016「月の行方」
トクン、トクンと心地よいリズムが耳元で聞こえる。
……瞼は重くてなかなか開くことが出来ない。
もう少し、もう少しだけ僅かに感じる温もりの中に包まれていたい。鼻を掠めるジャスミンの香り。これは以前どこかで嗅いだことのあるような。旦那様の香りとは全く違う爽やかな香り。
……そして、それを確かめるかのように、ランゼリゼはゆっくり、ゆっくりと瞳を開けたーー……。
息が、すうっと肺の中へ入って行く。
体は重く気だるく、支えられている力強い腕の力がなくなってしまえば、一気に重力に負けて落ちてしまうだろう。
「ランゼリゼさん……」
彼女はこの声色の主を知っている。知っていても名前を呼ぶことが出来ない。
花に問いかけるように優しくそっと呟く、低音で安定した彼の声。
「ーー花嫁。お迎えに参りました」
ーー周りが暗くても、あまりにも間近で抱き締められているからこそ誰だか伺えなくても、声を聞けば分かる。首元からほのかに薫るのは彼の愛用しているジャスミンの香水の香り。
そんな細い腕のどこから力が涌いてくるのか不思議な程、彼は非力なのだが、自分が見惚れた特別な花嫁だからこそしっかりと抱き寄せた。
「レオン……」
支えられている力がなくなれば、車椅子から落ちそうになっているランゼリゼ。地面に片膝をつけ、力なくもたれ掛かる彼女をレオンが支える。
「レオン。迎えに来る時間には若干早すぎるようだが」
そんな二人を後ろからカネスは眺めていた。
レオンは黒のローブを脱ぎ、ランゼリゼに着せる。
……眉間に皺を寄せ、彼は少し怒っているようにも見えた。
「ーー花嫁に一体何をしたのですか?」
カネスは「自分は何もしていない」と両手の平をレオンに見せて、二三歩後ろに下がる。
全てを見ていた黒猫のシャルルが心配そうに車椅子の周りをうろうろとしていた。
「カネスは本当に何もしていない。彼女が、ランゼリゼが突然気を失ったんだ」
「そう、少し、昔話をしていたら、急に顔色が悪くなってーー……」
「昔話と言いますとーー……?」
カネスは口をつむった。レオンもそれ以上は彼を問い詰めなかった。それよりも、体温が下がって、ぐったりとしているランゼリゼが気がかりだったからだ。
「もしかしたら、冷たい夜風に浴びて、疲れてしまったのかもしれない。早くお屋敷に帰ろう、レオン?」
レオンは頷く。
「ーー屋敷よりも、城館の方が近い。レオン、今夜は街に泊まるとーー……」
言葉の途中でレオンは胸から取り出した杖をカネスに向けた。
「心配はいりません」
杖を自らを包むように一振りすると目映い光に包まれた。
「僕は魔法使いですからーー……」
その一瞬で二人と一匹は光の中に消えてしまったーー……。
ーー私は、夢を見ていた。静かで真っ白な風景ーー……。
空から降り積もるのは雪かと思っていたけれど、全然冷たくない。それどころか、暖かささえも感じる。……これは夜空に浮かぶ満月の月のから降り注ぐ光だ。妖精の粉のような細やかな光に包まれているーー……。
ーー……。
ーー僕は、夢を見ているのだろうか。魔法で飛ぶ時はこんなこと感じたことがないのに、自分の脈が聞こえるくらい、とても静かだーー……。
あそこでないているのは、僕がいつも気にかけていた子。なぜ、そんなにも悲しそうにないているんだ。こんなに近くにいるというのに、いくら手を伸ばしてみても届くことはない。
あの子を奪い去る体温。どうか、守ってあげることは出来ないだろうか。どこか、暖かな場所に。ゆっくりと休める場所に。包み込んであげたいーー……。
「……ランゼリゼ? 気づいたかい?」
「……ここは?」
ランゼリゼが気づくと二人は街のはずれの古びた教会らしき場所にいた。
黒猫のシャルルが声をかける。
「レオン、顔が赤い! すごい熱! もしかして、ずっとこの高熱で魔力を使っていたのか!?」
「……申し訳ないのですが、少しだけ魔力の限界を超えてしまいました。お屋敷まであと少しなのですが、少しだけここで休ませて貰いましょう」
ランゼリゼは周りを見渡す。朽ちた椅子と祭壇。棚の中を探しても、布一枚も見つからなかった。
レオンは車椅子の側で体を縮め丸くなり「大丈夫です」と平然を装う。
教壇の上に置かれた短くなった蝋燭の燭台の灯りがゆらゆらと揺れる。
壁には大きな絵画が飾ってあった。月夜の海を背景に背中に大きな翼を持ち、腰から下の下半身には鱗で覆われた魚のような尻尾がついた美しき女性。
絵画に描かれた女性は少しだけ口を開けて微笑んでいた。それは何かを伝えようとしているようにも見えた。
黒猫のシャルルは奥の扉を開けて、誰かいないかと人を呼びに消えた。
ランゼリゼは自分にかけられていたローブをレオンに渡した。それでも、彼が「寒い」と言うので、痺れる右膝を庇いながら車椅子から崩れるように床に落ち、レオンの側に身を寄せた。
「……魔法使いの魔力の源が人間の生霊だと言うならば、どうぞ、私の力を使ってください」
レオンは驚いたように目を丸くする。
「それは……いけない……」
ランゼリゼは、かつ自然に、そっとレオンの手に触れ、自分の胸の前に持ってきた。
そして、優しく、優しくきゅっと握る。
「……私の為にありがとう……」
ランゼリゼは何かに魅せられたようにふと思い出し唄を口ずさんだ。
以前、旦那様が自分を寝かしつける時に読んでくれた素敵な物語を頭の中で思い出して。優しい声で歌った。
『……ゼリゼ』
どこからかランゼリゼの名前を呼ぶ声が聞こえた。彼女は誰もいないはずの辺りをキョロキョロと見渡す。
『ランゼリゼ』
間違いなかった。
「……どうした? ランゼリゼ?」
ランゼリゼは両耳を塞ぐ。
「……この声は……旦那様だわ。旦那様が私を探していらっしゃる。いや、きっと、私の許されない行為を見抜いてしまったのだわ……」
ランゼリゼは教壇の後ろの女性に視線を流した。
「少しでも旦那様以外の他の男性に心を許してしまった私をどうかお許しください。ランゼリゼ、私は、いつだって旦那様のもの。旦那様を裏切るつもりは一切ありません」
それでも、ランゼリゼの頭の中では旦那様が必死に呼び掛けて、彼女はそれだけでパニックに陥った。
「……許されないならば、今すぐあなたの元へ向かいましょう」
ランゼリゼは教壇から燭台の蝋燭を手に持った。
酷く痺れ、痛む右足を引きずりながら、ゆっくりゆっくりと教壇から離れる。鍵を外し、外の扉を開けて、外へと出ようとする。
「……馬鹿な考えは、止めてください」
彼女の燭台を握る手奪い、開けた鍵を閉める。まだ熱が完全に引いていない彼は、ゼェゼェと息を切らしながらも、彼女が離れていくのを阻止した。
「旦那様が寂しいと呼んでおります。ならば、私が行かなくては。どうか、行かせてください」
ランゼリゼは扉の方を向いたまま、振り返らずに淡々と話をする。
「君を愛する人ならそんなことはしない。僕には分かる」
「……それならば……」
「どうか、魔法使いのあなた様にお願いです。どうか、このまま私を旦那様の元へ連れて行ってください……。私は、旦那様に支える身の上。彼をこのまま一人には出来ない。
彼はきっと、冷たくて、寒くて、暗い場所に一人でいるはずです。私が側にいてあげなくては。
あの日、旦那様を見失ってしまった。私が、側にいてさえあげれればこんなことにはならなかった。彼には沢山愛していただいたのに。私は……永遠に彼のものなのに……」
レオンは消えてしまいそうな程、か細い声でなく彼女を抱き締めてあげたかった。
誰のものでもなかったのなら、意固地になっている彼女をこのまま奪い去っているだろう。
それでも、彼のことを想いぽつりぽつりと涙を流す彼女に想いを伝えられずにはいられなかった。
「……それは叶えられない。
なぜなら、僕が君を見つけてしまったから」
レオンは「いけないこと」とは分かっていても、後ろから彼女を抱き締めた。
「ランゼリゼさん。無理に旦那様のことを忘れてほしいとは思わない。季節が巡る度に少しずつ、少しずつでいい。少しずつ、少しずつ、僕の方を向いてくれたらそれだけで満足です。
旦那様には、全然敵わないかもしれない。それでも、僕は君に愛を伝えたい。
ねぇ、ランゼリゼさん。僕の花嫁になって一緒に永遠の愛を誓ってくださいませんか?」
ーーずっと、遠くから見ていた。
そして、やっと触れられることが出来た。
僕は、あなたのことを愛してます。
愛していますーー……ーー




