基本中の基本だ。
暗殺者を辞めても、癖になってしまっている。
『流石。抜かりありませんね』
「まあな……それよりも、俺は休暇中だぞ。休暇が終わってから、そういうのは言って欲しい」
『休暇中でも最優先にすべきことなんです』
こほんと姉さんは一つ咳払いをして。
『……女王様があなたと話したいらしいです』
「……!」
姉さんからの話を聞いて、自然と背筋がぴーんと伸びた。
「マジで?」
『マジです』
通信紙からの向こうから、姉さんが冗談を言っているものとは到底思えない。
女王様——。
この国で、それが意味することは一つだけ。
イアナ王国を統治しているエノーラ・イアナ女王のことだ。
「……一応聞くが、断ることは出来ないよな?」
『出来ません。今まで断れた覚えはありますか?』
俺の姿は姉さんには見えないとはいえ——首を横に振る。
エノーラ女王はとある一件をきかっけに、俺のことが大のお気に入りのようなのだ。
そのせいで今まで何度か呼び出され、とりとめもない会話に付き合わされたことは一度や二度じゃない。
「無視するわけにもいかんな……昔それをして、エノーラが拗ねちまったこともあるし」
『あの時は大変でしたね。王室から何人ものお偉いさんが、ラウルを連れ出そうとしましたね。まあ女王様の頼みを無視するのはあなたくらいですが……』
エノーラが拗ねた際、仕事自体はさすがにちゃんとやっていたらしいが、側近達が彼女に話しかけてもまっっっっっったく返答が返ってこなかったらしい。
それに根を上げ側近達が「頼むから、来てくれ」と俺に泣きついてきたのだ。
あの時は悪いことをした。
「仕方ない。それは確かに最優先にすべきことだな。政治になにか悪影響があっても困るし」
まあ別にエノーラと喋ることは(面倒臭いこととはいえ)嫌な気分にならない。
明日にでも行くとするか。
「任務、承った。じゃあ切るぞ」
『ま、待ちなさい、ラウル!』
通信を切ろうかとした時。
姉さんは慌ててこう続けた。
『明日から起きたら「おはよう」の通信。寝る時には「おやすみ」の通信をしてください。こうすることが暗殺者として大切な……って、どうして切ろうとしているんですか!? ラウル! ラウル! 私はあなたが心配で……』
無視して、通信を切った。