*『彼』の旅路のおわり*
*
術式を解除し、『彼』が地上へゆっくりと下降を始めたのとそれを見つけたのは、ほぼ同時のことである。
澄み渡る空の端に、あからさまに揺らめくのは怪しげな渦。
それは自然現象と言うにはあまりにも禍々しい気配を纏っており、その中心には膨大といっていい魔力が凝り固まっているのが肌を通じて嫌が応にも感じ取れた。
『彼』はちらりと視線を向け、嫌そうに眉を寄せる。
その本心は、内心の呟きに集約されていた。
――明らか過ぎる罠とか、流石の俺でも掛からないけどね。
広範囲魔術式によって霧散した魔獣たちの魂を残さず吸い込み、回収に努めるようなモノ。
そんなものは答えに頭を悩ませる必要もなく、ただ二言で済む存在だ。
――『魔物』。
種族差に関わりなくあらゆる魔獣を使役するだけの力を有した変異種。
古来より悪神の末裔と称され、人の生を憎むモノたち。
カラリ、と背中で音を立てたしゃれこうべに視線を遣るわけでもなく『彼』は淡々と降下を続ける。
溢れ出そうな殺気を瞼の裏で押し殺した為に、歪む口許。
真白に似合わぬ禍々しさを纏い、確かに嗤った。
甘いなぁ、と。
我ながら残酷だとは思いつつ、歪み切った思考の端には欠片ほどの罪悪感しか感じ取れはしない。
「じーさま……。俺、少しくらいは優しくなれてるかと思ったけど。やっぱダメみたいだ」
あの温かさを傍らにしても、尚変わらぬ業と性質。
あの光を失い、元々抱いていた闇は深まり煮詰まって、抉り取られた心の虚に溜まる一方で。
「でも、安心して。俺は人を切り捨てないから。……俺の大事な人を奪い取った魔物も、魔獣も全て殺し尽くす覚悟はもう出来たよ」
誰に聞かせるわけでもなく、涙色の空に零れた独白ひとつ。
小さな溜息を区切りに、何事もなかったかのように凪いだ表情は『彼』自身が守った都へと向けられる。
静けさと、安堵。それから未知。
抱いた思いの全てを抱えて、『彼』はそこから一気に下降していった。
*
暴虐を振るっていた魔獣たちが消失し、暫くは呆然と静寂に包まれていた王都市街。
やがて互いの生存を喜び合う声、深い安堵の溜息、喪われたものを嘆く嗚咽が満ちるまで様々に変化していく情景を傍らに、王宮に向かう面々――『緑風』エレメルとローデルを先頭にした風の騎士団たちは、一様に複雑な面持ちで歩き続けていた。
普段の活気に満ちた市街の様子が、嘘のように。
幼い子供を無慈悲に喰らわれ、心を壊した母親の悲痛が路地いっぱいに反響している。
虚ろに見開かれた母の骸に縋り、起き上がらぬ母を揺すぶり続ける子供の声が絶えることなく耳朶を打つ。
路上に蹲り、意味の分からない言葉をつぶやき続けたまま、血塗れの拳を叩き続ける男がいる。
行く先々に、言葉にし難いほどの悲痛があった。
見渡す先すべてに、破壊と腐臭、人々の喰われかけの骸と声にならない絶望の爪痕が続いている。
脅威は取り除かれ、生命そのものを脅かすモノは既に無い。
けれども、失われたものまでが戻った訳ではないのだ。
奪われた命は骸となり、横たわったまま悲惨を晒している。少なくない数の建物が崩され、元々の景観を取り戻すまでにどれ程の時間を有するのか、想像すらつかなかった。
「……王宮についたら、まず王の存命を確認しないとな。万一にも逝去なんてことになっていれば、それこそ最悪だが……」
「滅多なことを口になさいませんように。折角生き残っても、不敬罪で首を刎ねられては目も当てられませんよ」
「それもそうだな。俺、王宮についたらあんまり口開かないようにするから。代わりに頼んだ、ローデル」
「……エレメル様」
呆れ果てた眼差しを向けられても尚、エレメルは飄々としていた。
何だかんだ言いながらも、この側近中の側近が自分の頼みを無碍にすることはないと知っているのだ。
ちなみにローデル自身は数年を王宮で騎士仕えとして過ごしたが故に、王宮における騎士としての振る舞いは元より、暗黙の了解云々も含めて完璧である。
適材適所。まさにそれは物事の道理だ。
「それにしても……アレクシスは結局どうしてるんだろう。まさか死んだなんてことはないと思うけど」
「……エレメル様」
あっけらかんとした口調でとんでもない予想を嘯くエレメルに対し、軽く頭を抱えるローデル。
「万一にも八翼の一翼でも捥がれたとなれば、近隣諸国との武力拮抗が崩れます。今ですら南西と小競り合いを継続している我が国にとって最悪と言っていい一報になり得るようなことを、簡単に口になさいませんように」
人の口に戸は立てられないというように、一度流れた噂や風聞は時として国一つを揺るがすこともある。
一騎士として諌めるローデルに対し、流石にバツが悪かったのか、エレメルが肩を竦めて謝罪する。
「すまん、ローデル。流石に口が過ぎたな」
「分かれば宜しいのです」
普段の調子を取り戻しつつある彼らの様子に、背後の騎士団の面々は目配せを交わし、銘々に小さく頷いてみせる。
死の危機を乗り越え、目の前で大事な仲間を奪われた悲嘆を胸に抱えながらも、それでも俯き続けることはない。
前を向き、自らが果たすべきことに忠実であれ――それ即ち、風の騎士団の信念である。
暗闇に一つ一つ火をともすように、彼らの眼差しに揺れる信念という名の灯。
力強さを取り戻していく彼らの足取りは自然と速まってゆき、そして数刻の後に彼らは辿り着くこととなる。
王都バルディスの中枢――蒼穹の双宮へ。
*
内政を司る星焔宮から、王の居住宮へと伸びる回廊を疾走する二つの人影。
その一方が陽光宮の大扉をあけ放ち、焦燥した面持ちを隠すことなく王の安否を問おうとしたまま表情を固まらせ、立ち竦む。
視界に広がるのは、彼――アレクシス・ティア・ヴァーベインの想像したものと実に乖離したそれだったからだ。
「アレクシス、王はご無事で……」
後方から負傷した両腕を布で吊ったまま、駆け込んできた『聖土』グゥエン・ミルスト―もまた、同様に目を丸くして立ち竦む。
「やぁ、聖土。それから火炎も。無事で良かった」
少なくない数の側近に囲まれ、階の半ばからこちらへ向けて微かな微笑みを返す王。
傷だらけの王の間にはふさわしくない、静けさ。
至る所に鮮血が飛び、数名は白い布を被せられて運び出されている最中ではあったが、先ほどまで猛威を振るっていた筈の魔獣の姿はどこにも見当たらない。
思わずといった風に『聖土』は王宮魔術師長ユール・ドールへ無言の視線を向けたが、返されたのは苦笑混じりの否定。
静かに首を振る魔術師長へ、混乱の眼差しを隠せない『聖土』は続けて王の左右に控える近衛筆頭騎士、シークリムとウルナへ「どういうことでしょうか」と端的に問うたが、彼らもまたその首を横に振るばかりだ。
王の間にいる生き残った面々は、一様に彼らが求める答えを知らない。
その異様な状況を悟り、駆けつけてきた二人は続けるべき言葉を失った。
そもそも『火炎』と『聖土』は先ほどまで、星焔宮へと雪崩れ込んできた『魔獣』たちへの対処に追われていた。
『翼獣』は勿論、地を這って進む『地中獣』や、毒を吐き出す『溶獣』などを相手に絶望的な戦いを強いられた彼らは、一時は自らの死すらも覚悟した。
けれども、突如として対峙していた『魔獣』全てがその動きを止め、塵となって霧散したのだ。
歓喜よりも彼らの脳裏を過ったのは、その状況を招いたであろう最悪の予想だった。
『魔獣』達の背後に高位の『魔物』が暗躍していると考えていた彼らは、互いに見交わした目の中に絶望を見た。
――魔獣たちが一斉にその姿を消したのは、『魔物』がその目的を果たしたからではないか。
ストンと胃の腑が抜け落ちるような戦慄と共に、彼らは言葉を交わす間もなく、ただひたすらに陽光宮を目指して駆け出したのだ。
最悪を覚悟して彼らが開け放った扉の先には――それを裏切る静寂と希望が瞬いた。
今、目の前に王は存命している。その上静かな微笑みすら浮かべて彼らを見下ろすのだ。
これが全て魔物による幻術の類であると言われた方が、むしろ納得できたかもしれない。
「一体……何が起きたのですか?」
ポツリと『聖土』が零した呟きに、まるで応えるようにして大破した天蓋から吹き込む一陣の風。
王の間にいた全員が反射的にその身を伏せ、ややあって姿勢を戻した。
その視界に映るのは、二つの影。
夕日を浴びて、束の間その姿がぼやけるも、辛うじて分かるのは――
「ふん、思ったよりも早く片がついたらしいな」
「……どうでも良いんだけど、首根っこを掴むのはやめてもらいたいよ」
――少なくとも、魔獣ではない。
病的と称されそうなほどに白い肌の小柄な軍人が、真っ白な少女の襟足を無造作に掴みながら、ふわりと王の間へと降り立った。
その姿を見誤るものなど、この場にいる筈もない。
「紫炎……」
呆然とした面持ちで一歩前へ歩み出した『火炎』へ、ロアの平坦な眼差しが返される。
「ひどい有様だな、火炎。辛うじて命を拾ったか」
「あぁ、自らの無力をこうもまざまざと示されるとは……思わなかった」
「ふん、つくづく運のいい奴だ」
ふい、と視線を逸らせ言いたいことは全て言い終えたと言わんばかりのロアは、続いて階の半ばへ視線を落とした。
そしてほんの僅か、周囲にはほとんど伝わらない程度の安堵の溜息を零す。
「ジーク、どうやら死なずに済んだらしいな」
「叔父上、思ったよりも早い到着になりましたね」
「相変わらず悪運の強い奴だな」
「ええ、お蔭さまで」
淡々と言い交わされる声に、微かに混じる親愛の情。
何となくそれを嗅ぎ取った『彼』は、こいつは面倒臭いことになったと己が上官らしい男を横目に見上げる。
「ところで叔父上、その……彼女をそろそろ降ろしてもらえませんか? 曲がりなりにも命の恩人をそのようにぶら下げられては苦言を呈さずにいられません」
「ふん、こいつの働きは後で褒めておく。だが、その前に説教の一つもせねば上官として示しがつかない」
「……上官? 叔父上、その娘は貴方の配下なのですか?」
訝し気な王の視線に、ほんの微かに得意げな色を交え、ロアは返答する。
「これは先だって海街で拾った。良い拾いものをしただろう?」
「……いや、そもそも拾われた訳ではないんだけどね」
「比喩だ。つまらん茶々を入れるな。それに、お前の上官が俺であることは間違いないだろう?」
「……かなり不本意ではあるけれど、まぁ、そうなるのかな」
言葉通りに不本意な表情を張り付けた『彼』は溜息を隠さない。
そんな彼女を片腕に吊る下げたまま、ロアは階上より周囲を見渡す。そして傷付いた王の間に集まる面々をざっと確認し、主力となる人員が殆ど生き永らえていることを確認し、口許だけで笑みを浮かべた。
「おい、今回の騒動で身に染みてわかっただろう。もはや、この国に平穏は存在しない。一つ目の脅威はこいつの尽力で辛うじて除けられたが、これから第二、第三の魔獣の襲撃に耐えられるだけの備えをしていく必要がある。それが間に合わなければ、この国は遠からず亡ぶだろう」
「叔父上……やはり『砦』は消失していましたか?」
「あぁ、手遅れだ。すべてが墜ちたとは言い切れないが、少なくとも八つの内、二つは魔物の棲みかに成り果ててやがった」
「……そうでしたか。叔父上、無事の帰還を心から嬉しく思います」
「ふん、そうして喜んでいられるのも今だけだ。それにしても八翼の内、三翼がこの有様か。ちっ、先が思いやられるな……」
王の間に佇む『火炎』と『聖土』。
そしてロアの言うところのもう一翼。
まるでタイミングを図ったかの如く、向けられた視線の先――破壊された王の間の扉の向こうから従者を引き連れ、ひょっこりと顔を覗かせたのは、年若い青年である。
「……うわぁ、何この惨状。思ったよりも悲惨なんだけど」
「エレメル様、少しは隠す努力を……」
ちなみに顔を覆い、声もなく首を振るのは『緑風』エレメルの従者、騎士ローデルである。
「あっ、いけね。つい口が滑って……」
「おい、若輩。さっさと従者を連れてここまで来い」
「ひっ、な……何で『紫炎』の叔父貴がここに?!」
「ふん、予想もつかなかったのか。馬鹿が」
氷のような眼差しを受け、なかば硬直した青年は冷や汗を流すばかりで足が前に動かない。
結局、傍らの従者によって引き摺られるようにして階下へと到着した。
「『火炎』、『聖土』、それに馬鹿。お前らは紛れもなく実力不足だ。魔物が魔獣に付与した属性すら見抜けず、無様を晒した自らの弱さをまずは自覚しろ。残された猶予は僅かだ。次回の襲撃までに自らを強化できなければ、お前らに与えられるのは魔獣からの死、それだけだ」
「……叔父上」
思わず声を発したジークリンドだったが、続く言葉はなかった。その言葉の厳しさと、不条理さは自らの胸にも深く突き刺さる。
ロアの言葉はいつでも厳しく、そして確かだ。
事実であり、目を背けることの出来ない現実である。
半端な慰めや庇い立てはむしろ害悪でしかないと、王の間に立ち尽くす誰もが理解していた。
だからこそ訪れる、息苦しいまでの沈黙。
誰もが、身を縮めるしかない静寂の中で――けれども唯一の例外が、そこで小さな溜息を零した。
「ねぇ、正論も確かに大事なんだけどさ、人ってそんなに単純なものじゃないと俺は思うよ?」
真白の少女は、敢えて笑う。
危機を間近にしている時こそ、せめて表情だけは偽る努力をすることの大切さをかつて『ある人』に教えられたからだ。
「ほぅ、ならば聞こう。お前は自らの力で庇護した弱者を前に、正論以外の何を告げる?」
「うーん、そうだなぁ。まずは、休息。話はその後、かな」
「……それは問題の先送りだろうが」
「やれやれ、せっかちなのも大概にした方が良いよ。まずは冷静に話を聞ける状況になってからじゃないと、話も何もないよね。混乱した頭に何を入れたところで上手く回らないだろうし、それくらいは分かると思うけど?」
「ちっ、お前のそれも正論だろうが」
「あぁ、気付いちゃった? まぁ、何はともあれ焦りは禁物だよ。緊迫した状況ほど冷静にならないとね」
いつもよりか三割ほど笑みを増し、『彼』は話の終わりにこう付け加える。
「それに、猶予がないなら作ればいい。戦力を増すために必要な時間を稼ぐくらいなら出来ると思うよ?」
見開かれた幾つもの視線の先で、『彼』は些かの気負いもなく微笑んでみせる。
事実、それはかつての『彼』が数えることすら放棄してしまった永遠にも近い日々の中で、実践してきたことでもある。
年数分のブランクがあることは否めないものの、積み重ねてきたものは変わらない。
定められた『線』さえ見定めたなら、『彼』はそれを守ることに一切の躊躇いなど覚えないのだから。
「大した自信だが、まぁいい。相応の実力が伴うなら、文句はない」
「文句はないなら、そろそろ手を離してくれない? 地味に首が締め付けられてしんどいんだよね」
「いや、まだだ。上官の命令に背いて勝手に転移した件についての咎めが済んでいないからな。……さて、何を罰則として与えたものか……」
「叔父上、いい加減にして下さい。この娘は亡国寸前までいったこの国をその身一つで守ったのですよ」
すっ、と目の前に落ちかかる影が一つ。
ふいに首元が緩み『彼』はようやく地面と再会した。
「ありがとう、王様」
ここに来てようやくまともに息を吸い『彼』は文字通り、一息ついた訳であるが。
その安堵も、刹那のこと。
目の前で、階下の王に跪かれた心境はまさしく一瞬の空白を生んだ。
「こちらが礼を言うことはあっても、貴女から感謝を頂くわけにはいかない。国王――ジークリンド・セス・ミルフルール=ティータレアの名において、最大の賛辞と感謝の念を貴女に捧げます」
夕風に靡く、金茶の柔らかそうな髪。
その髪の間から、真っ直ぐに手向けられる瞳の色は――言い表しようのないほどに、奇麗な青だった。
まるで魂が吸い込まれてしまいそうな、どこまでも深い青の色。
天上の青だ。
『彼』はその色彩と、色彩の奥に瞬く強い意志を見て取る。
そしてその虚の心が、また一つ音を立てた。
空の筈の虚に、コロリと何かが転がって、鈴の音に似た何かが響く。
――あぁ、やっぱりだ。
『彼』は心のままに、笑った。
「うん、やっぱり俺が貴方を守りに来たのは間違いじゃなかったみたいだ」
刹那、虚空を仰いでから再び視線を下ろしてきた『彼』は、そうして見定めた『王』に向け、微笑む。
そして誓った。
「王様、これから先は俺の力が及ぶ限り、貴方を守ることにするよ。それがじーさまへの手向けで、俺自身の望みでもあるから」
「……じーさま?」
「うん、俺の養い親で一番大事な人。セレナス・リヴィエール・マクロニル」
「っ、君は……爺の、いやセレナス翁の養い子だというのか?!」
「うん、俺は一度命を絶とうとした。けどね、じーさまがそれを力づくで止めたんだ。だから、じーさまは俺にとっての命の拾い人。あの人が俺に死ぬなといったから、俺は死なない。あの人が最後まで貴方を守れなかったことを悔いているのを知ったから、俺はこうして貴方を守りに来た。俺の生きる道は、きっとそこに残されている筈だって、そう信じたかったから」
そこまで言って、不意に言葉を途切れさせた『彼』は深く溜息を混じらせて、ポツリと独白した。
「正直、期待なんて僅かだった。俺は今まで、あんまり人に対していい思い出がないからさ。でも、ここまでの道行きで会った人たちは、皆、俺に対して優しくしてくれた。まぁ、例外も無くはないけど」
声もなく、膝をついたままの王様に手を伸ばしながら『彼』は苦笑した。
「王様は、多分いい人だ。俺の勘はそう言ってるし、じーさまが見守り続けて最期まで気に掛けてたような人だからね。俺は貴方のために出来るだけのことをするよ。魔獣や魔物が王様の命を狙うなら、俺は王様の命を守る。貴方を、殺させない」
沈み切る前の、一筋の陽光。
照らされた王座の間に響く、誓いの言葉。
差し出した少女の両手に、いつしか王の手が重なった。
「君は……いや、その前に名前を教えてくれるかな?」
「あぁ、それなんだけど……実は思い出せないんだよね、自分の名前。じーさまに貰った名前は、多分じーさまが殺されたあの日に喪われてしまったのかも。だから、王様に一つ頼みがあるんだけど」
「爺は死んだ……のか。そうか、君はそれでここに。君は、命の恩人だ。私に叶えられることならば出来る限り望みを聞こう」
王の返答を聞き、にっこり笑った少女。
ならばと口にしたのは、おそらくその場にいる誰も想像していなかった褒賞であった。
「王様、俺に新しい名前をくれない? これから先、名前がないと色々不便だし、一々名前を言えない理由を説明するのも面倒臭いからね」
「……私が、君の新しい名を?」
「うん、要するに名付け親だね。どう、駄目かな?」
ほんの少しだけ首を傾げ、気恥ずかし気に問うた少女。
膝を着いたまま、彼女の手をとった王は暫く目を瞬かせていたが。
やがて、微笑んで頷いた。
蒼穹がごとき双眸が、柔らかな弧を描く。
「少し、時間を貰えるだろうか? 君に似合うだけの名を思いつくのに、今すぐという訳にもいかなそうだ。出来れば、ここに来るまでの君の話も聞いておきたい」
「それは全然かまわないよ。でも、まさか数年掛かるなんてことはないよね?」
「はは、勿論。出来るだけ早く君の名づけ親になるとしよう」
「うん、頼んだよ。これから宜しくね、王様」
「……君は不思議な子だ。こちらこそ宜しく頼むよ」
陽は沈み、ぽつぽつと灯り始める夕の灯。
名もなき『彼』のとりあえずの道行きは、こうして一先ずの終着を得る。
案外のんびりとはしていられない、現状を前にしても尚。
真白き少女は、少しずつ満たされ始めた虚の心にふわりと微笑みを手向けてみせる。
『じーさま、二つ目の道標を無事に見つけたよ』
己が心の内にそう呟きながら、色を失くした刃に身体を寄り掛からせ、ほぅと一息。
「楽しそうだな」
「うん、こういう面倒事なら案外被るのも悪くないね。先が楽しみになってきたよ」
「……ふ、豪胆なことだ。悪くない」
いつの間にやら忍び寄る、自称上司を真横に見遣りつつ。
『彼』は悪戯そうに笑ってみせた。




