*紺碧 サウロ・ヴィーラ*
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八翼が一人、『紺碧』サウロ・ヴィーラが王都の門を潜ったと知らせを受けたのは未明のことである。
日も上り切っていない早朝、キャラキャラと不思議な音を響かせながらその一行は蒼穹の双宮へ到着した。
出迎えるのは、王を含めた二十数名。
無論、衛士に混じってイーリアも欠伸混じりに列に加わっていた。
彼女の真横には、出立間近のロアもいる。
「朝から騒々しいなぁ。けっこうな騒音じゃない?」
「何の話だ?」
イーリアは両耳を軽く塞ぎながら不機嫌そうに立っていたが、そんな彼女を不可解なモノを見る様な目でロアは見下ろしていた。
周りを見渡せば、確かに耳を塞いでいるのはイーリアくらいのものである。
何となく腑に落ちない気持ちを持て余し、一人溜息を零すしかなかった。
そうこうしている内に葦毛の馬列がゆっくりと左右に分かれ、奥から姿を見せたのは宵闇をそのまま馬の形に集めた様な漆黒の駿馬である。
その馬上には、薄水色の猫毛を靡かせる男が一人。
「思ったより被害は少ない? 拍子抜けだなぁ」
着いて早々悪態のような文句を零しつつも、ひらりと馬上から降りた男は何の表情も浮かべていない。
遠目ではまるで人形のよう。
白皙の顔貌は息を呑むほどに整っており、まるで存在そのものが芸術品のようだと囁かれる年齢不詳の男。
『紺碧』――サウロ・ヴィーラ。八翼が一翼にして、比類なき精霊術士である。
「お帰り、紺碧。無事で何よりだよ」
「よく生き残ったね。運が良かったのかな、ジークリンド」
ひやりと、周囲に立ち込める緊張感。
目に見えぬそれは、不敬と咎められる訳でも無い現状に対するそれなのか。
あるいは『紺碧』と呼ばれるその一翼の双眸に、むしろ残念そうな色が浮かんでさえいることへの不和なのか。
いずれにしても、面倒臭いことこの上ない。
耳を塞いだまま、イーリアは空を仰いだ。
バタバタと朝風に揺れる国の旗。
八枚の羽を羽ばたかせる大鷲のシルエットが、寝不足の目に染みるようだった。
「幸運にも命を拾ってね。色々報告してほしいことは山積みだけど、先に君へ紹介しておきたい人物がいるんだ」
「紹介したい人? 帰還早々、何の話……」
ジークリンドが手招くより先。
無表情なサウロの双眸は、明らかに異質なその存在を知覚してしまった。
朝陽に照らされて、眩しいほどの真白。
見上げていた顔をふいに戻し、真正面から直視した瞬間。
ゾッと悪寒が駆け抜ける。
――その少女の双眸には、色が無かった。
絶えず移ろい、湖面のようにユラユラと揺れる、透明な瞳。
『紺碧』は射すくめられたように、その場に立ち尽くしたまま動けなかった。
彼の中の理性が、これまで聞いたこともないような音を立てて警報を鳴らしている。
「イーリア・リヴィエール。彼女はこの国を滅亡から救った英雄だ」
「……何、あれ。あんな化け物がどうしてこんなところに……」
「『紺碧』、君は一体何を言って……」
王の制止を振り切るようにして、ほぼ無意識の内に指先で描いた召喚の陣。
青白く光ると同時に、氷結の精霊が天空へと吐き出され――彼女たちの歌声が一人の少女を目指して降り注ぐ。
一瞬で氷漬けにする。
それしか、勝機は無い。
真っ白な思考の先で、サウロは躊躇わずに踏み切っていた。
けれども――彼は色々なものを見誤っていたと言わざるを得ない。
「……うーん。なんかよく分からないけど威嚇されたってことで良いの?」
黄昏の瞳が、じっと彼を見詰める。
真白の少女の手には、いつの間にか深紅の刃が納まっていた。
刃から伸びた紅蓮の炎に封じ込められ、氷結の精霊たちが逃げ場を失ってキャアキャアと悲鳴を上げている。
「精霊って表情豊かだよねぇ……」と苦笑混じりに呟く少女。
早々に切った手札を事もなげに防がれたサウロは、ただ呆然と立ち尽くすしかない。
「ねぇ、大佐。原因分かったかも。さっきから騒々しかったの、精霊の声な気がする」
「……呆れた奴だな。精霊使い以外が精霊の声を聞けるなんて話、聞いたこともないが」
「そうなの?」
「精霊使いになれるかどうかは血筋次第だ。精霊が望まない限り、普通は声を聞くことすら叶わないと聞く」
「へぇー」
状況に見合わぬ、軽いやり取りの後。
やおら深紅の刃を一振りし、イーリアは紅蓮の炎を消した。
解放された氷結の精霊たちが、契約主であるサウロの下へ逃げ帰って来る。
彼女たちの目には、明らかな怯えがあった。
「氷の精霊を使役出来るってことは、それなりの術士みたいだね」
黄昏の色に染まる瞳は、サウロに向けて細められる。
まるで宵闇の中の猫のように、ゆっくりと。
周囲の騒めきや、王の戸惑いを余所に、二人は向かい合ったまま互いの動向にだけ注意を払っていた。
一方は、どこか楽し気に。
一方は、畏怖すら滲ませて。
「ねぇ、俺に敵対する意思はないんだけど。君はどうしても俺を殺したい?」
「……」
「おーい、聞こえてる?」
「……きみ、一体何者?」
「俺? 王様がさっき名前は伝えたと思うけどね。イーリア・リヴィエール」
「名前なんてどうでもいい。聞きたいのは目的だよ」
「目的? 俺の目的は、王様を守ることだけど」
「王を守る……? 揶揄ってるの?」
揶揄っているつもりは無いんだがなぁ、とイーリアは大きく嘆息する。
困った。なかなかどうして会話が噛み合いそうにない。
ふい、と視線を逸らせたイーリアは諦めて別の方向から攻めてみることにする。
具体的に言えば、薄水色の男の頭上から、じっとこちらを窺う大きな目に向けて。
「ねぇ、そこの大きいの。主の混乱を治めるために力を貸してくれる気はない?」
彼女の声に、一番驚愕したのはおそらく対面していたサウロだろう。
見開かれた目には、ありありと恐怖と動揺が滲んでいた。
「……まさか、見えているの?」
「見えてるよ、初めから。気配を殺そうとはしてたみたいだけど、完全には消しきれてないからねぇ。キャラキャラ煩いのも、そこの大きいのが元じゃない?」
『……面白い娘だ。しかしそれ以上に恐ろしい。さて、主殿。これを殺せと我に命じるのは自由だが、恐らくその望みは果たせまいよ』
ズルズルと音を立て、サウロの背後から姿を現したのは白銀の大蛇である。
『主殿、一度刃を収められよ。この娘が恐ろしいのは分からぬでもないが、むやみに敵対したところで破滅するのは我らとなろう』
「……白露。お前でも敵わないと言うんだね」
『互いの力量差が分からぬ愚鈍ではあるまい? 冷静になって見よ。あの娘の手にしている刃を』
白銀の鱗をさざめかせながら、黄金の眼は主へ促す。
サウロは真白の少女を今一度凝視し、ハッと息を呑んだ。
「陽光の銘刀……そんな馬鹿な。史実では既に失われたと……」
『八つ砦の礎を築きし、伝説の魔刀だ。見紛う筈もない。常は白銀。血の契約の下、如何なる属性をも付与が可能と聞く』
「ねぇ、そろそろ落ち着いた?」
ひそひそと囁き合う契約主と精霊を、半眼混じりに見上げるイーリア。
そんな彼女の両脇には、漆黒の戦装束に身を包んで興味深げな笑みを隠しもしないロアといつになく冷ややかな色を双眸に宿した若き国王が立っていた。
ジークリンドは普段の柔らかさを削ぎ落とし、静かな怒りすら込めてサウロに告げる。
「『紺碧』。先に告げたはずだ。彼女は英雄だと。今回の襲撃でこの国の多くの民が癒えぬ傷を負うこととなった。一時は滅亡寸前となったこの国、多くの民の命を彼女はその身一つで救ったのだよ。聞かなかったとは言わせない。故に、彼女を害する意思を見せるならば容赦は出来ない。たとえ現八翼の一翼と言えど、逆賊の誹りは免れないと知れ」
「……相変わらずの危機感の無さ。ねぇ、ジークリンド。この娘を手元に置くことの怖さを本当に君は分かっているのかな?」
半ば頭を抱えるようにして、サウロはやれやれと頭を振る。
王の怒りなど、気にする余裕すらないのだろう。
その一方、グルグルと彼を包み込むようにとぐろを巻きながら、白銀の大蛇は少女に深く首を垂れる。
ヒラヒラとそれに手を振ってから、イーリアは尚もサウロに詰め寄ろうとするジークリンドに待ったを掛けた。
「まぁまぁ、王様も少し落ち着いて。朝からこれ以上の騒ぎはもうたくさんだよ」
「……だが、これではあまりにも貴女に対して非礼が過ぎる」
「いいから。まずは対話できる状況を整えようよ。見世物になるの、あんまり好きじゃないからさ」
はた、と我に返った様子の若き王に真白の少女は苦笑を返す。
「何事も冷静になってみれば、大したこと無いって分かるよ」
「……君は本当に、懐が広いな」
「そう? 結構短気な方だと自負してるけどね」
飄々として首を竦めるイーリア。
ジークリンドはそんな彼女を眩し気に見遣り、それから視線をサウロへ戻した。
未だに混乱から回復しきっていない『紺碧』――サウロ・ヴィーラ。彼に、改めて言を継ぐ。
「まずは報告を貰いたい。『紺碧』、君の浅慮については一先ず目を瞑ろう。冷静になったら、謁見の間へ参じるように」
ひらりと王衣を翻し、先立って王宮の門を潜る王。
そんな彼の背を見送りながら、イーリアは傍らのロア大佐を見上げて問う。
「報告を聞いてから出立するの?」
「……いや。俺はこれで出立する。後の話は部下に聞き取らせておけばいいからな」
荷を背負い直しがてら、視線の先に馬を用意させるロア。
直参のコーデリアはイーリアに軽く手を振りながら「また会いましょう」と口の形だけで伝えてくる。
大変に妖艶であった。
眼福である。
同性とは言え、コーデリアさんのように優しくて気の利く女性に好意を示してもらえるのは素直に嬉しい。
イーリアは微笑んで手を振り返したのだが……。
「おい、なんだその態度の違いは。もう少し上司に気を遣え」
「……めんどくさいなぁ」
頭を軽く小突かれ、イーリアは閉口する。
心の底から面倒臭い。
「ほら、早く行きなよ」
「ふん、いい態度だな。次に会う時を楽しみにしているといい。一から上司に対する態度というものを教え込んでやる」
「はいはい。じゃあ、またね」
イーリアが見送る中、ロア大佐とコーデリアさんを含む海軍の面々が王宮の門を潜り、副都へ向けて出立していく。
聞くところに依れば、副都エルダーグには『純黒』と呼ばれる八翼が遣わされたと聞く。
被害は決して少なくないものの、一人で都市を守り切ったらしい。
「魔物がいる限り、魔獣は湧いて出るってね。……さて、まずは情報収集かな」
欠伸を零しながら、イーリアは王が先立って戻った謁見の間へ向かって歩き出す。
既に『紺碧』は門を潜ったらしく、周囲には本来あるべき静寂が戻り始めていた。
朝風に、ふわりと靡く灰白色。
その間から覗く双眸は、朝焼けに染まっている。
後れ馳せながら、明けましておめでとうございます。
今年もゆっくり、筆を進めて参ります。




