*鮮血の海街*
――やれやれ。肝心の船が沈む前に片を付けないと不味いよなぁ。
ほんの一瞬塞いだ視界の中で『彼』はほんの微かに溜息をついてから、ざわりざわりと騒ぎ立て始めた憎悪を軽く一撫でし、心を極限まで凪いでいく。
ひたり、ひたりと静まる心。
そしてようやく『彼』は丘の上に立ち、その光景を見下ろした。
凄惨の二文字が相応しい、それを。
陽光に照らされた海街に飛び交うのは、無数の黒い翼だ。
過去に記録された魔獣の中でも、最悪と称される一つ。翼獣。その姿形は、様々だと言われる。事実、見渡す限り魚の如きもの、鳥のようなもの、猿に翼が生えたようなものと、いまいち統一性に欠ける。
とまぁ、それはさておきだ。
醜悪な形をした魔獣の群れは、今この瞬間も地上を逃げ惑う人々を空に巻きあげては、その四肢を裂くようにして貪り合っている。
言葉にしてしまえばそれだけのこと。けれど実際に目で見るのと聞き伝わるのでは厳然たる差が生じてくる。
丘の上まで木霊するのは、無数の悲鳴と断末魔ばかり。
人が食われている。
至る処で喰われている。
貪り喰われ、逃げた先でも食われている。
救いを求める声の大半は掻き消され、後に残るのは魔獣の不快な咀嚼音と、羽音くらいのものだった。
「……境界を越えてこれほど多くの魔獣が……? そんな馬鹿なことが……」
傍らで、立ち尽くしたまま呆然と目を瞠るウルディス青年の言葉はきっと今現在、この国に住まうすべての民が思っていることの代弁と言っていい。
国の守護たる、八つの砦。
俗世において『紅陽』と呼ばれる国の礎を守る者たち。
――その双方がある限り、魔界の境界線は永久に守られる。
御伽語りのようなその文言を知らない者は、たぶんこの国には存在しないだろうから。
老若男女、老いも若きも。少なくとも、人という種族に限ってはそうだった。
絶対的な守護と結ばれた協定の下、長きにわたって平穏を甘受してきたのが、他ならぬこの国の民たち。
信頼し、それを支えにして暮らし、今に至るまで脈々とその血筋を繋げてきた。
信頼、その言葉の響き自体はとても耳に心地いいのかもしれないけど、一つの言葉には大抵二色以上の意味が伴うのが自然の摂理であるらしい。
信頼、転じれば、慣れ合いというように。
馴れ合いそのものが悪いとは思わない。けれど、時と場合によってそれはそのまま死因にも直結する。
人の生に、どこまでも背中合わせに張り付いてくる死と、もう一つ。
それ即ち、惰性。
人の持つ根源的な欲の一つ、怠惰。これを甘く見たら、痛い目にあうのだ。
例えば――
けして彼らが役目を放棄することなどありはしない。
そんな根拠のない希望に縋ることを止めなかった。
仮に一角が崩されようと、平穏が揺らぐことなどありはしない。
何度も何度も、そう繰り返し、自らの目を覆い隠した。
思うに、必然。
永遠に続く平穏など有り得る筈がないというのに、人はいつだって耳に心地よい御伽語りに傾倒してやまない。
その代償がけして少なくないものだと心の何処かで気付きながらも、現より夢を愛してしまう。
けれど、夢は醒めるものだ。
事実、他でもないじーさまが死に際に明かした『それ』は避けようもない現となって、今ここに現れている。
潮風の中で、『彼』は溜息混じりに、すらりと刃を抜き放つ。
――魔界との境界線。
それを明確に示していた『砦』の消失の刻。
二度と訪れることは無いのだと、そう信じていられた日々は既に終わりを告げて久しい。
「要するに、休んでる暇なんて端から無いってことだよね」
ひらり、と潮風に刃を閃かせて駆け出す寸前。
『彼』は案内人の二人と縮こまる幼竜に向け、一言だけ残しておくのを辛うじて忘れずに済む。
「出来ればあいつらの鼻が嗅ぎつけない風下に隠れてて? 喰われたら、もう会えないからさ」
制止するような声が聞こえた気がしたものの、そんなものは次の瞬間に意識の向こう側へ消え去っていた。
一足飛びに地を離れ、まずは一呼吸。
瞬きの間に『飛翔』の呪印を四肢に展開して、体勢を安定させた。
目には目を、歯には歯を、飛行には飛翔を。これ、基本中の基本だ。
飛ぶ魔獣は、こちらも飛翔して端から狩り殺せばいい。
視界の先には、無数に浮かぶ醜悪な影たち。
瞬く間に集まってくる。
――呼び集める必要がないなら、これはこれで楽だね。
面倒事が何よりも嫌いな『彼』は内心で微笑みながら、真白の刃を正面に向ける。
そして静かに息を吸いこみ、薄紅の口を開いた。
始めは低く、まるで地鳴りのように聴こえていた音が、次第にその響きを変えていく。それは呪いであると同時に、祝福でもある。
『彼』は、どこまでも甘やかに謳う。
まるで愛おしいものを呼ぶように。
透き通った声色に、吸い寄せられるようにして集まる無数の羽音。
『彼』の双眸が、黄昏の色彩に染まると同時だっただろうか。
「飛んで火にいる夏の虫、ってね」
四方へ広がる緋色の軌跡が、周囲に飛び交う飛影をいとも容易く切り裂いた。
「今回は素材として残す必要もないし……とりあえず大掃除って感じでいこうかな」
切り裂かれた無数の飛影は、断末魔を上げる間すら与えられずに、灰となって霧散する。
パラパラと降り注ぐそれは、遠目からは紙吹雪のようにも見えるだろう。
「下手に堕としたら、巻き添えも出そうだし。ま、いいよね。久々の『食事』だから加減は忘れちゃまずいけど……」
ちらり、と視線を刃に落としつつ、じーさまの忠告を脳裏に浮かべる。
――時々『餌』をやる分には構わんが、くれぐれも『獲物』は選ぶんじゃ。よいか、これと共存するのはお前の宿命そのもの。故に対象を見誤れば、刃共々お前も遠からず堕ちることとなるじゃろう。
けして刃を『漆黒』にだけは染めてくれるなと、幾度も幾度も念押しされたものだ。
いやはや、何とも懐かしい。
「大丈夫だよ、じーさま」
黄昏の視界の中で『彼』は淡く微笑み、緋色に変じた刃を片手に、空を舞いながら呟く。
「あんたのことを忘れない限り、俺は絶対にあちら側へは堕ちない」
一時として止まぬ緋色の軌跡は天空を紅く染め上げた。
それはさながら、鮮血。
逃れ得ずに灰と化した数百の飛影たちの、声にならぬ叫びが空を震わせる。
真白の髪が熱風に舞い上がり、その合間から覗く黄昏の双眸が街の上空に渦巻く大軍へと向けられた。
まるで水中を泳ぐ魚の群れのようなそれを眺め、一考。
そして何やら得心がいった様子で、ふむと頷いてみせる。
「端から焼き殺すのも面倒だし、あれくらいの規模なら……多分いけるかな?」
トン、と足場を一瞬だけ固定してから、そっと刃を頭上へ掲げた。
刹那の瞑目と、刃の沈黙。
それを好機と捉えたのだろう。
空の大群が一斉に『彼』を目掛けて襲い掛かる。
パクリと、一飲み。
息を吸う間もないほど、容易く。
それはさながら、巨大魚が小魚を一飲みにしたような光景にも見えたかもしれない。
地上から、声にならない幼竜の悲痛な声が上がる。物悲しいその響きは、まさしく大気を震わせた。
――竜の咆哮。
幼くとも、その声は周囲にいるもの全てを畏怖させ、一瞬の静止を生む。
魔獣の羽ばたく音だけが、丘に立ち尽くす案内人の二人の耳を掠め、彼らの顔が悲痛と絶望に歪んだ一瞬後。
まるで竜の声に応えたかのように、大気がズルリと音を立てて歪んだ。
放射状にひび割れた鮮血の空と、真白の刃。
まるで影絵の如き、異様。
その中心に浮かぶ一人の少女。
逃れようもなく無数の見えない刃で細切れにされた翼獣たちは、音もなく地上へ灰となって降り注いだ。
その数、ゆうに千を超える。
「はい、終わり」
灰かぶり同然となり、やや不機嫌さを隠し切れていない『彼』が溜息を零しながら丘へ舞い降りた直後。
ボスン、と勢いよく正面から抱き着いてきた小さな物体は、言うまでもなく幼竜だ。
流石の『彼』もこれを避けるのは無理というもの。
お蔭で、胸元があっという間にびっしょり。悲惨である。
『彼』は表情にこそ出さなかったものの、げんなりした。
――鼻水か涙かの判別すら付かないんだけど。
その上、グスグスと鼻音が途切れない。終いにはこちらが泣きそうにもなった。
それなりに心配させたことを思えば、流石に邪険にするのは躊躇われる。それくらいの配慮は『彼』にもあるのだ。
やれどうしたものかと虚空を仰ぐ合間も、背後から向けられるのは二組分の視線だ。ひとまず五体満足で何よりだと彼らに声を掛けようと、振り返った直後。
『彼』は自らの甘さを悟ることとなる。
二人の目の中に、紛れもなく宿る色。
それは昔の『彼』にとっては懐かしいとすら思えるものだった。
「……まぁね、無理もないか」
彼らが、次に口にする言葉を『彼』は諦観と共に待つ。
大体、こういう場合のレパートリーは決まってるものだ。「化け物」あるいは「魔物」もしくは――
「「……女神」」
「うんうん、どうせ女神だよ……めがみ?」
戸惑いと、未知のモノを前にした恐怖。嫌悪にも似たその色を自分はよく知っている。
今更、見間違えるはずもない。
困惑と共に『彼』は再び、案内人の二人を見上げようとして、それより前に先手を取られた形で立ち竦む。
説明は不要。見れば分かる。
それは所謂、平伏の姿勢だった。
「えーと、あの……もしもし?」
「あれ程の数の魔獣を、たった一人で屠られるなど神の使徒に準じる方としか思えません。……その慈悲に感謝申し上げます」
「……あはは。使徒って、そんな大げさなものになったつもりは全く無いんだけどなぁ」
「嬢ちゃん、これまでの無礼を詫びさせてくれ。アンタは戦場の女神の化身に違いねぇ。まだ鳥肌が治まらねぇぜ」
「……女神の化身、ねぇ」
いつからそんな崇高な存在になったのだろうか、自分よ。
さても予想外の反応に、些か混乱を隠し切れない『彼』はその場に膝を付き、二人に問う。
「ねぇ、俺のことを気持ち悪いとか、怖いとか思わないの?」
「「……は?」」
二つ分の、予想外という名の視線を間近に受けることになった『彼』。
互いに顔を見合わせたまま、どれくらいの時間そうしていたのだろう。
沈黙を破ったのは、他でもない『彼』自身の苦笑混じりの吐息だった。
「……ふふっ。君たち、本当に面白いね」
ブルブルと身体を振り、残った灰を落としてから『彼』は改めて跪いたままの彼らへ両手を差し出した。
陽光を背にして、ふわりと朝風に靡く真白の髪。
その合間から、素の微笑みが零れる。
「面倒事もひとまず片付いたし、そろそろ丘を降りていこうよ。ね、案内役さん?」
「……っ、はい!」
「……おう!」
『降りる! 降りる!』
賑やかな返答を傍らに、降り積もった死灰を足で掻き分けながら降りていく『彼』とその一行。
先ほどまでの喧騒が嘘のように思えるほど、頭上に広がるのは静寂の蒼。
次第に近づく凄惨の爪痕は常人の想像を遥かに超えるものだったが、一人としてその足を止めることなく只ひたすらに前へと進んでいった。