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社会人になったばかりの頃、私にはとても好きな人がいた。彼は職場の同僚で、その人のことをどうして好きなのかはよくわからなかったけれど、本当に大好きで、私は生まれて初めて本気の恋をしていたような気がする。一緒にいるととても楽しくて、ずっと一緒に居たかった。
彼は私とは正反対だった。明るくて屈託のない、私が欲しいと思うものを全て持っているような、そんな人だった。彼には大切にしている人が居た。そんな彼が好きになる人なら、きっと素敵な人なのだろうと思った。私には無い物をきっとたくさん持っているのだろうと思った。そう考えると苦しかった。とても消えてしまいたかった。自分には何の価値もないように思えて、あの頃の私は、いつも泣いてばかりいた。
いっそ、忘れてしまいたいと思った。でも、どうしても何をしても彼のことを忘れられなかった。
夜寝る前、ふと一人になるとき、それはやってきて私を襲う。ずっと、忘れられなかったらどうしよう。ずっと、好きだったらどうしよう。一晩中泣いても消えることのない痛みはどうしたら無くなるの?
そんな日々が続き、私はある日本当に疲れてしまった。
結局彼から逃げるように職場を替え住む場所を替え、そうやって、ようやく少しずつ彼のことを思い出さなくなっていった。
そんなある日、私は彼“藤堂千隼”に出会ったのであった。
彼とは頻繁に会っていたけれど、恋人というにはお互いを知らなすぎたしそれらしいこともしていない。だけど、不思議と一緒にいるのは嫌じゃなかった。もしかして、この人なら私の一番の“願い”を叶えてくれるのではないかと思えた。
その日は金曜日。朝から雨で、少し肌寒かった。
仕事で、嫌なことがあった。私はいつもほんの少しのことでも深く考えすぎるきらいがある。他の人からしてみれば些細なことでも、自分にとってはそうではない。その周りとの温度差に時々不安になることがある。だけど、職場でそんな悩みを打ち明けられるような仲間もいない。いつも何処か他人と距離を置いてしまう。
◇◇◇
気づけば、私の足は彼の家へと向かっていた。
マンションにつくと、藤堂さんは何処かへ出掛けているようで留守だった。しかし、その日はなんだかどうしても彼の顔が見たくて、合鍵を使い部屋で帰りを待つことにした。自分が留守の時でも来たくなったら自由に使っていいから、と彼が預けてくれたのだ。
リビングのソファに座り、メールで家にお邪魔していることを伝えた。私は読みかけの小説をめくりながら彼の帰りを待つことにした。途中うとうとしてしまい、外から聞こえる雨音に気づくと時計の針は21時をまわったところだった。
「藤堂さん、遅いなあ…。」
そうだ、と思い先ほど送ったメールを確認してみたが返信はなかった。電話しようかとも思ったが、忙しいなら迷惑かなと思いあまり気が進まなかった。
雨音は酷く強くなっていき、ザ―という音だけが響いた。
知らないうちにまた意識を失い、私は眠ってしまっていた。
次に目が覚めると、何やら暖かいものに包まれ私は眠っていた。
ここは彼の寝室、どうやら私はリビングであのまま眠り、そこに帰ってきた藤堂さんに運ばれたと言うことか…。彼がいつも眠っているであろう布団はふかふかとして暖かくて彼の匂いがした。なんだか安心するな、と思いながら私は体を起こした。不意に、お腹がぐうと鳴った。
「そういえば、昨日の夜から何も食べてないや。」
リビングに向かうと彼はソファの上で長い手足をちぢこませながら眠っていた。なんだか可愛くて思わず口元が緩んだ。
冷蔵庫、何かあるかな。朝ごはんでも作ろうかな。そう考えて冷蔵庫を覗いてみた。藤堂さんは意外にも料理は好きだと言って時々とても美味しい夕飯を作ってくれた。それに比べて私は一人暮らしで培った効率重視の料理がほとんどだったが、前にオムライスを作った時は彼も美味しいと言って食べてくれた。
「卵があるし、わかめとじゃがいもでお味噌汁も作れそう…。」
キッチンを借りて簡単な朝ごはんを作ることにした。
物音に気付いたのか千隼さんが目をこすりながら歩いてくる。
「おはようございます。良い香りがしますね…。」
ごはんと玉ねぎ入りのオムレツ、そしてわかめとじゃがいものお味噌汁。ほかほかと湯気を立てているそれをテーブルに並べる。
「おはようございます千隼さん。ごめんなさい、冷蔵庫勝手に開けちゃいました。」
「大丈夫ですよ。とても良い香りがして目が覚めました。」
ふわ、と笑う彼の笑顔はいつもよりも儚げに見えた。
「いただきます。」
一人暮らしに慣れていたせいか、誰かと一緒にご飯を食べるなんて久しぶりだった。
「このお味噌汁、とても好きです。なんだか懐かしい味がします。」
「わかめとじゃかいものお味噌汁、小さい頃におばあちゃんが良く作ってくれたんです。しょっぱめの味付けでじゃかいもは少し煮崩れてて、私それがとても好きで。」
「僕も好きです。」
こちらを真っ直ぐと見据えて微笑みかける彼に少しどきっとしたのは秘密にしておこう。
その日の朝ごはんは、二人で食べたそれは、いつもよりもとても美味しかった。
昨日から降り続いていた雨は、今朝になって止んでしまったようだった。