さん。
「おー、コウとキヨいたー」
三月十三日、残すところは修了式のみとなったこの日、部活の終了時刻が久々にかぶった。というより、おととい定期演奏会を終えた吹奏楽部の活動が今日はなかった。午前授業になってから美術部と茶道部はほとんど活動がなかったため、尚更だ。
僕の隣を歩いていたコウは、その声のほうに誰がいるかも確認せず、振り返ってすぐに片手を挙げた。
「さっき会ったばかりだろ、ヒロ、と……?」
「おつかれさまです」
肩までの黒髪をおさげにした小さな女の子が、ぺこりとお辞儀をしてきた。コウ、きちんと見ないから……。僕は振り向きがけに視界の端に見えたから、すぐに向き直ったのだけれど。
悔しそうな、楽しそうな、それでいて叫びたそうななんとも言えない表情を浮かべるコウを見て、ヒロがわかりやすく相好を崩した。
「にしししししし。この子、茶道部の後輩の、皆月瑠奈ちゃん」
「はじめまして、皆月瑠奈です。えっと、広鷹先輩……」
大方、一緒に帰る約束をしているのに友だちに声なんてかけるから、不安になったのだろう。皆月さんは、困ったような顔をして、ヒロの袖を小さく引っ張った。
「ん? あぁ、大丈夫大丈夫。一緒に帰ろうな。おまえらもいい?」
「えっ?」
「はあ!?」
僕とコウが同時に悲鳴をあげる。どんな気まずい空間だそれは。なにが嬉しくて友だちの後輩、しかも彼女を含めて歩いていかなくちゃならないんだ。皆月さんなんて、硬直している。ヒロ、頼れる面白い先輩としてはいいけれど、実は彼氏というものに向いていないんじゃなかろうか。コウが大袈裟な仕草で突っ込んだ。
「いやいやいや、ふっつーにふたりで帰れよ! どうせ彼女だろその子!」
「おう!」
ヒロ、何故威張る。皆月さんが金縛りから解け、彼女として紹介してもらえたことに喜んだのか一瞬笑顔になるも、また涙目になった。要するに状態の混乱と悪化だ。
「あの、先輩……今日はホワイトデーのお返し買ってくれるって……」
「うん、だから駅まで。あそこのショップでいいんだろ?」
「まあ、そうですけどぉ……」
皆月さんが、言葉尻を濁らせながら、僕たちをちらちらと見た。そりゃあ嫌だろう、僕たちだって嫌だ。っていうか、なんでヒロがそこまで頑なに一緒に帰りたがっているのかがわからない。今日教室で会ったし、明日も会うのに……! 皆月さんが可哀想すぎる。
なにもわかっていないヒロを見て、僕とコウは顔を見合わせて沈黙した。この空気、どうしよう。「どうした?」とヒロが言ったその時、コウがばっと勢いよく顔をあげた。
「なあキヨ! 今日さ、おれもちょっと買い物あるんだ。付き合ってくれねえかな!」
「あ、ああ!」
ナイスコウ! 僕たちの策に気づいたのか、皆月さんもぱっと笑顔になって、合いの手を入れた。
「あっ、すみません用事があるのに引き留めたりして! ほら広鷹先輩、」
「え、なにおまえらどこ行くの? 俺も付き合っていい?」ちょっと待ておまえ空気読め。
「……」「……」「……うぅう」皆月さんがじわっと涙をにじませた。
「瑠奈ちゃんも行く?」
「いいです……先輩、私先に帰ります。帰ったらメールくださいね」
「おう、じゃあなー」
いや、違うだろ! と心の中で突っ込みを入れる。おそらくコウも同じことを思っていることだろう、目が語っている。どうしたんだろう、普段こんなに空気読めないやつじゃなかったはずなのに。
今からでも追いかけてほしそうにとぼとぼと歩いていく皆月さんの背中を見送り、ヒロは何故か溜息を吐いた。
「……はー」
「いや、はー。じゃねえよ。なにしてんだよおまえ」
コウごもっとも。僕もひたすらに頷く。すると、ヒロはふてくされたように唇を尖らせた。
「いや、だってホワイトデーのお返し、こっそり買いたいじゃん。本人の目の前でほしがったもの買うなんて、なんていうか、趣がないじゃん。遠慮されても嫌だしさあ。おまえらに偶然会えて助かったわほんと」
なんだ、そんなことを考えていたのか。いや、でも今のはなあ。
「おまえ……皆月さん、絶対傷ついてたぞさっきの」
コウが僕の気持ちを代弁してくれた。しかし、ヒロは嬉しそうに笑う。
「からかい甲斐があって可愛いよね、瑠奈ちゃん。付き合いはじめてから知ったんだけどさ!」
「ひっでえ……」
さすがのコウも呆れ顔。僕は返す言葉も無い。ヒロにまさかこんな一面があったとは。
「で、コウ、買い物って?」
「とくにねーよ、おれ空気読んだだけだし」
「なんだ、じゃあ付き合えよ。暇だろ?」
「なにが悲しくて彼女へのプレゼント買うのに付き合わなくちゃいけないんだよ……。キヨ、どうする?」
「あ、僕も美術部のみんなになにか買わなきゃ」
「まじか。じゃあ一応付いてくわ」
こうして、男三人でショッピングモールをうろつくことになった。一人で女の子向けの雑貨屋をうろつくのはとてつもなく恥ずかしいけれど、三人ならいける気がする。何故か。何故だろう。とりあえず、ハードルの低そうな、あまり可愛らしさを前面に押し出していない店からまわっていく。
「十四個だろ? 三百円ショップのテキトーなストラップでも買ってけよ」
「それでも四千円弱か……」
普段外食くらいでしか使わないからお小遣いが貯まっているとは言っても、これはきつい。財布が氷河期を迎えてしまう。所持金は、五千円。
「うぐ……」
札入れを覗きながら呻くと、横から無駄に元気な声が聞こえてきた。
「おれなんてなんにももらってないからね! 何も買わなくて済みますからー!」
「……ごめん、なんかごめんって。すねないでよコウ」
「いーんだいーんだおれなんて。どーせ吹奏楽部に入ってなかったら今までだってなんにももらえてなかったに決まってるんだ……」
「コウってば、ほら、そんなネガティブにならないで」
面倒くさいなあ、もう。
「瑠奈ちゃんはどういうのが好きかなーっと」
そんなこんななやりとりをしている僕たちの後ろから、ヒロの我関せずといった声が聞こえてくる。わかりやすく楽しそうだ。今にも口笛とか吹き出しそうな雰囲気。けれど唐突に、我に返ったような呟きに、僕は固まった。
「あ、そういえば藍実にも買わなきゃ」
「え――」
なんで……? ヒロ、もらってないんじゃなかったの?
「あれ? ヒロ、もらってないんじゃなかったの?」
僕の代わりに、コウが訊いてくれた。
「ああ。母さんがもらったから、お返し買ってこいってさ。食べてるとこちょうど見かけたんだよ、抹茶味のチョコ! 多分あれだと思うんだよね、藍実にもらったってやつ。はーあ、俺の前でチョコ食うのはべつにいいけど、よりにもよって抹茶味のはないよなー。俺だって食べたいっつーの」
「え? チョコ食べれないの?」疑問が口をついて出る。
「あれ? 言ってなかったっけ。俺、チョコアレルギーなんだよね」
――そういえば、今までヒロが食べていた抹茶のお菓子にチョコが使われているものは一度もなかった。コンビニのお菓子の袋をじっくり眺めて、がっかりしたように棚に戻すこともある。
「それ、真白さんは……?」
「知ってるに決まってるだろ、幼馴染だぜ? 母さんも、息子が食えないもんもらって喜んでんじゃねえよってえの」
心臓が大きく音を立てた。真白さんは、ヒロにチョコを用意していたわけではない。なら、相手はコウ?
「ふーん。おれ抹茶苦手だわ」
けれどコウは、そんな冷めた反応だった。どうしたんだろう。
「っつか、コウもキヨももらってないんだろ? じゃああまりじゃないほうのチョコは誰にやったんだろうな。アイツ、俺ら以外に仲良い男子そんなにいないぜ。全部女友だちにあげたとか? さみしーやつ」
ヒロが鼻で笑う。いくら相手が幼馴染とはいえ、自分に彼女が出来たからって、そこまで貶めなくても……。でも、そうか。あのチョコは、ヒロ宛でもコウ宛でもなかったんだ。
「……」
決めた。明日のホワイトデー、僕へのチョコは一体どういう意味を持ったものなのか、真白さんに訊こう。ヒロ宛でも、コウ宛でもないのなら、それだけで気分が軽い。僕がこの一か月間抱えていた靄が晴れていく。
真白さんに告白しよう。決意を固め、同時に僕は美術部員十四人へのお返しをまとめてお菓子一箱にすることを決めた。
***
明日は三月十四日、ホワイトデーだ。
枕を抱えて、ベッドの上をごろごろと転げまわっていたけれど、その行為は壁に額を打って止まった。
「いったあ……」
ごんって、すごい音がした。たんこぶ出来たかもしれない。
「……」
枕を、身体に密着させるほどきつく抱きしめる。明日、もし彼に話しかけられたら、なんて返事をすればいいのだろう。絶対に勘違いさせてしまった。
「……」
それでも、私の失敗なんだから。私が、ちゃんと答えなければならない。
そして、今度こそ本当にあのチョコを贈りたかった彼に、本当に伝えたい気持ちを伝えよう。
そんなことをずっとループさせながら考えているうちに、私は眠りについていた。
***
「真白さん、ちょっといい?」
三月十四日、授業が全部終わって帰り支度から真白さんに話しかけると、彼女は大袈裟なほど体を跳ねさせた。
「ふあい!」
「時間いい?」
「ん、うん。大丈夫」
今日一日誰に話しかけられても芳しい反応を見せなかった真白さんが、ぎこちなく動く。コウとヒロに不思議そうに見られたが、「ごめん、先帰ってー」とだけ言っておいた。
廊下に出ると、真白さんにどこに行くの、と聞こえるか聞こえないかくらいの声で尋ねられ、そういえば決めていなかったと思い、即決で美術室に向かう。活動日でもないのに絵を描きに来るほど熱心な部員はいないから、誰も来ないはずだ。この時間なら先生も滅多にいない。
扉を閉めると、絵具臭さに満ちた教室に、静けさが加わった。振り返ると、真白さんは所在なさげに美術室中に視線をさまよわせている。
「ごめんね、時間とって。すぐ終わらせるから」
声をかけると、真白さんは首を横に振った。
「ううん。明日まで部活休みだから大丈夫だよ」
「そっか、ありがとう」
「うん」
「ん」
「……」
「……」
――沈黙。連れ出したはいいものの、どう話を切り出したらいいのかわからない。真白さんもどうしたらいいのかわからないというように床を見つめて、たまにちらちらと僕を見る。頑張れ僕、男だろ。
「……あの、」
声を発すると、真白さんが勢いよく顔をあげた。
「な、なに?」
「……」まず、お礼を言わなきゃ。「……最初に言っておくね。チョコありがとう」
「あ、あ、あの、そのことなんだけど、あの、その」
「?」
何かを言おうとして口をぱくぱくさせる真白さんは、ありきたりだけど、餌を発する鯉みたいだ。恋は盲目とはよく言ったものでその仕草も可愛かったし言葉の続きも気になったけれど、しばらく黙っても両手を胸の前で組んで指をぐるぐる絡ませながら「あの、その」しか言わなかったから、お礼を続けることにした。
「抹茶の、あれって、フォンダンショコラであってるよね。美味しかったよ。実を言うと抹茶苦手だったんだけど、あれは美味しかった。あ」
「違うの! あのね、私、間違えたの!」
「りが、とう?」
お礼を遮られ、どうすればいいかわからなくなる。うん? なにが違うって?
首を傾げると、真白さんが顔を真っ赤にしてうつむきながら、早口で話を始めた。僕にチョコをくれたときと、同じように。
「あのね、あの。あの日、私、普通のフォンダンショコラと抹茶のフォンダンショコラ持ってきてて。新田くんには普通のをあげようと思ってたの。で、こうちーには抹茶の……。こうちーが抹茶苦手なの知ってたから、だから、いたずらしちゃおうかなって。そしたら慌てて、渡すチョコ間違えちゃって……!」
「そうなんだ」
いたずらで苦手なもの渡そうと思うくらいには、親しいんだ。ひねくれてるかな、僕。その返事に、真白さんがさらに続けた。
「ごめん、ごめんね。こうちーに渡しちゃったけど私本当は新田くんに、普通のチョコあげたかったの。あああ、普通とか言ってるけど、あの、その、ちがくて、義理じゃないっていうか、えっとえっと」
なんだこの子。可愛い。ひねくれた考えをしてしまった僕がバカみたいだ。そうだ、チョコを渡してくれるとき、真白さんはあんなにも真っ赤になっていた。あれは、ヒロに渡せなくて泣きそうになっていたんじゃない。照れてくれていたんだ。
でも、それでも僕は、真白さんの慌てているところをもう少し見ていたくて、意地悪な質問を投げかけた。
「でもチョコをヒロにあげたのは?」
「ちがっ、広鷹じゃなくて、広鷹のお母さんにあげたの! いつもお世話になってるし、あそこはお母さんも抹茶好きだし……。広鷹に見つからない内に食べてくださいって言ったんだけど。広鷹チョコアレルギーだから、広鷹のお母さん気を遣ってて。せめてって思って。それに広鷹宛に抹茶のクッキー預けたし。ああ、でももしかして広鷹のお母さん一緒に食べちゃったのかも――ああ、私言い訳ばっか。すっごく嫌なやつだよね。最低に見えたよね。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。うん、いいんだ」
真白さんがまさかそんなドジだとは思わなかったけれど。でも、ふつふつと喜びが沸いてくる。口元がにやけて止まらない。でも真白さんは、それでも落ち着かない様子で。そんな様子が可愛くて、面白くて。
「でも新田くんも抹茶苦手だったんだよね? というより甘いもの全般苦手ってヒロに後から聞いたの。ごめんね、ごめんね。美味しかったなんて気を遣わせちゃって」
「気を遣ってなんかないよ、本当に美味しかったから!」
「あううあ、ごめんね、ありがとう」
「こちらこそごめんね、こんなに謝らせちゃって」
「ううん、悪いのは私だから! ごめんなさい」
「いやいや」
――しばらく謝り合戦が続き、最終的に真白さんが僕に甘くないお菓子を今度つくってくるということで解決した。何故。まあいいや、また手作りのお菓子を食べられるなら、これ以上に嬉しいことはない
「真白さん」
「え? なに、リクエスト? どんどん言って!」
声をかけると、はりきった笑顔を見せてくれた。その言葉も嬉しいけれど、それよりも言いたいことがあって今日はここに連れてきたんだ。静かに息を吸って、口を開く。
「僕と付き合ってほしい」
頬を上気させて涙目になった真白さんからの返事は、照れ笑いだった。
――それにしても。
コウはどうして、「誰からも、藍実からもチョコをもらっていない」だなんて嘘をついたんだろう。
そんな疑問が浮かんだけれど、真白さんにホワイトデーのお返しをプレゼントしたら返ってきた笑顔で、すっかりどこかに飛んで行ってしまった。
***
ちゃんとわかっていた。青いラッピングをされたあのチョコは、キヨ宛のものだということくらい。ちゃんと、わかっていた。
あの日、泣いていたのは。渡し間違えたのだ。
キヨが帰り際、なにか包みを渡されていたのは見ていた。けれど周りに見られたくなかったのか、それとも恥ずかしかったのか、藍実は確認もせずに鞄から取り出した包みをキヨに押し付け、「あげるっ」とだけ言ってどこかに消えた。キヨは照れ笑いをして、緑色の包みを鞄にしまっていたけれど。
ファミレスでバレンタインの話になった時、どうしてそのことをキヨが言わなかったのかはわからない。きっと、おれと同じ気持ちだったのだろう。
青はキヨがよく身につける色だから、すぐ察しがついた。ああ、コイツ、渡し間違えて泣いている、と。アホだな、と。そして同時にほっとした。渡し間違えたのであれば、手紙なんかの類も入っていないだろう。キヨと藍実が付き合い始めることはない。
そして、藍実のチョコをどうしても食べたかったおれは、あの日、泣いている彼女に声をかけた。一縷の望みにかけて。そして、敗れた。ホワイトデーにとこっそり買ったネックレスは、もうとっくに捨ててある。キヨが似たようなそれを買ったときに、おれに勝ち目はないんだと悟ったから。
「――っつーか、幼馴染と親友が付き合い始めるとかめっちゃ変な気分! 俺さ、藍実のこと妹みたいなもんだと思ってるから、泣かせたらマジでキヨ泣かすから」
「ごめん、もう泣かせた。ヒロと違って嬉し泣きだけど。それより、僕にはヒロのほうが弟に見えるよ?」
「くっそ、おまえ調子乗んなー! なあ、コウ?」
心からの笑顔を浮かべるキヨとヒロ。このふたりには、一生言うまい。
おれが藍実のことを心底好きで好きでたまらなかったことなんて。