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彼の名前は「藤堂千隼」。職業は小説家をしているらしい。それ以外は何も知らない。彼は不思議な人だ。やはりこのような表現しかできないが、私のボキャブラリーはこの程度だと覚えておいてほしい。
彼の性格は穏やかで柔らかい雰囲気であるが、掴みどころがなくて何を考えているのかわからない。
それでも、彼が初めて会ったときに言った言葉は私にとって酷く魅力的だった。
―――「僕と、恋をしてくれませんか。」
私は“ある条件”と引き換えに、彼と恋をすることとなったのだ。
彼のいう『恋』とは何か。
何が恋、どこまでが恋、どんな形の恋?
その定義は不明確で、彼に問うてみてもただ微笑むだけだった。
あの日からは私はしばしば彼の家に入り浸ることが多くなった。
オートロックのドア、一人で住むには広すぎるくらいの伽藍とした室内。
彼は窓際に置かれた真っ白なデスクに向かい原稿を書いていることが大抵だった。
時折、気まぐれに「散歩でも行こうか。」「お腹すいてない?」などといって私を外へ連れ出した。まるで退屈な子どもの相手をする親のようだったけど、優しく微笑む彼を見ていると心が安らいだ。出逢いこそ唐突だったが、私は彼に惹かれ始めていた、確実に。そんな日々が一カ月ほど続いたある日、いつものように彼の家を訪ねると留守のようであった。
「いないのかな・・・あ!電話すれば、って私藤堂さんの番号知らない・・・。」
恋人の電話番号も知らないなんて、何してるんだ私。もともと恋人らしいことなどあまりしてはいなかったが、ここまでくると少し笑えてきた。
「帰ろう・・・。」
そういって踵を返そうとしたとき、
「椿ちゃん。」
不意に、頭上から声が降ってきた。心地よい、綺麗なテノール。
名前、呼ばれた。それは久しぶりのことで少し顔が熱くなった。
「藤堂、さん・・・。あの私、電話番号知らなくて、“恋人”なのに。」
この感情に覚えはなかった。今までの私には無かった、悲しい・苦しい・切ない・・・
ううん、違う。わからない、でも涙が出た。
「うん・・・ごめん。恋人、なのにね。」
彼はくす、と笑った。あれ、笑われた?
「どうして笑うんですか。」
むす、とした顔を向けると、
「可愛かったからですよ。」
彼はそう言って私の頭を撫でた。その手があまりにも優しくて少し、切なくなった。
彼は私を惹きつける。
だけどすぐに何処かに行ってしまうような気がするの。