弁護士鷹志田陽法
隣の同僚の席と区分けするために置かれている敷居がノックされた。
そちらに振り向くと、この事務所のボスである南場壮一郎がコーヒーの入ったカップを持って立っていた。
とはいえそれは部下への差し入れではなく、自分で飲むためのものだというところがいかにもボスらしいと鷹志田は思った。
「ゴーストバスターズくん、ちょっといい?」
「その呼び方は止めてくださいよ、南場先生」
「法曹界の一部では有名だよ。セレブには旧家が多いし、そういう旧い家柄では非論理的なオカルト話が闊歩しやすいからね。宇留部の家は多摩では相当名の知れた名家で、そこの難問を解決した君には色々と注目が集まっているのさ。よ、〈除霊弁護士〉!」
とりあえずからかわれるのに飽き飽きな鷹志田は、話を打ち切ろうと南場から視線を逸らした。
だが、どういう訳かそれで諦めてくれず、ボス弁護士はそのまま後ろに立っている。
無視できない圧力があった。
このままでは埒があかないと判断して、鷹志田は迷惑そうな顔つきをわざと浮かべて振り向く。
「何か御用ですか。もう邪魔しないでくださいよ。これは本当ならセンセーの仕事なのですからね」
鷹志田は南場が押し付けた書類整理に追われていたので、腹の立ち方も相当なものだった。
そんな部下の抗議などものともせず、カエルのツラにションベンといった感じで何食わぬ顔をした南場が言う。
「さっきね、宇留部都議から電話があってね」
「宇留部から?」
嫌な予感がした。
宇留部家の案件は決着済みとはいえ、あまりいい思い出のあるものではない。
当主となった舞衣からだけでなく、本家のバックアップを受けてアイドル声優としてデビューした小夜子からもたまに相談を受けることがある。
顧問弁護士に就任したのだから仕方がないとはいえ、できることならあまり仕事を引き受けたいとは思えない依頼者であることは間違いない。
しかし、本家からならともかく分家にあたる都議が今更何の用だろう。
「えっと、確か宇留部の男のお孫さんがいたろ。あ、武さんだったっけ?」
脳裏にあのどうしようもない男の面影が浮かんだ。
そういえばあれ以来、顔を見た覚えもないし、どうなったのかもしらない。
本家の援助を受けて奥さんへの慰謝料などは払い終わったとは聞いてはいたが……。
「その武さんの別れた奥さんがね、宇留部本家に訴訟を起こそうとしているらしいんだよ。都議のツテでさっきわかったらしいんだけど。で、君、顧問弁護士だろ? そのことについて耳に入れておきたいという話だ」
「訴訟? なんでですか?」
「どうも、奥さんというか、実際には彼女の実家の顧問をしている五大法律事務所の連中の入れ知恵なんだろうけどさ。元旦那と復縁した際に、離婚している時に本家に騙されて財産放棄をさせられたのは違法だという訴えらしいよ。放棄の無効か、遺留分請求か、遺産分割請求か、なにを訴訟物にしてくるかはわからないけどもう実際に動いているみたいだから、来週あたりには訴状が届くんじゃないかな」
鷹志田は頭が痛くなった。
武は周囲にきちんと説明をしなかったのか。
遺留分請求でも、遺産分割無効でも、他の手段でも変わらない。
宇留部の財産に手を出そうとすればきっとアイツが現れるということを。
裁判にでもなって、仮に裁判所で請求認容(それが一部でも)判決でも出ようものならば、関わった裁判官までが皆殺しにされるかもしれないということもだ。
邪魔者として抹殺されるおそれがある。
あれほど見境のない化け物なのだから。
そこまでいかなくても、武の元妻と弁護士事務所の連中は確実に排除されることになるだろう。
もしもし奥多摩からアイツが出てこれるとしたら、いったいどんな地獄絵図が展開されることになるか……。
背中が薄ら寒くなった。
未曾有の大量殺人が始まるかもしれないのだ。
だが、そんな鷹志田の悩みを知らない南場は笑いながら言った。
「僕の見たところ、宇留部さんちの側が負ける裁判だよ。まず勝ち目がない。それに五大法律事務所の連中は日本で五指に入るほどにとてつもなく優秀だからね。東大出と京大出ばかりで元裁判官とかもいてすんごい鉄壁の布陣が揃っているし」
「まあ、そうでしょうね。五大というぐらいですから」
「じゃあ、どうするのさ、顧問弁護士としては? ボクは君の作戦に興味があるなあ~」
「話し合いをして訴えを取り下げさせますよ。裁判にさえならなければ勝ちも負けもないですから。本家というか、舞衣さん側には一銭も払わせません」
「そんなことできるの?」
「なんとか可能ですね」
嫌そうな顔で不承不承に頷きながらも、どこか自信ありげな部下を見て、南場は心中で思った。
(もし、この案件をなんの問題もなく片付けられるようなら、君はどんな無理難題だって処理できるということになるね。そしたらお客がどんどんつくようになる。それこそどんな優秀な弁護士よりも重宝される弁護士としてね)
……一ヶ月後、この訴えは取り下げられ、二度と蒸し返されることはなかった。




