*海軍それは変態の巣窟*
*
「その規格外の戦闘力を見込んで、お前を一特務魔術師として推挙することにした」
「えぇ、嫌だよ。何でそんな面倒臭そうなことに進んで関わると思うの?」
潮風と共に、甲板の上で交わされる一軍人と辺境育ちの少女の会話。
それは何も知らないものが見聞きすれば、己が目と耳を疑うような、そんな光景であった。
僅かの沈黙を経て、再び口を開いた軍人の口許がほんの微かに弧を描く。
ゆるゆると、愉しげに。
それを認めた副官である女性仕官――コーデリア・エルノートは久しく覚えることのなかった己が上官に対する怖気に、ぶるりと背を震わせていた。
「お前は『王』を救うために王都へ向かうと言った筈だが」
「それと軍の狗になるのと、何か関連があるの? ないよね?」
「何の階級もなしに、王の御許へ参じることが叶うと思っているのか? 馬鹿め。まずは、そのお気楽な思考をどうにかしろ。話はそれからだ」
「……うわぁ、そっか。そうだね。俄かに面倒臭いことになってきたなぁ。うーん、今更だけどちょっと引き返したくなってきたかも」
「お前のような有能な人材を逃がすつもりがあるとでも? はじめからお前に選択肢などない」
「うわ、ドン引きだよ。何その唯我独尊思考。いくら軍人だからって、ちょっとどうかと思うけど?」
「どう思われようが構わん。使えるものは手元に置く。恨むなら、俺の視界に入った自分の不運を恨むことだな」
「あはは……。いやー、流石に笑えないかも。国を守る軍人の発言とは思えないんだけど、ねぇ?」
「国を守るのに、奇麗事だけでどうにかなると本気で信じているのか?」
「いや、信じてないけど」
「ならば良し」
「何も良くないんだけど……?」
青い海上にて、繰り広げられる応酬。
当然のように訪れる沈黙と、見守る周囲。
誰がこの両者の際限のない応酬に分け入ることが出来るだろうか、否、出来まい。
――時を遡ること、一日と数刻前。
半ば強制的に軍船に乗せられ、有無を言わさずに応接用と思わしき船室へと押し込められたのは記憶に新しい。
せめて勾留用の牢へ押し込められなかったことを喜ぶべきか、どうか。
『彼』は同じく船室へ閉じ込められた二人と一匹とで目を交わし、何とも言い表しようが無いこの状況に対して、溜息を隠すことが出来なかった。
いや、そもそも隠す気すらなかったのだが……。
それから半刻と経たず、足取りも早く戻って来た彼の軍人。
ようやく、その名を名乗った。
「俺の名は、ロア・ティシード・ディバイン。改めて、お前の名を問おう」
「……あー、それなんだけどね」
旅に出て以来、恒例と化した『名』を語れないことで生じる間と、溜息。
これから先も幾度となく生じるであろうこの問題を考える度、いっそのこと偽名を語ろうかという思いが頭をもたげる訳だけど……。
どうしても『彼』自身が、それを躊躇う気持ちがあった。
もし仮に、一度でも自らの名を、偽ったなら。
大切なじーさまからもらった筈の、掛けがえのないその『名』を本当の意味で、生涯失ってしまうような気がした。
だからこそ、この苦行を受け入れる。
面倒事を何よりも増して嫌う彼が、唯一手放さずにいるのはそうした所以あってのことだ。
斯く斯く云々、事情を出来る限り掻い摘んで話していく間、目の前の男は眉を顰める仕草を隠そうともしなかった。
「……面倒だな。ならば、俺が」
「いや。結構、迷惑、余計なお世話」
最後まで言わせるものか。その一心で、薄ら寒い満面の笑みと共に拒絶の意図を重ねた。
あからさま過ぎる意思表示に、対する男もさすがに譲歩せざるを無かったらしい。
暫しの無言の応酬の後で、溜息混じりに男は言った。
「思い出し次第、速やかに申告しろ。いいな?」
「……えぇー」
「あからさまに嫌そうな顔をするな。認めるのは、肯定の返事だけだ」
「……まぁ仕方ないか。了解したよ」
「それでいい」
どこまで偉そうなのだ、この男。
『彼』は改めてまじまじと見仰ぎ、心の底から呆れてはいる。いるのだが。
同時に、どことなく、ウズウズとした好奇心を認めずにはいられなかった。
あまりにも突き抜けすぎているが故に、もはや感心に近い心持ちすら抱いてしまうのだ。
「ところで、あなたの軍における階級ってどの辺なのかな? 一応それなりだと思っていいんだよね?」
「……恐れながら、それは私の口から説明させて頂いて宜しいでしょうか?」
涼やかな声と共に、藍色の髪を揺らして一礼する女性仕官――コーデリア・エルノートという名前らしい――がずい、と身を乗り出して挙手した。
元よりこちらに否やはない。
どうぞ、と手を差し出せば微笑み返された。うわぁ、何だかとっても蠱惑的。
こういう時、つくづく同性で良かったと思うよ。
「私の直属の上官にして、階級は大佐。この9番艇の総指揮及び対魔物戦線における西域担当官をも兼務しております。ちなみに海軍においては、最上位にあたる元帥以下、大将、中将、小将に次ぐ階級に相当しておられます」
「ふぅん、つまりは五番目ってことかな?」
「戦場において、事実上の指揮権はロア大佐に委ねられていると言えばわかりやすいでしょうか?」
「なるほど。この上なく分かりやすいね。説明、わざわざどうも」
「いえ、お役に立てたならば光栄です」
微笑みを湛えたまま、半歩下がって元の位置に佇むコーデリアさん。
漆黒の双眸と一対一で対峙する状況においては、せめてもう少しだけ近くにいて欲しい。
『彼』は心の底から、そう願った。
けれども現実は往々にして儘ならないものである。願ったところでそうは叶わないのが通例であるもので……。
「王都へ行くと言っていたな? 目的は何だ」
「……正直あんまり言いたくないんだけどなぁ」
「ほぅ、ならば言いたいようにしてやってもいいが?」
「罪人でもない民を拷問にでもかけるつもり?」
「そんな面倒な真似をする時間もゆとりもない。例えば、そうだな……」
ぐっ、と急に間を詰められ、灰白色の髪を指先に絡めるようにして――耳元で囁かれた。
「知っているか、女の身体には性感帯というものがあるらしい」
「うわぁ、紛うこと無き変態がいる」
ぐい、と片手で寄せられた身体を押しのけ、鳥肌の立った腕を擦りながら『彼』は距離をとった。
それをクスクスと笑いながら「変態か、初めて言われたな」と独り言ちる男。
あぁ、これは真正の変態だ。確信し、もう半歩後ろへ下がってようやく気持ちを落ち着けた『彼』はこれ以上の遣り取りは御免だと、心を決めた。
息を吸い、努めて感情を出さずに言い切る。
「俺の目的は、王様を守ることだよ」
「……想定外の答えだな。まさか王と面識があるとでも言うつもりか?」
「面識? そんなものは無いけど?」
「だろうな」
「守ると決めただけ。その為に辺境を出て、出来るだけ早く王都へ向かうつもりでここまで旅をしてきた。言ってしまえば、それだけの話だよ」
「王に忠誠でも誓うつもりか?」
「さぁね。それは、助けた後に決めることだと思うけど? そもそも見極めていない段階では何も言えないし、言うつもりもない」
「……ほぅ。王を見極める、か。お前のようにあからさまな不敬を口にする存在に会ったのは初めてだな」
「それを言うなら、貴方ほど高慢な軍人を俺は他に知らないんだけどね……」
「ふん、減らず口もそこまでくれば大したものだ」
「それは褒めているの? 貶しているの?」
長椅子に座り、漆黒の双眸に見下ろされたままでも尚『彼』は一語たりとも自らの意思を偽らなかった。
穴が開くほどに見詰められるという経験を生まれて初めて経験した『彼』は、それでも平坦な調子を崩さない。
――思えば、当たり前のこと。
『彼』の嘗てを思えば、この程度の尋問など些事と呼べるだろうから。いや、むしろ些事ですらないのかもしれない。
それは偏に、目の前に立つ男以上の戦歴を有しているという自負がある故に。
幾千、幾万……否、それ以上の血を浴び、一振りの刃だけを共に、たった独りで定められた『線』を守り続けた記憶。
永遠であり、刹那である、そんな嘗てを思い返す度に、『彼』の双眸は黄昏の色を深めていく。
――結局は、逃れ得ない。人が往々にして『宿命』と呼ぶそれと同一とは思いたくなくとも、多分似たようなものなのだから。
溜息一つ。
現実へ立ち返った『彼』は目の前の男へ向けて、端的に問う。
「それで? 何の説明もなく海上へ出た以上は責任をもって王都まで連れて行ってくれるんだよね?」
「……行き先は王都だ。航路変更の予定はない」
『彼』はその返答に対して「そう」とだけ言って頷き、ひらりと視線を転じた。
船窓から見える大海原。
空よりも尚、深く、底の見通せないほどの紺碧。
なるほど、海原は大空よりも青かった。
今更ながらにそれを確認したところで、ようやくほんの微かに口許を緩めてみせる。
「ちなみにこの9番艇って、軍船の中でもそれなりの船足の早さなんだよね?」
「王国の軍船で、これに勝る速度を出せる船は存在しない」
「ふぅん。それは、僥倖だね」
――いまだ視界には映らぬ、王都。
国で最も栄える都として、幼い頃からずっとその存在だけは知っていた場所。
それが今もまだ、無事にその形を保てているか否か。
「何とか持ってくれていることを、祈るばかりだよ」
血と、腐臭と、失望。
そんなものを確認しに行く為に、はるばる辺境を出た訳ではないのだから。
背中でカラリ、と同意するように音を立てたしゃれこうべ。今は布に包まれたその重さが、心に歪な平穏をくれる。
「そう言えば、そろそろ夕食が出来上がる頃かと思います。お腹は空いていませんか?」
「うん、丁度ぺこぺこだ。ありがとう、コーデリア中尉さん」
「……っ、可愛い」
「何か言った?」
「いいえ、すぐにご用意いたします。大佐も召しあがりますか?」
少し離れた位置から、この上もなく有難い提案をしてくれるコーデリアさん。
正直、好感度はうなぎ上りである。
奇麗で気も利くとか、ある意味最強だよね。女性仕官万歳。
「あぁ、そうだな。面倒だから、ここへまとめて運べ」
その一方、残念臭しかしない方の軍人との落差たるや、思わず素を隠す労力すら厭わしくなるほどだ。
「えっ、一緒に食べる気? 一応ここのトップなんだよね? 暇なのかな?」
「……あからさまに嫌そうな顔をするな。監視を兼ねてそれが最善と判断しただけだ。他意はない」
「あったら問題だよ。……あーぁ。やっと落ち着いて食事がとれると思ったのに」
「お前は色々ダダ漏れが過ぎる。少し表層を偽る努力をしろ」
「お母さんなの?」
「せめて性別に則った例え方をしろ」
打てば返るような応酬が、互いに躊躇いなく続いていることを当の本人たちだけが自覚していない。
周囲で見守る面々は、当初こそハラハラした面持ちを隠し切れずにいた。だがそれも、結果的には僅かな間に過ぎない。
それぞれ憂慮することの不毛さを悟っていき、やがてそれは生暖かい見守りの眼差しへと変化していった。
繰り返しになるが、当の本人たちだけがそれに気付いていない――。
*
潮騒に包まれた宵が開け、朝日に照らされた翌日。
結局、案内された船室で一夜を明かすこととなった『彼』と幼竜。
不規則な波の揺れも何のその、しっかり睡眠も確保して体調は万全と言ってよかった。
別の船室へと案内されたウルディス青年とオルク両名と合流して朝食を食べた後は、爽やかな挨拶と共に現れたコーデリアさんの案内の下、勧められるままに甲板へと出ることとなった。
青い空、青い海、吹き付けてくる潮風。そこまではまぁ、良かった。
問題は全て、その後だ。
そして時系列は、現在に至る。
顔を合わせるや否や、挨拶も何もかもすっ飛ばして『確定事項』とやらを押し付けてくる残念軍人――大佐を見仰ぎ、呆れながらも『彼』は今まで自分が考えもしなかった現実とやらに思い至った訳であり。
――守る相手が王様ともなれば、守る方にもそれ相応の地位が必要とされる。まぁ、当然と言えばそれもそうだね。
内心、げんなりもする。
今更ながら、この世界でも指折りの面倒事に自ら進んで関わり合いに行こうとしている予感に、本能が悲鳴を上げていた。
「……限られた期間なら、まぁ、考えても良いよ」
「ふん、まぁいい」
辛うじて絞り出した声は、まるで死ぬ間際を彷彿とさせるような掠れ声。
実際、ここまで来て引き返したい気持ちがどんどん割合を占めていくのだ。叶うことなら、引き返したい。でも、今更という気持ちも少なくはない。
内心の葛藤は、そのまま口調へと反映された訳である。
その上、波音にすら掻き消されそうなそれをいとも簡単に拾い上げ、悪魔じみた笑みを返されれば身震いもする。
容貌が整いすぎているが故に、死ぬほど似合っていた。
「今この時をもって、お前は俺の直属の部下だ」
「……えっ。いや、それは正直御免被りたいというか……何で直属?」
「存分に可愛がってやる。覚悟しておけ」
「……もはや言い返す気力すらないんだけど」
ザブンザブンと周囲に打ち付ける波の如く、ぞわぞわと全身を走る寒気。
肌を見れば、ここ数年見ることすらなかった鳥肌が。うわぁ、末期だ。末期症状だよ、これ。
思わず、足元でゴロゴロしていた幼竜を抱えて甲板から逃走していた。
背後の喧騒など、知ったことではない。
『どうしたの? いじめられた?』
「うーん、似たようなものかな……」
『……後であいつ、噛む』
「うん、噛んで。思いっきり噛んでいい」
サラふわの銀髪に頬ずりしつつ、船室の扉の前で少し心を落ち着けた。
ここ数日で気付いたことだけど、竜は不思議な香りがする生き物だ。
例えるなら、早朝の森みたいな清々しい野性味のある匂い。個体差があるのかもしれないけど、他に比べようもないから、竜全般に言えるかどうかは謎である。
「あれと四六時中顔を合わせているくらいなら、魔物と対面で戦い続ける方が幾らかマシな気がするよ」
「ふふ、酷い言われようですね」
柔らかな声。
ふと顔を上げ、少し離れた位置に見知らぬ男が立っているのを見つけた。
隙なく着こまれた軍服を見る限り、相手の身分は問わずとも知れている。
けれども、男と言い切るには少し躊躇わせる中性的な相貌だ。まさに年齢不詳の四文字が似合う。
「お初にお目に掛かります、世にも類まれなる魔力を有する方。私はエーリッヒ・フォン・リエル。階級は特務中佐を拝命しています。今後、お見知りおきを」
ふわり、と風が吹くように微笑んで見せるその目の奥は、何がどうして全然笑っていない。
都の貴族には、笑顔の仮面とやらで己の素を隠し遂せる技術を持つ人間がいるとじーさまから聞いたことがある。
ふっと頭に浮かぶ当たり、男はそれに近いのではないかと疑った。要するにお近づきにはなりたくないタイプである。
悪化の一途を辿る鳥肌をさり気なく擦りつつ『彼』は遠い目をしながらこの場をどう脱したものかと頭を回そうとして……さほど掛からずにその思考そのものを放棄した。
――もういいや。どうせ悩んだところで解決しようが無いなら、諦観にいそしむ。ただそれだけのこと。
腕の中の幼竜を抱え直し、表情筋を強張らせたまま、単刀直入に問う。
「何か用でも?」
「ええ。率直に言わせて頂くと、貴女の身体に興味があるのです」
「……」
「あの、宜しければ少し触らせて頂いても?」
結論から言うと、海軍にはかなりの高確率で変態が存在しているらしい。
その上、最悪なことに真正の変態ともなれば、生ゴミを見るような目を向けようとも再起不能になるような繊細さを持たない。
奴らは、打たれ弱さとは無縁なのだ。
「では、失礼して……」
「御免だよ。何がどうして初対面の相手に触らせると思うの?」
パシンと音を立てて、半ばまで伸ばされた手を叩き落とす。
魔獣と相対する際と同等の純粋な殺気と共に、見据えた先に――見開かれた男の双眸。その奥底から、まるで湧き出るようにして滲み出る、色彩。
それはまさに、歓喜という名のそれだった。
「あぁ……やはり僕の直感は間違ってなどいなかった」
身震いしながら言い紡がれる、低い声。
『彼』はゾッとした。
本能のままに後退した先で、背中にあたるノブ。反射的に回して身体を滑りこませ、扉を勢いよく閉めた。
けれども半ばで、閉じきれない。
到底無視できない障害物が、扉の間に挟みこまれていた。足である。視線を辿って行き着く先に、陶然とした面持ちで、こちらへ手を伸ばす変態がいた。
――手ごと切り落とす? いや、流石にそれは不味いか。
『彼』が逡巡し、動きを止めざるを得ない僅かな間。
変態の手が『彼』の灰白の髪に触れるか触れないかのところで、まるで地を這うような唸り声が響く。
それは『彼』の胸元から上がっていた。
『わたしを怒らせるな、人族のオス』
銀の髪は怒りと共に巻き上がり、露わになった青の双眸は只人には抗いようのない威圧を秘める。
まさしく、竜の憤怒。
幼くとも、そこには畏怖を向けられるだけの片鱗が覗いていた。
「……これはまた、大層な護衛役ですね。身を凍らせるような覇気から察するに氷竜の末裔、と言ったところですか?」
まじまじと、物珍しそうな視線を隠しもしない変態に対して一歩も引く姿勢を見せない幼竜の小さな背中。
見た目よりも大きなそれに庇われながら、数日とは言え確実な成長を目の当たりにした『彼』。
少しずつ、思考が冷静へと立ち返る。
相手が何であろうとも、何より大切なのは――
「特務中佐殿、足を退けてくれる?」
「……では、自ら部屋に招き入れて頂けると確約をして頂けますか」
「いや、それだけは御免被る。先ほどの話は全面的に拒否させてもらうよ。それでも強行するというのなら、警告は済んでるし、こちらも手を抜く義理はないよね?」
片足で扉をギリギリと踏みしめたまま、片手ですらりと真白を抜き放つ。
少しの曇りもない刃を扉の隙間から滑り込ませ『彼』はここに来て、一切の躊躇を捨てた。
その微笑みは、揺るがない。
「それで? あなたはどちらを選択するのかな、特務中佐殿」
一瞬の沈黙と、それでも尚返される微笑。そして頬に触れる、指先。
なるほどそれが答えかと『彼』が溜息と共に刃を振り下ろそうとした――刹那。
「そこまでだ」
リン、と鈴が鳴るような美しい反響音と共に、跳ね上げられた刃が空を裂く。
真白と交錯すると同時に、変態の髪を一房刈ったその刃の色は目にも鮮やかな『紫』の色彩を宿していた。
「……どうせなら、髪じゃなくて指先を切り落とすくらいはして欲しかったかなぁ」
「一応これも部下だからな。指を切り落とせば仕事に差し障りが生じかねん。代わりに上官としてこれの愚行を詫びよう。赦せ」
紫の刃を懐へ戻し、漆黒の眼を眇めたロア大佐。
溜息と共に見上げれば、込み上げてくるのは疲労感だけだった。
「はぁ……。もういい。分かったよ。とりあえずそれを早く引き取ってもらえない?」
「あぁ、そうさせてもらおう」
一応、その場は丸く収まりかけていた。しかしながら、恐るべきは真の変態が空気を読むことはないというその一点に尽きる。
「あの、大佐。そこを退いて頂けませんか? 僕は彼女に触れて検証したい項目が無数にあるんです」
凍り付いた空気の中、再び威嚇を始めた幼竜の唸り声だけが、これが紛れもない現実であると示していた。
目の前に立つ大佐の変態度合いなど、初歩に過ぎなかったのだと『彼』はしみじみ悟るしかない。
「エーリッヒ特務中佐、今後一切この娘との接触を禁ずる」
「ならば、この場をもって特務中佐の任を解いて頂けますか? 彼女という最上の検証対象を見逃すことなど、僕にはとても出来そうにありませんから」
さらっと変態が何か妙なことを口走っている。
耳には入って来るけど、全くもって訳が分からないし、理解も及ばない。
それでも分かったことが一つだけある。
――真正の変態とは、これほどに恐ろしいものなのか。
ブルリと身震いを一つ、本心からの恐れと共に扉を締め直し『彼』はズルズルとそのまま扉を背にして座り込む。
扉越しに聴こえた一瞬の喧騒と、大佐の静かな声一つ。
そして訪れる、しばしの静寂。
腕の中にはじっとこちらを心配するような、幼竜のまん丸の両眼。
ギュッとそれを抱き寄せて、ようやく遠ざかっていった二つの足音に安堵の溜息が零れ落ちた。
「……うわぁ、あり得ない。まさか本物の変態がこんなに怖いとは思わなかったんだけど……」
ポツリと零れ落ちた本音に、寄り添うのはフカフカの感触。
気付けば、幼竜が元の姿に戻ってじっと身を寄せていた。雨上がりの空のように鮮やかな眼差しに、ゆっくりと心が落ち着いていくのが分かる。
紅とは対照の、底知れぬ青の双眸に。
「ありがとう、おかげで大分落ち着いてきた気がする」
『わたし、いつでも、貴女の味方』
「ふふ、心強いよ」
『貴女を守れるくらい、強くなる』
「あはは、今のままでも十分強いと思うけどなぁ……」
白い羽毛に抱き寄せられると、まるで雛鳥になった気分だ。出会った頃よりもほんの少しだけ大きくなった躰に頬を寄せ、昔じーさまに言われたことは本当だったと改めて思う。
「魔物よりもはるかに恐ろしいのは、時として人間、ね」
あの変質的な眼差しを受けるより、魔物の殺意に満ちた眼差しを受ける方が遥かにマシだと思うのだから、やっぱり、あの言葉は正しいということだ。
変態、恐るべし。
叶うならば二度と会いまみえることが無いのが望ましい。それは紛うこと無き本心からの願いである。
けれども現実は、そう甘くはないことを『彼』は無意識に感じ取っていた。
そしてその予感は、正しかったのである。