45話 英雄
――そこには、英雄がいた。
上空を目にも止まらぬ速さで蹴るように駆け、右手に持った大剣を幾重にも龍の体表に叩きつける。
装備しているゴテゴテの無骨な鎧は、戦闘の激しさを表すかのように所々がひしゃげて破損していて……もはや、防具としての役割を果たしていない。
鎧が剥がれ落ちた部分から見える身体は、灼熱の炎で焼かれたように痛々しく赤黒く爛れており――本来あるはずの左腕は、途中から消し飛ばされたかのように欠損していた。
その身体は既に……なんで動けるのかが不思議になるほどの状態。
しかし、その人間はそんな事を微塵も考えさせないような動きで龍と対峙し、たった一人で戦っていた。
強大な龍に立ち向かい、空を駆けるその姿はどこの誰が見ても――御伽話や物語に出てくる、"英雄"。
街の誰もが呆けるように上空を見上げ、その人間の一挙一動に目を奪われていた。それほどまでに圧倒的な光景だった。
きっと、街の人々にとってその姿は希望に写ったに違いない。騎士団の魔道士たちでもキズすらつけられなかった龍に、たった一人で互角に戦っているその姿は、希望以外の何ものでもなかった。
「なんで……どうして……!」
でも、わたしにとってボロボロになりながらも龍に立ち向かうその姿は、希望なんかじゃなかった。だって……上空で戦っているその人間は、わたしのよく知っている人――レイだったから。
なんでレイが龍と戦っているのかが理解できなかった。自分が一番大事と言っていたレイが、自分を犠牲にして街を守るように戦っているのが分からなかった。
ボロボロになって今にも死にそうなレイを見ていると、ひどく胸が締め付けられる感覚を覚えた。レイがどこか遠くへ行ってしまうような気がして怖かった。
レイはわたしが想像していたより何百倍も強かった。一つの国を滅ぼせるほどの力を持つ、龍種と互角……いや、僅かに優勢になるほどに。
避けられるはずの龍の息吹を全身で受け止め、街への被害を最小限に抑える。その行動は、自分を犠牲にしてでも人々を守るという強い意志を感じた。
龍は、自身よりも遥かにちっぽけな存在である人間に互角に戦われているという事実に狼狽し、焦ったように荒れ狂う。街へ攻撃するでもなく、自身を脅かしているレイを脅威として捉えているのか、固執してレイだけに攻撃を行っていた。
大地を揺るがすほどの龍の咆哮が響き、空気がビリビリと震える。幾重にも激しい破壊音が鳴り響き、その度に龍かレイのどちらかの身体が損傷していた。
そして……どちらの命が先に途絶えてもおかしくない、一瞬にも永遠にも感じられる激しい戦いが続いて――
「…………やっと、か」
――最後に立っていたのは、レイだった。
レイは地面に倒れ付した龍の首元に大剣を深く突き刺し、動かなくなったのを確認したあと、途切れ途切れの弱々しい声を出す。
力を失ったように光が失われていている、龍の瞳。誰が見ても、既に事切れていることが分かった。つまり……レイは、龍に勝ったのだ。たった一人で、誰の力を借りることもなく。
龍の首に大剣を突き刺し、佇んでいるその光景はまさに、物語の英雄譚に出てくる一枚絵のようだった。誰もがその、幻想的で非現実的な光景に目を奪われ、声を出せずに唖然としていた。
「レイ――」
すぐに、今にも倒れそうなほど憔悴しているレイに駆寄ろうとする。剣を支えに、なんとか身体を支えているレイを今すぐにでも休ませたかった。
「――! ――――!!」
その瞬間。頭上から聞こえてきたのは耳を劈くような何かの咆哮。
何事かと上空を見上げる。そこには――
「――――ぇ」
先ほど倒したはずの龍と、"全く同じ姿をしている禍々しい魔力を纏った龍が二匹"、遥か上空を漂っていた。
ゆっくり、悠々と飛んでいるその姿はまるで……わたしたちを、嘲笑っているかのようだった。
¶
「まだ……いる、のか。……めんどくせぇ、な……」
レイはその光景を見て溜息を吐いたあと……剣を支えにして、もうまともに動かない足を引きずりながら、ボロボロの身体を動かす。
その姿は、まだ立ち向かおうとしているかのように見えた。さっきやっとの思いで悪戦苦闘の末に倒した龍が二体いるという状況なのにも関わらず――レイは、諦めていなかった。
「ま、待つんだ! もう街は捨てて、避難したほうがいい! その怪我も、今すぐ白魔導士に《回復魔法》を使って貰わないと――」
尚もボロボロの身体を動かすレイを止めようと、騎士団の鎧を着た男性が声を張り上げて静止させようとする。その言葉は、わたしの心中をすべて代弁していた。
「邪魔、する……な。これは絶好の、チャンスなんだ。それ、に……無理、かどうかは……俺が、決める」
「なっ……!? しかし、その身体では――」
レイは構うことなく足に装着した《天翔靴》に魔力を込めるために地面に腰を下ろし、空を駆けるための準備を行う。欠片も聞き入れることはなく、自分の意志を貫き通すために。
分からなかった。どうしてそこまでして戦おうとするのかが。自分を犠牲にしてまで、街を守ろうとするのかが。自分を大切にしろと言ったのはレイなのに、すべてを捨てて逃げればいいと言っていたのに――
「――俺は……勇者に、なる男だ」
唐突にレイが呟いたのは、意味不明な宣言。
「……は?」
騎士団の男性は、それを聞いてぽかんとした顔を浮かべる。周りの街の人たちも、同じ表情をしていた。
「俺には……夢が、ある。勇者になって……魔王を倒して、王様になるっていう、夢が……でも、まだ俺は勇者に、なれてない。どれ……だけ、努力して強くなっ、ても、聖印が現れなきゃ……勇者に、なれない。意味が、無い」
剣を支えにして身体を支え、空だけを見据えてこちらを見ずに言葉を紡ぐ。自分に言い聞かせるかのように。鼓舞するかのように。
「だけど……聖印が、現れる条件なんてものは見つかって、ない。……そこで……俺は、考えたんだ。勇者になるために……どうすれば、いいか」
「何を言っているんだ! そんなことより、早く身体を治さないと――」
レイは静止の言葉を無視し、大剣を支柱にしてふらふらの身体を無理矢理に立ち上がらせる。
「簡単な、話だった――『"勇者"になるためには、"勇者"に、なればいい』。御伽噺の、勇者は……誰よりも強く、勇敢で……悪から人々を助ける、絶対的な存在だ。それが誰もが思う、理想の、勇者の姿。なら……勇者になる、ために……"俺が、それになればいい"。誰よりも強く、なって……誰かを、助ければいい。そうすれば、きっといつか……勇者になれる、なれるはずだ。なら…………それ、なら――」
それはレイの信念だった。龍に立ち向かう為の確固たる理由。"勇者になりたい"という願い、少年なら誰しもが憧れる純粋な――憧憬。
「こんな……所で、逃げる訳に、いかねえだろ……!」
身体を無理矢理動かし、二匹の龍が滞空する上空へと駆けだす。無謀だと止める声など聞き入れず、街を守るためにたった一人で、立ち向かっていった。
天翔靴で目にも止まらぬ速度で空を駆け、瀕死の身体とは思えない程の動きで、大剣を龍の体表に何度も何度も叩きつける。
鉄が一瞬で融解する息吹を防護魔法を纏った身体で受け止め、龍の巨大な体躯に耐えきれず地面に叩きつけられ、それでも決して倒れることなく何度も何度も立ち上がる。
勝ち目のない、絶望的な状況でも逃げずに立ち向かうその姿は――もう既に、誰よりも勇者だった。悪から人々を助ける、英雄の姿だった。
左腕を消し飛ばされ、残った右腕は度重なる息吹を受けて焼け爛れていて、纏っていた鎧は見る影もなく辛うじて鎧だとわかる程度の形を保っているだけだった。
でも、むしろその動きは最初よりも疾く、鋭くなっていて……本来死んでいるはずの状態なのに更に強く激しく、龍と戦っていた。――2体の龍を相手取り、翻弄させる程に。
勝てるはずがないと思っていた。1匹でさえ悪戦苦闘の末にようやく倒したのに、2体なんて天地がひっくり返っても勝てる訳がないと。わたしだけじゃなく、街のみんなもそう思っていたはずだ。なのに、それなのに――
「………………ぉわ…………た、か………………っ、か…………た」
――見上げるほど大きな物体に背中を預け、死んだように脱力するレイの姿。
両腕は根本から消失し、身体は息吹の高熱により鎧と皮膚が融着していて……もはや辛うじて人形を保っているとしか言えない姿。満身創痍と表現するには生ぬるいほどの、死に体になっていた。
「…………嘘、だろ」
誰かが、ぽつりと声を漏らした。その視線の先は――レイのすぐそばに横たわる、2つの大きな物体――龍。
龍たちの漆黒に輝く鱗はズタズタに剣傷が走り、力を失ったように地面に身体を横たわらせていた。一体の龍は首と身体が乱雑に分断され、もう一体の龍は巨大な瞳に大剣を突き刺され、ピクリとも動かない。つまり、つまりレイは――
「勝った、のか……? たった一人で、龍に――?」
瞬間。周囲から割れんばかりの歓声が湧き上がる。固唾を呑んで見届けていた街の住民たちが、騎士団の騎士たちが、冒険者たちが……英雄が龍を倒した事実に泣いて喜び、声を張り上げていた。
「ッ――!」
わたしは誰よりも早く、レイに駆寄ろうとした。死に体の痛々しい姿のレイを見て、いても立ってもいられなかった。
レイの所――"龍が横たわる場所"に、瀕死以上の重症を負うレイを癒せる訳でもないのにも関わらず、ただ愚直に駆寄ろうとした。……して、しまった。
「――!?」
突然襲ってきたのは、全身から力が抜けたかのような感覚。思わず身体を支えられず、体勢を崩してぐらっと地面に倒れこむ。
「な、に……これ」
ぐるぐると頭の中がぐちゃくちゃにかき混ぜられたかのように思考が纏まらず、何が起きたのかが理解できない。
何が起こったのかを確認するために、周りを見る。するとなぜか――"黒く禍々しい魔力"がわたしの身体を蠢くように覆っていた。
どこにも怪我なんてしていない。それなのにも関わらず、黒い魔力は加護が発動されたときのように、わたしの周囲を生き物のように躍動する。その様子はどこか……歓喜しているかのようだった。
その黒い魔力は、ゆらゆらと空気中を漂い……わたしから分離されたかのように離れ、ある場所へ向かう――レイと龍が倒れている方向へ。
そして、倒れている片方の龍の元にたどり着き、その巨躯へと吸い込まれるように消えて――
「――ぇ」
ぎょろりと、大きな蛇のような瞳が開かれた。――片目に大剣が刺さった、死んだと思っていた龍の瞳が。
「ぁ……」
その無機質な瞳の中に映るのは――体勢を崩して地面に倒れ込んだ、わたしの姿。
ゆっくりと、龍の口が開かれる。次の瞬間、鉄を一瞬で溶かす程の熱量を持った息吹が、勢いよく吐き出された。一直線に、わたしに向けて。
地面を焼き焦がしながら、身の丈よりも大きな黒い炎の塊がゆっくりと、まるで時間の流れが遅くなったかのようにこちらに迫る。
すぐに身体を動かして、避けようとした。……でも、遅くなったのは息吹だけではなく、わたしの身体も一緒で……迫りくる炎の塊に、どうすることも出来なかった。ただ呆然と、他人事のように見ていることしか出来なかった。
『――――いいか、加護の力は絶対じゃない。昨日あった加護が今日には無くなったとか力が弱くなったなんてのはよくある話だ。お前の不死身に近い加護も、いつどこで消えるか分からん。……つまり、何回も死んで生き返れる保証なんて無い。お前がいま生きているのはただの偶然に過ぎないってことを理解しておけよ。そうじゃないと――』
ゆっくりと流れる時間の中、脳裏にある映像が流れる。それは……前にレイに聞いた、加護に関する話。
『――――加護の力が弱くなったり無くなったりするときは、必ず前兆がある。夢で精霊の声を聞くだとか、"何かが抜け出るような感覚"を覚えるとかな』
迫りくる炎を見ながら、考える。わたしの加護はいま、どうなっているのだろうかと。
さっき感じた、何かがごっそりと抜け出たような感覚。黒い魔力が身体から分離され、龍の元へ吸い込まれた光景。
それは、レイが言っていた前兆その物のように見えた。それにしか見えなかった。ということは、わたしの加護は――
轟々に燃える黒い炎が眼前に迫る。わたしは何も出来ず、ただ呆然と見ているだけ。
視界が黒で埋め尽くされ、熱量で肌がビリビリと焼けるような感覚。吹き付ける熱風で目が開けて居られなくなり、ぎゅっと眼を瞑る。
どうすることも出来ず、黒い炎が身体に触れる――その瞬間。
「――? あ、れ……?」
数秒後、なぜか何の衝撃も感じない事に疑問を抱き、瞑っていた目を開ける。すると――
「……おま……え…………なん、で…………こ…………こ、に…………」
――目の前に、レイが立っていた。
そして……役割は終えたとばかりに、地面に倒れ込んだ。同時に、息吹を吐いた龍も全ての力を無くしたかのように瞳から光を失う。
一瞬、何が起きたか分からなかった。……でも、すぐに理解した。レイが――わたしを龍の息吹から救うために、体を盾にして守ってくれたのだと。
「なん、で……? わたし、なんか――」
なんで守ってくれたのか分からなかった。レイはわたしのことなんてどうでもいいと言っていたはずだ。自分が一番好きで、他人なんてどうでもいいと言っていたはずだ。それなのに、なんで――
「……し、んだ……ら、…………ぶん、わる……だ……が……」
レイは喉が焼けているのか、言葉にならない擦れた声を出す。その声は弱弱しく、一つの言葉を発するのも辛そうで、今にも死んでしまいそうなほどに憔悴していた。
「やだ……やだ……誰か、レイを――!」
レイの様子を見て居られず、周りに助けてと叫んだ。自分では到底治せない損傷を、死にそうになっているレイを助けてほしくて。
すぐに、突然の龍の息吹に硬直していた騎士団の人たちと白魔導士の人たちがハッと気が付き、レイの損傷を癒そうと動き始める。しかし――
「――!? 何で《回復魔法》が効かないんだ……!?」
なぜか、一流の白魔導士たちが束になって回復魔法をレイの身体に行使しても、一向に損傷が癒される事は無かった。まるで――"何らかの魔法で邪魔されている"かのように、レイに行使される直前で魔法が掻き消されてしまっていた。
「お願い、お願いだから……死なない、で……!」
「…………だ…………うぶ、だ…………お…………しな…………か、ら」
レイは弱弱しい声で、安心させるように呟く。
「そうだよ、ね……レイは、死なないよ……ね? ……だって、まだレイに言われた修行が終わってない、もん」
白魔導士の人たちが、レイを……街を救った英雄の命を救おうと、数多くの《回復魔法》を行使し続ける。
心のどこかで……きっと、助かると思っていた。レイなら死なないんじゃないかと、根拠のない自信を持っていた。またわたしのことをからかって笑い、失礼な事を言ってくるレイの姿が見れるはずだと、そんな日常に戻るのだと、そう思っていた。思っていたのだ。
でも――
――その日から、レイが目を覚ますことは……二度と、無かった。