44話 龍
突然の龍の出現に、街は恐慌状態に陥った。
龍の出現と同時に発生した、空にヒビが入ったような大きな亀裂。
そして――その亀裂から這い出てきたのは、大量の禍々しい魔物の姿。
魔物たちは闇に染まった空を悠々と飛び回り、地面を闊歩し、人々を襲った。
街の住民が、冒険者が、商人が……誰もが魔物から逃げようと必死に足を動かし、そんな人々を騎士団が声を張り上げて統制をとろうとしていた。地獄のような、非現実的な光景だった。
騎士団は亀裂から生じた魔物への対応の為に多くの人員を割き、その奮闘のお陰でなんとか、人々への大きな被害は免れていた。でも――
悠々自適に上空を飛ぶ、黒く禍々しい魔力を纏った龍の姿。――その体表の龍鱗は、黒く美しい輝きを放っている。
先ほどから何度も、騎士団の一流魔導士が束になり、上空の龍に向けて強力な攻撃魔法を詠唱し打ち込んでいた。……でも、そのすべてが龍の体表にキズすらつけることが出来ていなかった。
幸い、龍は攻撃を行う騎士団に対しおちょくっているのか、無機質な蛇のような大きな瞳でこちらの様子を見ているだけで、攻撃してくることは無かった。伺うように上空をゆらゆらと漂っているだけだった。
今はまだ、屈強な騎士団が襲い来る魔物から人々を守っているお陰で何とかなっている。でも――この龍が襲い掛かってきたらどうなるだろうか。一流魔導士たちの攻撃魔法でもキズすらつかないこの龍が。
上空で様子を見ている龍は自身に向かって飛んでくる魔法の数々を避けもせずに受け、瞳を細める。その様子はまるで――自身の鱗にキズすらつけられない事を、嘲笑っているかのようだった。
「……なに、あれ」
呆然と、声を漏らす。
遥か上空を悠々と漂う――龍。
意味が分からなかった。この状況に、あの生き物がここにいることに。
そもそも……龍は滅多な事では人々の前に姿を現さないと本に書いてあったのだ。ワイバーンやドレイクといった攻撃的な竜種と違い、龍は基本的に温厚で、こちらから害さない限り襲ってくることはない。それなのに――
――上空を漂う龍は禍々しい魔力を纏い、こちらを蛇のような無機質な瞳で伺っていた。その姿はとても、友好的で温厚と言われている龍と同じには思えなかった。自分を誇示するかのようにゆらゆらと漂い、ときおり瞳を細める様子は……嘲笑っているようにしか見えなかった。
「――おかしい。なぜか範囲結界が発動されていない。それに、なんで龍がこんな所に……? 様子もおかしいみたいだが――」
レイはこんな状況でも冷静に取り乱さず、考えているようだった。どこからどう見ても……あの龍を倒すことなんてできる訳がない、絶望的な状況に関わらず。
「――おい、いますぐ家に戻れ。あそこなら、強力な隠蔽魔法と結界魔法を掛けてあるから少しは安全なはずだ。"ほかの家"のやつらも――結界魔法はかけてあるから大丈夫だし、既に全員《音魔法》で伝えた。あとはお前だけだ」
「……! なら、街の人たちも――!」
「収容人数の関係上、街のやつらまで入れるのは無理だ。……下手したら暴動が起きるかもしれないからな。でも、お前たちだけなら問題ない」
「ッ……! じゃあ、わたしの《回復魔法》で――」
「傷ついた人を癒そうってか? お前の覚えたての魔法で何が出来るんだ? 傷つけた分だけ癒せばいいとは言ったが、お前ひとりに出来ることなんて限られてるだろうが」
「……でも」
「まだ制御が未熟のお前が行っても足手まといになるだけだ。それに、怪我人の対応は白魔導士たちがやってるはずだし、お前が行く必要はない。……分かったら、今すぐ家に戻れ」
それでもとわたしは食い下がろうとするが、有無を言わせない強い口調でそう言われ、何も言えずに顔をうつむかせる。
……確かに、その通りだった。まだ未熟で制御が完璧に出来ないわたしが行っても意味が無い。邪魔になるだけだ。
「別に、お前が悪い訳じゃない。誰かを助けたいと思うお前の気持ちは正しい。だが、力も無いのに助けたいって言うのはただ無謀なだけだ。……だから、そう気に病むことはない、しょうがない事なんだよ」
優し気な声色の、レイの言葉。わたしは――
「……わかっ、た」
そう答えることしかできなかった。わたしには助けられるだけの力が無いから、弱いから。
悔しかった。少ししか《回復魔法》が使えないことが。
嫌だった。何もできない、力になれないことが。
しょうがない事だとは理解していた。でも……逃げることしかできない、自分自身が嫌で嫌で仕方が無かった。
「よし、じゃあ早く家に行ってろ。危ないからな」
「……うん」
顔を俯かせながら、答える。わたしに出来ることは何もない。なら、大人しく言われた通り――
「……レイ? ……どこ、いくの?」
レイがどこかへ向かおうと歩き出したのを見て、問いかける。
「そっちは……家じゃない、よ?」
レイの向いている方向はどう見ても、家の方向ではない。その方向は、騎士団の一流魔導士たちがいる――龍がいる空の方向。
レイも一緒に家に行くのだと思っていた。だって、そうしなければ道理が合わない。自分が避難しないのにわたしに避難しろというのはおかしい。レイは自分が一番大切と言っていたのだ、なら――
「…………俺も後で向かう。先に行っててくれ」
レイはこちらに振り向くことなく、そう呟いた。わたしはその後ろ姿を見て、すごく不安な気持ちに駆られた。そんなわけが無い、そんなわけが無いと思うけど――
「すぐに来る……よね?」
そんなわけがない。でも……その背中が死地へと向かう戦士のように見えて、そう聞いてしまった。いくら強いレイでも、龍と戦って勝てるわけが無いと分かっているのに。
「……ちょっと忘れ物をしただけだ。すぐ向かうから安心しろって……第一、あんな化け物と戦って勝てると思うか?」
振り向いて、安心させるような声色でわたしが求めていた返答をしてくれるレイ。
「そう……だよ、ね。そんなわけない、よね」
自分に言い聞かせるように、呟く。望んでいた返答だったはずなのに、なぜか安心できなかった。
「おう、だから早く行ってろ。危ないからな」
「……うん。レイも……早く、来てね」
レイは「ああ」と了承し、急ぐように走って去っていく。
わたしも言われたとおり、家に急ぎ……そこにいたみんなに迎えられ、レイがどこにいるのかと心配そうな顔で問いかけられる。すぐに来ると言っていたと答えると、みんな安心した表情になっていた。
みんなが安堵する中……わたしは、なぜか安心することができなかった。
「きっと――来る、来るはず」
自分に言い聞かせるように、呟く。
『俺も後で向かう。先に行っててくれ』
そう言っていたのだ。なら、来ない訳が無い。
『……そんなわけないだろ? ただ、忘れ物をしただけだ。すぐ向かうから安心しろって……第一、あんな化け物と戦って勝てると思うか?』
すぐ向かうとも言っていた。あんな化け物と戦って勝てる訳がないと。なら――
「――?」
そこまで考えてなぜか、違和感を覚えた。レイが言っていた言葉が……どこか、頭に引っかかる。
何か致命的な見落としをしているような、間違っているような……そんな感覚。……いや、でもそんなわけがない。だって、すぐに来ると言っていたのだ。あの言葉が嘘だったなんてあるわけ――――――?
「なんで……レイ――!」
気が付いた時には足を動かして、走り出していた。
「お、おい! どこに行くんだ!? 外は――」
だって――気づいてしまった。気付いてしまったのだ。
『俺も後で向かう』
『ただ、忘れ物をしただけだ』
『あんな化け物と戦って勝てると思うか?』
一切、嘘は付いていなかった。でも、レイは一言も、一言も――
「――"戦わない"なんて言って、ない……!」