第五章 セイレーンの困惑
俺は、いきなり腕をつかまれた。
驚いて振り返った俺は、そこに全く予想外の人物を見た。
「は……え?ちょ、どうし……」
とっさのこと過ぎてちゃんと言葉が出てこない。
パニックとは、まさにこのことを言うのだろう。脳の回転が停止してしまったようだ。
「どうしたんだ、お前……?」
そいつは俺の腕を強い力でつかんで、ふるふると首を振っている。
「おい、どうした?」
どうなってんだ、これ。
俺は目の前の人物に声をかけることもままならない。
「ちょっと、苅谷崎!?」
かろうじで名前を呼んだ。
苅谷崎凜が、泣きそうな顔で立っていた。
自分の置かれた状況が全く理解できない。
苅谷崎は、同じテニス部の後輩で、おとなしくて目立たない人だと思っていた。
いや、事実、昨日廊下ですれ違った時も、何の異変もなかったではないか。
いったい、どういう心境の変化というか、心がわりというか、そういう、行動に出る理由は何なんだ?
俺にわかるわけない。
だって、そうだろ?
5年年下の年下の女子の気持ちなんて、わかるわけないだろ?
どうすればいい?
俺の脳内がフリーズしてショートしそうになるころ、
「あっ!?」
この驚いた声は苅谷崎のものだ。
同時に、俺の手をつかんでいた力が消えた。
「あっ……あ、えーっと……」
苅谷崎は、我に返ったように俺から離れると、うろたえるような声を出した。
うろたえてるのは俺も一緒だ。
「何があった?」
問い詰めるような口調にならないように気を付けるので精一杯だ。それでも、やや強い口調になってしまったことは否めない。
「あ、あの……、いえっ、な、なんでもないです、ご、ごめんなさい!!」
早口でそう言ってぺこぺこと頭を下げる。
俺は返す言葉が浮かばない。
ほんとはいろいろ尋ねたいことがあったんだけど、何をどう訊けばいいかさっぱりわからないし、向こうも答えられような状況じゃないだろう。
「そ、そうか……なら、いいんだ」
我ながら情けない台詞だったと思う。
だが誰もこんな俺を咎めることなどできないだろう。誰だって言葉に詰まるはずだ、こんな状況に置かれたらさ。
「ご、ご迷惑おかけしました、す、すみません」
ひたすら頭を下げていた苅谷崎は、一度顔を上げると、くるりと身をひるがえして走って行った。
残された俺は、あまりの唐突な出来事にしばらく立ち尽くしていた。
どういうことなんだろうね。
「どうした、魂抜かれたみたいな顔してるぞ」
という声が背後から掛かり、俺の硬直状態は解けた。
振り返ると、浅倉が俺の後ろに立っていた。
「ああ、お前か……」
腕時計に目を落とすと、終礼が終わってから10分近く経っていた。
思ったより硬直時間は短かったらしい。まあ、そうだよな。
「お前か、ってなんだよ。俺がいたらおかしいか?」
「いや、なんでもねえ。気にするな」
と言いつつ、俺はさっきのことをこいつに教えるべきかどうかちょっと悩んでやめた。
わざわざ言うまでもないし、苅谷崎の表情から察するにさっきのは衝動的な行動なんだろう。どういう衝動かは落ち着いた頃に聞くとして、勝手に他人に広められたら苅谷崎に迷惑だよな。
「今日はどうしてテニス部ないんだ?」
できるだけ話題を変えようと試みる。この出来事はさっさと忘れたほうが俺のためにも苅谷崎のためにもなるだろう。
「顧問が体調不良らしくてね。コートが使えないそうだ」
浅倉は特に疑問視することなく乗ってくれた。
「そうか。まあいいや、今日は帰るよ」
それだけ言って、さりげなくその場を立ち去った。
浅倉は何も言わなかった。
というわけで俺は教室に戻り、帰り支度をしてそそくさと教室を後にした。
早足で階段を駆け降り、校門を出るころには、すでに先程の一件は頭から離れ、俺の脳内は大量に出された週末課題をどの順番で始末しようかという、当たり障りのないことで占められていた。
そう、それでいい。俺は少なくとも後輩にすがりつかれるような人間じゃないし、そんなことは望んでもいない。
このまんま、ごく普通の高校生として生活できたら、それでいいんだ。恋愛には興味もないし、何かの拍子で彼女ができたとしても、あくまで健全な付き合いだ。
そう、何事も普通が一番。シンプルイズザベスト。
これ以上の状況を、俺は望まないね。
なーんてワザとらしいフラグを立てる余裕も、この時の俺にはあったわけだ。
下手な文章ですが、もうすぐ一個目のヤマです。
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