*王都の顛末*
*
王都市街を、犠牲を払って駆け抜けていた『緑風』エレメル・サシェは教会の中に女子供や傷病者を退避させ、延々と続く魔獣の猛攻から、辛うじて彼らの命を死守し続けていた。
けれどもその均衡すら長くは持たないことは、誰よりエレメル自身が察している。
放つ術式の殆どが意味を為さず、配下数名に張らせた対魔獣結界をしても、持って精々数分程度。あまりにも魔獣の数が多く、本来ならば十分に防ぎきれるはずの攻撃ですら十分に防ぐことは敵わず、結界に無数の皹が生じている。
幾度も穿たれた爪や牙によって、確実に広がっていく一方の皹。部下たちが代わる代わる魔力を注いで補強し続けているものの、破壊される速度の方が明らかに早く、結界に割けるだけの魔力も枯渇寸前だ。
もはや、火を見るよりも明らかな劣勢。
遠からず結界を破られ、なだれ込む魔獣に為す術もなく蹂躙される未来は間近へと迫っていた。
「ローデル、たぶん俺たちはここで死ぬ。戦って死ぬのは本望だけどさ、守るべき者たちを守れずに死ぬとなると……正直、遣り切れない気持ちだ」
「ええ、私もそれだけが心残りです。こんな時にだけ神へ祈りを捧げてしまうのは、我ながら浅ましいですね……。エレメル様、せめて一匹でもあれの断末魔を聞いてから死ぬと致しましょう」
「あぁ、出来るならそれが望ましいな!」
眇められた両者の眼差しは、眼前に迫った魔獣たちへの純粋な憎悪に満ちていた。
この命を捧げ、民を守ることが彼らの信念である。故にそれを害するモノは全て、排除すべき害悪そのもの。
しかし、たとえ彼らがその命を引き換えにしてすら殲滅が叶わないことを目の前の害悪たちはその身をもって示していた。
広がる一方の皹から、パキリパキリと嫌な音が響き始める。
「限界が来たらしいな。ローデル、これまで沢山世話になった。叶うなら、あの世でまた酒を交わそう!」
「ええ、楽しみにしていますよ。こうなれば最後の最後まで足掻いてみせましょう。例え細切れにされようと、奴らの喉笛に噛みついてやります」
「あはは。沸点を超えると現れるその野生じみた性格、案外嫌いじゃなかったぜ、ローデル!」
「私も貴方のように真っ直ぐな騎士に仕えることが叶い、まさしく本望です」
微笑みを交わし、死を目前にした主従は剣を構え、その時を待つ。
限界を迎え、砕け散った結界の向こうから一斉に襲い掛かかる無数の獣たち。
滴る牙もそのままに、その紅い口を限界まで開き、一息に騎士たちを飲み込もうと迫ったが――不意に、その動きが止まる。
まるで彫像の如く固まり、何かに抗うように身を捩るも、もはや手遅れであった。
――リィン、と涼やかな音が王都にいるすべての者の耳に響くと同時。
――為す術もなく、魔獣たちは内部から破裂した。
一度ならばまだしも、音は波となり魔獣たちの魂そのものへと干渉する。
繰り返される聖音――その呼び名で誤解を招きやすいが、実のところ聖音とは音そのものに聖属性を宿している訳ではない――それは指定した『生命』に対して相克する音を発生させている術式なのである。
その属性は、相殺。
存在そのものを歪める破滅の音にもなりうるそれは、耳を塞ぐだけでは抗いようもない殺戮の魔術式だ。
使い道次第で、周囲の生物全てを皆殺しにする事さえも可能である。
その真実を知る者は極僅かであり、彼らは皆その事実をありのままに知らせることを憂慮した。故に、一般に知らされる術式の内容はあえて歪められている。
聖音がその体内に宿る魔力によって増幅され、意図せずに自爆する形へと導く死の術式。それこそが、神聖術式の奥義ともいえる『聖樹の福音』であると。
「……何が、起きたんだ」
「どうやら……助かったようですね」
目前にまで迫っていた死の象徴が目の前で破裂し、脅威そのものが消失した現状。
見渡す限り、あちこちに蔓延っていた魔獣の一体すら見当たらない。苦痛のうめき声を除き、誰もが声を失って立ち竦んでいたが故に、城下は異様なほどの静寂に包まれていた。
困惑と込み上げる歓喜の狭間で主従二人は青ざめた顔を見合わせ、銘々に呟く。
「これ程の数を、一気に……?」
「不死性すらものともせず、ですね。まさに神の御業の如き術式と言えますが……」
そしてどちらともなく、紺碧の空を仰いだ。
未だに耳に響く鈴の音の如きそれを辿って行った先には、真白の一点。
それは忌むべき魔獣とは似ても似つかぬ、小柄な人影であり――遠目では性別の確認すらも困難だった。
「あれ一体、何者だ?」
「……聖土様かとも思いましたが、どうやら違うようですね」
「あぁ、グゥエンはそもそも空を飛ぶ術式なんて修めてない。あれは地に足を付けてこその加護持ちだって聞いてる。『八翼』で空を飛べるのは、俺と……『純黒』、『紫炎』、『紺碧』くらいのものだろ」
「では、その御三方の誰かということでしょうか?」
「いや……たぶん、誰でもないような」
ポツリと零れたエレメルの声に、困惑を含んだローデルの視線が向けられる。
それもその筈、これほどの戦果を成し遂げる存在など近隣諸国を含めても『八翼』を除き、到底考えられない事なのだから。
それほどにこの国においては『八翼』とは特別な意味を冠された者たちなのである。
「あれが誰にせよ、命を救われたのは同じだろ? 地に降りるつもりがあるのなら、遠からず正体も明らかになる筈だ」
「それもそうですね」
「にしても、とんでもない術式が存在するんだな」
「ええ。あれ程の広範囲術式を生きて目にする事が叶っただけでも、頑張った甲斐はありましたね?」
「あぁ、我ながら頑張った気がする。誰でもいいから、まず生き残ったことを褒めて欲しいもんだよ」
ここに来てようやく、彼らの声に喜色が混じり始める。
先ほどまで、延々と死の脅威を感じ続けていた両名だけに、今この現実を生きて迎えられているというその実感を得るまでに相応の時間を必要としたのは、無理からぬ話であった。
実際、彼らの周りに立つ『風の騎士団』の面々はそんな二人から「よくここまで頑張ってくれた」と労いの言葉を向けられるその瞬間まで、彫像のように立ったまま、茫然としていたのだ。
決して少なくない人数の仲間を目の前で喰らわれ、自らもまた同じ死にざまをすることになるのだろうと諦めていた心が、一気に塗り替えられていく。
――まだ、生きているのだという実感に。
唐突に訪れた、堪え切れないほどの安堵の思い。
それは、静かな慟哭となり、各所で膝を折れ、むせび泣く騎士たちの姿として現れた。
生きているというただそれだけのことが、どれほど尊いことなのか。
他ならぬ彼らはこの戦いを通し、深く実感することとなったのだろう。
*
「……あれはまさしく『大聖樹の福音』。たった一人であの術式を完成させるとは……」
王宮魔術師長ユール・ドールは『彼』が振り撒いていった回復薬により、辛うじて命を長らえた一人である。
王宮に仕える人々から、敬愛の念をもってユール爺様と呼ばれる王宮魔術師の長であり、現在の王宮に彼に並ぶ古参はいない。
現王を生まれた時から見守り続け、この国の終焉をこんな形で迎えさせるものかと、かつて『師』に伝えられた高位術式を命懸けで発動させようとした直前の事だった。
突き破られた天蓋を、驚愕の思いで見上げたのはまさに一瞬の過ち。
突如として飛来した翼獣の紅い双眸の奥に、ユール・ドールは自らの死をまざまざと見た。
激痛と共に途切れた視界と、失われていく意識の狭間で、逃れようもなく近づいてくる死の足音。
無念の思いと共に、それを迎えようとしていたのだ。
――けれども突如としてそれは遠ざかり、浮かび上がる意識の向こう側に、たくさんの懐かしい声が聞こえてきた。
共に死を迎えたと思っていた、弟子たちの声もまた。
それに耳を傾けるうちに少しずつ意識を取り戻し、主君たる王が存命であることに無意識に眦を濡らしたその直後。
思いがけぬほど大きな魔力の波動を感じ取り、ユール・ドールは一気に覚醒の時を迎えたのだ。
勢いのままに半身を起こし、天蓋越しに頭上を見仰いだ状態で絶句する。
「……なんという、魔力の波動か……」
「ユール様、お目覚めになりましたか!」
駆け寄ってきた弟子の一人に、ふらつく身体を支えられながらもユール・ドールは上を見上げたまま、己が身に伝わる魔力の総量に愕然としていた。
「……八翼、なのか? いや、これ程の術式を単体で紡げるだけの存在は……」
「意識が戻ったね。ユール爺、気分はどう?」
「我が君! ご無事でなによりです」
いつの間にかすぐ傍まで歩み寄ってきていた、若き国王。彼から向けられる微笑みに、ユール・ドールは心の底から安堵を覚える。
同時に、見過ごせぬほどの魔力をもって広範囲術式を紡いでいる最中であろう上空の存在を王ならば答えてくれるだろうと、隠し切れぬ期待と共に問い掛けた。
「この上なく、清々しい気分です我が君! 王都上空に八翼全員の招集をかけたのでしょうか? それにしても、この状況下において間に合ったこと自体が奇跡ですなぁ」
「いや。あれは、私の意図したものではないよ」
「……はて、それはどういうことでしょう? まさか、八翼自ら独断ということで?!」
「いや。そもそもあれ自体、八翼ではないんだ」
「は?」
珍しく歯切れの悪い答えを返し続ける王を見上げ、混乱を増していく一方のユール・ドール。
そんな彼に対して、国王ジークリンドは苦笑とも困惑ともつかぬ表情で、分かっている範囲のことを伝えた。
「こうして私たちが生き残れているのは、すべて上にいる彼女のお蔭と言えるだろうね」
「彼女……というと、まさか『純白』エレンシア・フォン・フィカロ嬢がたった一人で?!」
「いや、『純白』ではないよ。繰り返しになるけれども、上空にいるのは八翼の誰でもない。それにエレンシアには水都を任せているから『紺碧』と共に何とか踏ん張ってくれている筈だ。現在、王都にいるのは『火炎』『聖土』『緑風』の三人で、『聖土』は深手を負って療養中。そろそろ『紫炎』の叔父上も到着する予定だけどね……」
「我が君、そろそろお答えを。結局、上にいるのは誰なのでしょうか?」
当惑した面持ちのユール・ドールに、その気持ちはよく分かると言わんばかりに周囲の面々からの賛同の眼差しが集中する。
「実を言うと、名前すら分からないんだ」
そんな中、発せられたのは信じられないような王の言葉。
次に発するべき言葉すら分からず、訪れた沈黙。まるでそのタイミングを図っていたかの如く、頭上の魔力が一点に集束されていく気配にユール・ドールは再び頭上を見仰いだ。
そして驚嘆する。
浮かび上がった術式の気配に、その内容に、その威力の途轍もなさに。
そして冒頭の呟きが、発せられたのであった。
「ユール様、『大聖樹の福音』とは一体……?」
「お主たちにはまだ教えておらん領域の術式だ……。知らぬのも無理はない。神聖術式の奥義であり、かつてこの術式はわが師セレナス・リヴィエールが古代遺跡より発見し復刻した十三術式のうち、あまりの緻密さと発現の難しさから第一級魔術式として国庫に封印されたままとなっておるものの一つだ」
「……創始者セレナス翁の、封印された術式ですか。それはまた、とんでもないものを……」
「つまり、あれが神聖術式の究極と称された『聖音』の真価なのかな?」
どこか蒼褪めたような顔色で相槌を打つ弟子の傍ら、国王ジークリンドは淡々と情報の把握に努める。
ユール・ドールはそんな主君の姿に頼もしさを覚えながらも、苦笑を隠し切れない。
「ええ、我が君。真価と言ってしまえばその通りですな。そしてあれ程の力を制御してみせる魔術師は過去も含め、私の知る限り存在しません。セレナス師ですら、最後まで『聖音』を完全に制御するところまでは出来なかったと言っておられました。その上で、一つお聞きしたい。上空の人物は、真に人なのでしょうか?」
「……なるほど、その視点は考えていなかった。見る限りは人だったと思うけどね。人に擬態している魔物、という可能性もない訳ではないが、その場合はどうして魔物が人の王を救うために尽力しているのかという疑問に突き当たるね」
「一種の懐柔策という可能性はありませぬか?」
「ふむ……無いね。そうまでして私たちの信用を得たところで、一体彼女は何を得られる? 正直、望むほどのものを思いつけない」
今、この瞬間にも滅びを迎えようとしていた一国の王を寸前で救い、そうして得られるものは確かに相応のものだろう。ましてや命を救うだけに留まらず、国そのものの滅亡を阻止したとなれば、更に。
数え切れぬほどの賛辞と感謝に始まり、今までに贈られたことすら数えるほどしかない第一級勲章が与えられるのは、まず当然の帰結だ。
そして働きに見合うだけの恩賞と、領地が贈られても誰も異議を唱えることは出来ない。一代では遊び暮らしても到底尽きることのないほどの財産と栄誉を手にする事すら、不可能ではないだろう。
それが只人であるならば、望んだところでまるで不思議ではない羅列だ。
ただし、あれほどの力を行使できるモノが望むものと考えた時には、それはあまりにも不釣り合いに思えて仕方がないものへと変わるのだ。
「……そうですな。確かに、思いつきませぬ」
「これ以上の考察については、もう少し情報を得てからでも遅くないと思うな。それに直接本人から聞き出す方が遥かに効率的だろう?」
ふわりと微笑み、どこか悪戯そうに目を煌めかせる王の姿にこれは珍しいとユール・ドールは瞬いた。
生まれてから今に至るまでずっと彼に仕えるが故に、見分けられる素とそれ以外。
そもそもこの若き王が素の表情を覗かせるのは、限られた対象に限られる。命を救われたからと言えど、そう易々と懐柔されるような生半な精神力の持ち主ではないのだから。
「この後、降りていらっしゃるのですか?」
「一応、彼女の目的だけは聞き出しておいた。そろそろ降りてくると思うよ」
「ほぅ。それで彼女の目的とは?」
「……うん、それが唯一分かっていながら、同時に分からないことでもある」
不意に言葉を途切らせ、困ったような、それでいて柔らかな表情で国王は直参の魔術師に告げる。
「曰く、王様を守るためだと。ここまで真っ直ぐな言葉を聞いたのは久方ぶりになるね。何やら当人としてはこそばゆいばかりだよ」
「……お知り合いで?」
「いや、初対面だね」
きっぱりと言い切る国王へ、訝し気な視線を向けるユール・ドール。
「……怪しすぎますな。やはり直接話を聞いてみない事には、どうにもなりますまい」
「うん、全くだ」
先ほどまで、亡国も間近と張り詰めていた王の間に弛緩した空気が流れる。
どのような思惑であれ、ここにいる全員が上空の少女にその命を助けられ、その結果として与えられた現状。
生きているという、実感。
誰もがそれを噛み締めつつ、今もまだ響き続ける『聖音』に耳を傾けていた――。




