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それって思い込みじゃないですか?

作者: 山藤 陽由

思い込みを外そうという話は、精神世界系の本には、よく書いてある。

精神世界に興味がなくても、友達に指摘されたり、「あの人思い込みが強いよね」と言ったり、聞いたりする機会が一度もなかった人はいないだろう。


人間は多かれ少なかれ思い込みを持っていると思う。もし、「思い込みがありますか」と、尋ねられたら、「はい」と答えるだろう。


しかし、実際に自分で気づいている思い込みは、氷山の一角で、気づいていない思い込みが、気づいている思い込みの何千倍もあるのではないだろうか。


例えば、誰かと付き合ったり、結婚したとする。

今まで自分が常識だと思っている習慣が、相手にとっては常識でないことがある。

そして、自分が常識、つまり絶対に正しいことだと思っていたことが、まかり通らないことを目の当たりにする。


ご飯を食べる時はテレビを消すのが当然だと思っている人が、テレビを皆で見ながら食事する習慣を持つ人と結婚したとする。

お互い自分の家庭の習慣の方が正しいと思い込んでいるので、衝突する。


もし、食事時にテレビを消すことは、自分の家の習慣であって、宇宙の真理でも何でもなくて、単なる思い込みだと思えば、衝突することはないだろう。

お互いの違いを分かった上で、今後、共同生活を営む上で、どうしていけばいいのか話し合って解決すればいいのだから。


しかし、この時、すんなり思い込みだと認めることが難しいのではないだろうか。

もしかすると思い込みか、思い込みでないかどうかは、科学的根拠があるかないかで判断すればいいと思うかもしれない。

科学が全てを解明しているのなら、そう言うことも可能だろう。

だが、科学は、この世の現象全てを解明できていない。


例えば、コーヒーは身体に悪いと言われていたのに、コーヒーはがん予防になるとの説もある。どちらも科学者が実験して、証拠を出している。

そうなると、単にどっちを信じるか、つまり、どっちが正しいと思い込みたいかの話である。


更に、思い込みだと気づきにくくしているのは、多くの人が似ている思い込みを持っているからだ。


先程の話で考えると、付き合ったり、結婚したりするぐらいだから、似た価値観を持っている場合が多い。趣味が同じことがきっかけで付き合うことになったのかもしれない。

特に家庭環境が似ていれば似ている程、似ている常識を持っている可能性が高い。

そんな同じ常識という思い込みを共有していた二人が、自分の常識という思い込みとは違う考え方にぶち当たるから気になるのだ。

いっそ、外人と結婚したのであれば、最初から違って当然だと思っているので、許容できるのかもしれない。


まるで結婚式のスピーチのようになってしまったが、そういう「ずっと一緒にいると欠点が目に付く」という話をしたいのではない。

それよりも、どちらかと言うと、相手の欠点だと思っていることは、お互いの思い込みがずれているだけなのではないかと思うのだ。

自分だけが正しいと思わなければ、冷静に二人のためになる選択ができるだろう。


そして、こういう個人的思い込み以上に問題なのは、集団的思い込みだろう。

極端に聞こえるかもしれないが、殺人を悪だと決めるのは思い込みである。

ここで言う「悪」というのは、法律では罰せられるから「悪」だという話とは別で、そういう法律がなくても人間としてやってはいけないことだと思っているということだ。


もし、殺人が絶対的「悪」なら、戦争の時に敵国の人を殺人した兵士は「悪」ということになる。

また、自分の親や子供が殺された時に、殺人犯に対して死刑を求めることも「悪」ということになる。

戦争や殺人を最初から無くせばいいという考えには賛成だが、それは今考えている話からは、ずれてしまう。


「自分がされて嫌なことを他人にやってはいけないから、殺人はダメだ」というのなら、病気で苦しんでいる人の自殺幇助はどうなのだろうか。また、神への生贄に選ばれることを幸せだと考えていた部族の人たちはどうなのだろうか。


殺人に対して、個人的に嫌だと思うのは構わないし、私自身も殺人はしたくも、されたくもない。しかし、「殺人が宇宙の真理に照らし合わせて絶対悪だと思うか」と問われれば、私は違うと思う。


そう考えると、大概の人が同意し、常識だと考えていることでさえ、単なる思い込みである可能性が高いのだから、今まで自分が「これは絶対」と考えてきたことは、全てが思い込みかもしれないのだ。


そして、その思い込みで特に問題になるのは、善悪に対するものだろう。自分が正しいと思い込んでいることが、他人との衝突につながるのは、今見てきた通りだ。


それだけでなく、ある状態が善か悪かという思い込みは、自分の本心を分からなくさせたりするし、何よりも今を生きられなくする。


まずは、本心を分からなくさせる方から考えてみよう。

お金があれば幸せとか、長生きすれば幸せとか、お給料が高い会社とか安定している職業についていれば幸せとか、子供がいて出来れば偏差値と知名度の高い学校に入っていたら幸せ、孫がいてちょくちょく遊びに来てくれたら幸せとか、それは、宇宙の真理だろうか? 


自分が今挙げた条件に該当していても、何か満たされない思いがある人もいるだろう。

でも、周りの人に、「あなたは幸せね」なんて、言われて、「そうか、私幸せなんだ」と思い込まされていたりするかもしれない。


逆に一般的な幸せの条件に該当しないけど、自分的には満足しているのに、周りから「頑張れ」と励まされて、「このままではいけないのかな」と思ってしまったり…。


やりたいことが分からないことも、自分の中でやりたいことの基準という思い込みがあって、それに当てはまるやりたいことならば、「私はこれがやりたい」って言えるけど、自分の基準からはみ出すようなことなら、ふと思いついても速攻否定するので、いつまでも、やりたいことが見つからないのかもしれない。


「私のやりたいことは、3年間引きこもって、好きなだけネットでゴシップ記事を読むことです」とか、言ったらダメだよねと思ったりする。

反対に、そういうのはOKで、「もう60歳だけど、これから英語を勉強して、コンサルタントになって、世界の企業を相手にバリバリ働きたい」なんて言う方がNGだと思う人もいるだろう。

どちらにしても、それはその人の思い込みの枠からはみ出していると思えば、抑圧する方に働くだけだ。

思い込みが外れれば、自分の心に正直になって、もっと自由に生きられるかもしれない。


もう一つの善悪の思い込みの害である「今を生きられなくする」について考察してみよう。


出かけている最中に突然降ってきた雨に、「濡れるのが嫌だな」と思ったり、「最近、雨降っていなかったから畑の植物も助かるな」と思う。

そういう一つ一つの善悪の判断が、雨そのものを感じさせなくさせているのではないかと思う。


「雨に濡れて冷たい」と感じるのと、「濡れて冷えると風邪ひくかもしれない」と思うのは違う。

前者は今、まさに雨に濡れている肌の感覚を感じているが、後者は未来を憂いているだけだ。

雨なら雨そのものを感じられたら、それが今を生きるということになるのではないかと思う。


私たちは、日ごろ善悪判断で忙しい。

「まだ眠い。寝不足は身体に悪いよね」悪

「今日も良い天気だ。洗濯物が乾きそう」善

「だけど、暑くなりそうだな。熱中症に気をつけないと」悪

「今日は給料日だからケーキ買って帰ろう。あの店のケーキは美味しいんだよね」善

「でも、昨日もクッキーを、どか食いしたな…。太るかも」悪


こんな感じで善悪のレッテル貼りに忙しい。

そして善悪のレッテルは過去や未来といつでもセットだ。

もし、善悪レッテルがなければ、眠い体の状態をただ感じるだけだし、陽射しや風を感じるだけだし、ケーキの味を感じるだけだろう。

その時、人は「今」という永遠の一瞬を味わうのではないだろうか。






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― 新着の感想 ―
[一言] 思い込みから逃れて良かった良かったと胸を撫で下ろした瞬間、より強固な思い込みにハマっていたり。むしろ、思い込みをしていると思った方が自然ですね。
[良い点] 物事はすべて相対的ですね~ 法律にしても日々移ろいますから(笑) [一言] いち筆者として、読んだ作品には応援を込めて評価する主義ですので、僭越ながら評させてもらいますね。
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