電話ごしの声
ひとりの夜って、なんか無駄に不安になったりしますよね。
金曜日の真夜中だった。
夏の終わりも近く、窓の外で虫が遠く静かに鳴いている。月は薄雲に隠れ、柔らかな月明かりが夜闇を照らす。
自室で本を読んでいた弥生は、そろそろ寝ようかと本を閉じた。机上の時計を見てみると、すでに夜中の二時を回っていた。道理でひどく静かなわけだ、と一人納得する。あまりにも静寂で、虫の鳴く声が耳鳴りのように聞こえる。
「あの日」から、一ヶ月が経とうとしていた。日の光も、蝉の鳴き声も、全てが突き刺さるような夏の日が、何もかもが眠りにつく前兆のように静かな秋になり始めていた。目を閉じれば、瞼の裏がスクリーンになったかのごとく、あの日々が思い出される。それでも、確かに、着実に、その日々は過去になり始めていた。
当たり前のように流れていく時間に、弥生は時折心が揺れた。足下が寒くなるような、何かに置いて行かれているような気がした。特に、今日のような静かすぎる夜には、本当にこの世に一人きりでいるように感じた。うだるように暑い夜も、冷たかった。そんな夜は、空に浮かぶ月を見上げた。生気を感じない夜にたったひとつ浮かんでいる光を見ていると、少しの間だけ、難しいことを考えないでいられた。そうしていつの間にか眠っていた。
しかし、今日はその月すら雲隠れしてしまっている。淡い光に薄雲が柔く輝いている。
弥生は目を閉じた。こうして眠ろうとしても、あの日の幻影と得体の知れない闇が浮かんでくる。恐ろしいというほどのものではない。ただ、孤独に襲われる。それも、他人には話せないような孤独だ。無かったことになった真実を知っている者はいないのだから。
たった一人を除いて。
「………」
弥生はふと目を開けた。そして携帯を手に取った。時間をもう一度確認すると、二時二十七分を示していた。
(さすがにもう寝てるか……)
弥生は小さく溜め息をついた。そう思いつつも、連絡先一覧を開く。「残念なイケメン」という名目で登録された電話番号をちらりと見る。いつも喧嘩ばかりしている幼馴染の顔が思い浮かんだ。
(……いやいやいや。何を考えているんだ、俺は)
心の中で頭を左右に振る。突然思いついたことに、自分で驚く。
まさか、一瞬でも。一瞬でも、あの宿敵の声を聞きたいと思うなんて。顔が熱いような、じとりと冷や汗をかいたような、複雑な感情に襲われる。
(もう寝てるとか、そういう問題じゃないだろ……。何でアイツに電話なんか……き、気持ちわる……)
携帯を持ったまま机に突っ伏す。自分のあんまりな考えに手が震える。誰にも見られてはいないのに、いたたまれないほど恥ずかしくなる。
しかし、だからと言って「残念なイケメン」と表示された画面を閉じる気にはなれなかった。この画面を閉じた途端に、また言い表せない孤独に苛まれることは分かっていた。
あの気を遣うのが下手くそな幼馴染に電話をかけたことで、心のぐらつきが解消されるのかは分からない。いつものように喧嘩をするだけになるかもしれない。それでも弥生の頭からは、自分の真実を知っている唯一の存在の彼が、離れなかった。暗闇の中の光のようにちらついた。
自分の思いを全て打ち明けたいわけではない。そんなことはできない。ただ、あの聞き慣れた低い声を聞くだけでいい。理由は分からない。自分の事ながら、弥生は変に思った。
(絶対寝てんだろうな、アイツ)
そう思いながらも、気がつくと「残念なイケメン」と表示された画面をタップしていた。
スタンドライトしかつけていない薄暗い部屋に、呼び出し音が小さく鳴り響く。コール音を聞きながらベッドに横になる。ライトの明かりを反射する天井を見つめながら、彼が出るのを待った。
しかし、待っている間に弥生はあることに気がついた。
(ん? 何て言って電話するんだ、俺)
途端に、また冷や汗が滲んだ。思わず近くにあった枕を抱きしめる。
(「急に声聞きたくなっちゃったん。てへっ!」ってか? え、うわ、ちょっ)
何だその付き合い始めのイタイ彼女みたいな理由は! と、弥生は枕を殴った。
もし弥生がそんな理由で起こされたら、確実にキレるだろう。声を聞きたくなった理由がそれなりにあるにしろ、それを告白するつもりはないし、恥ずかしいのには変わりない。他の理由を取り繕わなければならないのに、深夜二時に叩き起こしても不思議ではない言い訳など思いつきもしない。
頭を真っ白にする弥生を尻目に、コール音は遠く響く。急かすようなコール音に余計に焦り、弥生お得意のハッタリすら出てこない。携帯を投げ出してしまいたい気分になる。
もう、とりあえず一回切っちまおう! と思ったそのとき、プッとコール音が切れた。
「!!」
心臓が跳ね上がる。瞬間的に緊張で全身が熱くなった。
慌てて離しかけていた携帯をもう一度耳にあてる。
『……なんだよ……』
電話のむこうで、寝惚けたようなかすれた声がした。いつもより棘のない、柔らかな声だった。
あまり聞かない、しかし間違いなく幼馴染のものであるその声に、弥生は一瞬、胸が苦しいほど締め付けられたのを感じた。うっと息を詰まらせながら、同時に、「なんつータイミングで」と心の中で呟いた。
「あー……国島?」
何となく、恐る恐る尋ねる。さっきまで焦りまくっていたせいか、唇がかさついて、何とも不明瞭な声が出た。
『俺以外に誰がいるんだよ……』
溜め息混じりに無愛想な答えが返ってくる。恐らく寝そべったまま話しているのだろう。声が少し潰れて聞こえた。
それでも、そんな無愛想な言葉と声でも、弥生は自分の心のぐらつきが鎮まるのが分かった。冷たく見えた部屋の隅の闇が、秘密基地の独特の暗闇のような、懐かしくて温度のある、優しい闇に変わった。そう思えた。
彼のたった一言で、景色の見え方まで変わってしまう自分に、弥生は悔しくなった。悔しくて、憎たらしくて、そして彼が恨めしくて、顔が熱くなった。怒りとも恥ずかしさとも違う熱を持てあまし、唇を噛みしめた。
「えーっと……寝てた?」
弥生は熱くなる頬を手で押さえながら、電話ごしの彼に話しかける。
『んあー……ああ、寝てた』
意識が曖昧そうな返事が耳に響く。吐息が届きそうなほど、声を近く感じる。
ベッドの中で、彼が眠たい目を擦りながら電話している姿が想像できて、少し笑えた。いつもはきちんとセットされている髪をボサボサにして、あの鋭い目をしょぼつかせているかと思うと、くすぐったい笑いがこみ上げてくる。
『あんだよ。何か用か』
「え」
彼の言葉に、にやついていた弥生はハッと我に返った。
用。そんなもんない。声を聞いて浮かれていたのか、その問題を忘れていた。そんな自分にむかっ腹がたつ。
「あー……いや、特に用は……」
『は……? じゃあ何の電話だよ』
尤もな質問に、弥生は言葉を飲み込んだ。電話を握りしめて唇を強く結ぶ。
何と言い繕えばいいのか。そもそも言い訳がたつことなのだろうか。していいことなのだろうか。唯一真実を共有する彼に、この気持ちを隠すことは、正しいことなのか。
(俺は、一体何のために)
枕を抱き締める手に力が入る。あの残酷で大切な日々を忘れて欲しくなくて、弥生は彼の記憶を消さなかった。自分が死んだ悲しみや苦しみの記憶を、彼に残したままにした。それなのに、いざとなれば本当の気持ちを知らせないままでいるのは、あまりにも身勝手で非道だ。
お前の苦しみを半分背負う。そう言ってくれた彼を、裏切ることだけはしたくない。
『おい、雪村』
「あ、はい」
『はい、じゃねぇよ。どうしたんだよ』
「……その」
『ん?』
「……声、が……」
『あ? 声?』
弥生は小さく息を吸った。冷たい空気に、心臓が震えた。
「白羅の声が、聞きたかった」
そのたった一言が、妙に響いて聞こえた。普段通りに言ったつもりだったのに、喉が掠れて、とても弱々しくなった。
『………』
電話口からは、何の返答もなかった。
弥生は、一気に顔が熱くなっていくのが分かった。改めて恥ずかしいことを言ったと自覚する。携帯を持った手が震え始めた。加えて、彼の沈黙が羞恥心の火に油を注いだ。頭の中が、沸騰して湯気で満たされたかのように真っ白になる。
(お、俺は、何てことを……!)
あまりの恥ずかしさに、目尻に涙が滲んだ。
こんな爆弾発言をすれば、馬鹿にされるのは目に見えている。それか、そんなことで起こすんじゃねぇ似非秀才と怒られる。または引かれる。いや、怒られたり引かれたりならまだいい。この発言をネタに一生からかわれるかもしれない。
数秒の沈黙の間に、弥生の頭は急速回転した。幼馴染の悪魔のような微笑みが脳裏に浮かぶ。電話越しで表情が見えないせいか、とても悪質な顔をしている気がしてならない。
『……マジかよ』
その時、やっとこさという感じで彼がぼそりと呟いた。
弥生は恥ずかしさに黙ったままでいた。枕に顔をうずめて顔が熱くなるのに耐える。
『いやもう……マジでお前……』
電話越しの彼も、なぜかボソボソと言いよどむ。これは笑いをこらえているのか、かなり本気で引いているのか。遠くなる意識の中で弥生は思索する。
しかし彼は、笑いも引きもしなかった。ただ、ゆっくりと息を吐いたのが聞こえた。
『なんで、こんな夜中なんだよ……』
「えっ」
思いもよらない言葉に、弥生は素っ頓狂な声を漏らした。
いや、分からないことはない。誰でも、真夜中に急用でない電話をかけられたら、こう思わずにいられないだろう。しかし、弥生は「今何時だと思ってんだ、馬鹿野郎!」だの、「オメーは少女漫画の主人公かよ、キモい」だの言われると思っていた。思っていたのとは全く違う反応をされて、弥生は困惑した。そして頭の中で前言を撤回した。
怒られようが、引かれようが、からかわれようが、何でもいい。笑いたければ、いくらでも笑えばいい。
ただ、呆れられさえしなければ、何でも良かった。呆れられて、そっぽ向かれるくらいなら、馬鹿にされるほうがましだった。たった今、そう分かった。
なぜ、受け入れられることを前提に考えていたのかと自分をなじる。これはあまりにも滑稽な、彼への甘えだ。さっきより遠のいていく意識の中で、弥生は恐ろしく冷静に己を分析した。そして、笑えないほど虚しくなった。普段は何を言われても大抵のことは平気なのに、夜だからか、電話ごしだからか、胸のあたりが寒くなった。
「悪い。もう切る」
弥生は、胸に感じる寒さが、声に滲まないように、慎重に小さく言った。
『は? 何でだよ?』
すると、彼が早口に返してきた。
(何でだよって)
弥生はぐっと息をのんだ。これ以上話すとボロが出そうで、早く切り上げたかった。
「だって、もう遅いし」
『それ承知で電話寄越したんだろうが』
「そうだけど……」
『何だよ……声聞きたかったってのは嘘かよ。思わせ振りなこと言うんじゃねぇ』
「思わせっ、って……!?」
弥生はぎょっとした。彼の声のトーンが、明らかに下がったのが分かった。その声が、ほんの一瞬、落胆しているように聞こえた。
(思わせ振りって、それじゃまるで……)
心臓が、痛いと錯覚するほど締め付けられた。
「う、嘘じゃない! 思わせ振りって、そんなんじゃ」
何故か全力で否定してしまう。そうしなければならない気がした。
『……だったら何で切るなんて言うんだよ』
何でって! 弥生は心の中で叫んだ。電話の向こうの彼が、何を考えているのか分からない。彼の声と言葉のひとつひとつに振り回される自分のことも分からない。
「だって、さっき、なんでこんな夜中にって……」
自分で復唱して、うっと息が止まった。胸の冷たさを思い出して、それを吐き出しそうになった。
『あ? いや、それは……』
すると、今度は彼が、若干言葉をつまらせた。
「なに」
弥生は小さく息を吐いて、問うた。
ほんの数秒、音が消えてしまったのかと思うほどの沈黙が流れた。
そして、彼は溜め息混じりに、少し躊躇いながら呟いた。
『……こんな夜中じゃ、さすがに会いに行けねぇだろ』
「――は、……」
弥生は、この一瞬、日本語を忘れてしまった。
会いに、行けない? とは? 会うって、その、こんな、電話ひとつで。
会いたいと。
やっと意味が飲み込めた途端、頭と心臓が爆発したかと思った。奥底から沸き出してきた何か熱いものが、建前とかプライドとか強がりとかで出来た壁をぶち壊して、はじけ飛ぶように溢れてきた。ように感じた。
しばらくウンともスンとも言えなくて、口を開けたまま、顔から首まで熱くして、呆けてしまった。
そして、あんな言葉足らず過ぎる一言で、会いに行こうと思ってくれたことに、目の奥まで熱くなった。
『おいコラ、聞いてんのか』
沈黙に耐えかねたように、彼が呟いた。ほんの僅かに上擦った声に、彼のきまりの悪そうな顔が思い浮かんだ。
「……きいてる」
弥生は声が震えないようにぼそりと言った。色々なものがこぼれないように、目頭を押さえた。
なんでこの男は、こうも優しく、激しく、俺の心臓に触れるのだろうか。あんな無愛想な態度をとっておいて、どうして、いざというときに暖かい手を伸ばしてくるのだろうか。
今、目の前に彼がいたら、この感情を抑えきれずに抱きついていただろう。そうして、あのぶっきらぼうな腕の中で泣いていたかもしれない。電話越しで良かったと、弥生は思った。
『なんだ……変な勘違いでもしたのか』
彼は静かな声で言った。
「……そりゃ、するだろ」
弥生は熱くなる頬を擦りながら溜め息をついた。いくつもの感情が生む熱で、頭がぼんやりとした。
『馬鹿な勘違いしてんじゃねぇよ。いつもはもっとズケズケ来るくせに、なに縮こまってんだ』
「うるさいな……」
いつもと変わらない言い様に、弥生はふっと笑った。どんなに口下手でも、その言葉の節々に、彼の自分を想ってくれている気持ちが垣間見えて、上手く言葉が出てこなかった。部屋の隅から忍び寄る闇など、どうでもよくなってしまった。完全に消えたわけではないけれど、この闇はきっと一生つきまとうものだけど。彼の声が聞こえる今だけは、まるで全身が暖かい何かに包まれ、守られているように感じた。
弥生は自分の肩をそっと抱いた。
「お前こそ、何か変だぞ」
『あ? 何がだよ』
「だって、こんな夜中に……声が、聞きたいなんて、そんな理由で起こされて、普通怒るだろ」
何か、自分で墓穴を掘ったような気がしながらも、弥生は言った。改めて言うと、本当になんて乙女チックなことを言ったんだろうと、やはり少し後悔した。
『んなもん、お前……』
彼はまた言葉を切った。何か、言葉を選んでいるような間だった。また、心臓が吹っ飛ぶようなことを言うのではないかと、弥生は息をのんだ。それを待っている自分に、顔が熱くなった。
『お前のワガママなんざ、毎度のことだろ。今更すぎて何とも思わねぇっての』
「は?」
期待していたものと全く違う言葉に、弥生は固まった。
「わがままって……」
確かにこれはわがままだ。それも結構な高レベルの。しかし、いつもわがまま言い放題のような言い草は気にくわない。
『つーかお前、そんなことうだうだ気にするほど繊細だったか? おセンチになってんのか』
「おせっ……!? お前、黙ってきいてりゃ!」
フン、と鼻で笑うような吐息が聞こえ、別の熱がこみ上げてきた。夜中にも拘わらず叫んでしまう。何かを期待していた自分が馬鹿らしくなった。
『事実だろうが。いっつも人のこと振り回して平気なツラしてんだろ』
「振り回してんのはお前だろ! 会いに行くっつったり、ズケズケ野郎っつったり! そんな言うことコロコロ変えられたら繊細にもなるわ!」
そう言って、また後悔した。これでは、本当に恋に恋する乙女だ。あなたの発言一つに一喜一憂していますと言ったようなものだ。ぐう、と悔しさに歯がみする。
『ズケズケ野郎なんて言ってねーよ。なんだよ。お前、俺に振り回されてんのか。ウケるな』
「人の心弄んで笑うな……! ああもう、何で俺がお前なんかに……っ」
『しょぼくれたりキレたり、忙しい奴だな。いや、キレてんのはいつものことか。夜中にあんま興奮すんなよ。体に悪ぃぞ』
「いつも怒ってんのはお前のせいなんだけどなあ? 今日は妙にベラベラとよく口が回るな。いつからそんなに饒舌になったんですか」
『喋ろうと努めてんだよ。どっかの誰かさんに、声が聞きたいなんて言われちまったからな』
「なっ――……!」
とんでもない角度からの不意打ちに、弥生は思わず跳ね起きた。体中の血が沸騰したように熱をもった。鏡もないので分からないが、自分の顔は目も当てられないほど真っ赤になっていると確信した。
弥生がどんな反応をしたか想像ついたのか、電話の向こうから、ふっと笑う声が聞こえた。それも、あからさまな笑い声ではなく、溜め息のような、甘い笑いだった。携帯に当てた右耳がぞわりと震えた。
「………っ……」
弥生は口を開けたまま、携帯を耳から離した。これ以上聞いていたら、のぼせてひっくり返りそうだった。
なんなんだ、こいつは。わざとやっているのか。いや、そんな器用な男ではない。素なのか。これで、素なのか。弥生は携帯を見つめてぐるぐると考えた。
これは女にモテるわけだと、納得してしまった。
『おーい』
電話の向こうで彼が読んでいるのが小さく聞こえ、恐る恐る、耳に当て直した。
『急に黙るなよ。ぶっ倒れでもしたかと思っただろうが』
今まさにお前のせいでぶっ倒れそうでした、とは言うわけにもいかず、弥生は早口に言った。
「もう切る」
『あ?』
「もう切ります。ありがとうございました。良い眠りを」
何も悟られないように平坦な声で淡々という。まるで時報の録音音声のようだ。
『おいおい、遠慮すんなって。俺の声が聞きたいんだろ。いくらでも聞かせてやるぜ』
こいつ、面白がってやがる。こんにゃろうと弥生は拳を握った。
『ンッンー。アー、アー。………うーさーぎーおーいし、かーのやーまー』
「歌うな! 選曲のセンス小学生か!」
思わず普段の調子でつっこんでしまう。女にモテると思ったのは間違いかも知れない。
真夜中に何をしているんだ俺は、と弥生は肩を落とした。幼馴染の一言一句に赤くなったり青くなったりして、夏の音楽フェスのタオルのように振り回され、最終的にはいつもと変わらずボケツッコミの応酬をして。電話をかける前の、「おセンチ」になっていた自分が、結構本気で馬鹿らしくなった。はは、と笑ってみると、どっと疲れが押し寄せた。
でも、やけくそでも電話をかけて良かったと、心から思った。
「あー、もう十分。さすがに遅いし、寝よう」
真夏でもないのに熱くなった顔を手で扇ぐ。開けていた窓から、秋の涼やかな風が吹いた。
「……なんか眠れなかったけど、お前のおかげでぐったりしたから、眠れそうだよ。ありがと」
風にそそのかされたのか、水が川を流れていくように、するりと素直な言葉が出た。
『………』
しかし、電話の向こうからの返答がない。通話が切れたのかと思った。
「おい、国島」
まさか、寝落ちたのかと呼びかける。さっきまで歌っていた奴が寝落ちたとか面白い、と思っていると、はっきりとした声が返ってきた
『やっぱ今からそっち行く』
「えっ」
彼の言葉に、弥生はまた度肝を抜かれた。
「え、えっ! なんで!? 気まぐれさんなの!?」
『うるせぇな。目が覚めちまったんだよ、お前のせいで。お前が起こしたんだから、付き合えよ』
そう言うと、彼は「どっこいせ」とおっさんくさい掛け声を漏らした。ベッドから起き上がったのだろう。どうやら、本気で来るらしい。
「はあ!? ちょっ、待って」
『あんだよ。迷惑とは言わせねぇぞ』
迷惑なんかではない。言う資格がないことも分かっているし、そもそも思わない。
しかし、さっきのさっきで会うとなったら、色々と決まりが悪いというか、冷静でいられるか分からない。簡単に言えば恥ずかしい。
「ま、待て、国島。会うなら明日でもいいだろ? 休みなんだし、どっか出かけても……」
『ぐだぐだうるせえ。今だ。勝手に寝んなよ』
「………」
先ほどまでの、言ってしまえば紳士的?な態度との違いに、弥生は口を噤んだ。彼に一体何があったのでしょう、と他の誰でもない自分に問いかけてしまう。
いつもは「めんどくせぇ」の一言で片してしまう男が、なぜわざわざベッドから出て、宿敵と言われる自分のもとに来ようとしているのか。しかも頑なに。会いに行けない云々と言われたときは、色んな事を瞬時に察して言ってくれたことだと分かったが。もう大丈夫だと伝えたつもりなのに、どうして。
『なあ』
「うぇ」
弥生はびくりと肩を跳ね上げた。急に声をかけられて、変な声で応答してしまった。
「な、に」
彼は不自然に一拍おいて、吐息とともに言った
『……寝ないで待ってろよ』
どうして、そんな声でそんなことを言うのか。そんな風に言われたら、もう説得することも出来ない。
弥生は唇を噛みしめた。
でも、待っているのは柄じゃない。
『聞いて、』
「いやだ」
『は?』
弥生のきっぱりとした一言に、今度は彼がしまりのない声を零した。
弥生はベッドから下り、適当にカーディガンを羽織った。
「待ってるのは癪だから、俺も行く」
『行くって』
「俺とお前の家の間だから、展望台公園だな。そこ集合」
『おい、勝手に話進めんな。お前は家にいろ』
彼の少し慌てた声に、弥生はにやりと笑った。仕返してやっているようでちょっと気持ちが良い。
「やだね。なんで俺だけ待ってなきゃいけないんだ。それより、急げよ国島。着くの遅かったほうがジュースおごりだからな」
『はあ!? ざけんな、テメッ』
最後まで聞かずに、通話を切った。「あんの似非秀才!」とキレる彼の姿が目に見えた。
ふっと笑うと、机のスタンドライトを切り、部屋を出た。寝ている父を起こさないようにそっと階段を下りて、戸締まりをして外へ出る。
路地に出ると、僅かに冷気を含んだ風が髪を撫でた。歩きながら空を見上げる。月は相変わらず薄雲を被ったままだ。弱々しい光が道を照らす。少し足下が見えづらいな、と思いながら、走り出した。誰もが寝静まった夜の住宅街を、一人走り抜ける。
勝負の言い出しっぺが、負けるわけにはいかない。そして、財布を持ってくるのを忘れたことに、今気がついた。走りながら笑ってしまった。彼の不機嫌そうなしかめっ面が思い浮かび、面白くてか、体が熱くなった。
とりあえず、公園で彼に会っても、勢いで抱きつかないように気をつけようとだけ思った。
END
ご精読ありがとうございました。