に。
二月二十四日、全教科のテストの返却を終えて登校が気楽になった頃。教室に入ると、真白さんは友だちと一緒にノートを広げて、困ったような笑顔を浮かべていた。
「問三でしょ? ごめんね、まだ解けてなくって。他のは終わったんだけど」
「藍実が解けないならあたしにわかるわけなくない? えええウソでしょ、よりによってあたし今日問三あたるのよたぶん!」
「ちょ、ちょっと待って! たぶんこの公式だから、えっとえっと」
あたふたして教科書をぱらぱらめくって、友人のためにうんうん唸る真白さんは、ものすごく可愛かった。数Ⅱか。一限だっけ。確かに難しかったかも。真白さんはまんべんなくそこそこ出来るけれど、どちらかというと文系らしく、たまーに理数系科目の応用問題を僕に訊いてくることがある。
席に着いて、鞄を机に置く。真白さんの脇にいる女子がちらと僕を見て、申し訳程度に「おはよ」と言った。もうそろそろこのクラスも一年だけど、席替えしていないせいもあってか、関わりのない異性の名前はほとんど覚えていない。問題だな。というわけで、名前も知らない女子に「おはよう」と返すと、真白さんが初めて気が付いたように僕を見た。僕が名前を憶えている女子は、彼女だけでいい。
「おはよう、真白さん」
「新田くん、百二十八ページの問三教えてー!」
「いきなりだね!? ちょっと待って。数Ⅱでしょ? 今出すから」
「ありがとー、おはよー新田くん」
「挨拶するタイミング、今なの?」
真白さんと話していると、思わず笑みがこぼれてしまう。「藍実ぃ」と泣きそうな表情をしている女子のために、僕は数学のノートを出した。朝のホームルームまであと十五分もある。これなら余裕だ。椅子に座って、ふたりに見えるようにノートを広げ、説明する。
「――で、だから答えは三分の一」
「なるほどー」真白さんが真面目な表情で頷く。可愛い。
「ぜんっぜんわかんなかった。けどありがと新田、助かったー! じゃあ藍実、またね」
「ちょっ、そのお礼のしかたはありえないよ、もー!」
真白さんが眉を八の字にして、口を尖らせた。なにしても可愛い。大丈夫かな僕。もう十日以上前なのに、チョコをもらってから変に意識が昂ぶってしまっていて、真白さんがとにかく可愛く見える。僕はちょっとおかしいのかもしれない。ところであのクラスメイト、ノートが真っ白だったけど、他のところを当てられても大丈夫だろうか。心配していると、真白さんが、ノートを持って上目使いで話しかけてきた。
「さっきはごめんね、いきなり。ありがとう。でね、新田くん。答え合わせ、いいかなあ」
――反則だ。
「いいよ。数学だけ?」
「うんっ、あとは大丈夫ー!」
「はいはい」
ああ、あのチョコが本当に僕宛だったらよかったのに。そこだけ、答え合わせしたい。
「はよっすおまえら。俺にも見せろ」
抹茶カステラを頬張りながら、ヒロが現れた。僕と真白さんは同時にノートを隠す。ヒロ、自分で宿題やったことあるのかな。いつにない対応に、ヒロがカステラを喉につまらせた。
「んぐ……ッ! は、しぬ、ちょ、ひっでえ!」
「大丈夫? ――だって広鷹、見るだけ見て写すだけだからぜんっぜんテストできてないんだもん。このまえの期末だって」
「三年になったら本気出す!」
「ばか。今本気出してよね」
「藍実のけーち。キヨ、見して!」
ヒロが着席しながら右手を伸ばしてきたのを、真白さんがノートでべちっと叩いた。そしてキッと僕に視線を向ける。
「新田くん、絶対見せちゃだめなんだからね!」
「ん、わかってるよ」教科書とノートを机の中にしまいながら、僕は笑顔を返す。
「さっすが、広鷹とは違うー」朗らかな笑顔。
「嘘だろ、キヨの裏切り者っ」
「ふふん、せいぜいちゃんとやることねー?」
頭を抱えて唸るヒロと、楽しそうにからからと笑う真白さん。ははは、ふたりとも仲良いなあ。……ん、もやもやする。いつものことなのに。なんだかおかしい。
バレンタインにチョコをくれた。それだけ。真白さんに他意はない。そもそも本来渡そうと思っていた相手でもないはず。それなのにこんな気持ちになるなんて、ヒロに失礼だ。
「うっそ無理、まじ無理、コウはやく来いー!」
ノートと教科書を握りしめて、駄々っ子のように足をじたばたさせるヒロ。それを見た真白さんが、いたずらっ子のようにニンマリ笑ってこう言った。
「今日ねえ、こうちーホームルーム始まるギリギリになると思うよ。パートで朝練やるって言ってたから。ちょっと昨日の合奏でやらかしたからね、トランペットパート」
「まぁじでぇ!? うっそぉ俺一体誰の写せばいいんだよ」
「いや、自分でやりなって」
本気でうなだれるヒロを見て、思わず言ってしまった。真白さんが、うんうんと頷く。
「そうだよ広鷹、このままだと卒業危ういよー? ていうか、宿題出来ててテスト出来ないなんておかしいから。先生だって怪しんでるからね。この前『相良は本当に自分で宿題をやってるのか?』って訊かれたからね」
「えっ、どの授業のヤツに!?」
「ヤツとか言わないの。えっとね、担任――数Ⅱの杉田先生、数Bの榊原先生。あと生物化学の伊藤先生に現国のりーちゃん先生、あと――」
「そんなに!? 俺そこまでやばい!?」
「職員室でも何回か話題になってるみたいよ?」
「それ、いきなりなにも出来てない宿題提出したら余計に怪しまれるんじゃ……」
「とか言ってる間にあと五分無いけど、早くやったほうがいいんじゃなあい?」
心の底から楽しそうに爛々と輝いている真白さんの瞳。今にも泣き出しそうなヒロの顔。こんな関係が一体何年前から続いているんだろう。というか、どうして同じ高校に進学できたんだろう。ヒロの成績的な意味で。
ヒロが、この世界の苦渋全てを背負ったような――宿題ひとつに大袈裟な――なんとも言い難い表情をして、震える手でノートを広げた。
「ううううう、くっそー。キヨ、自分でやる。自分でやるから、一個だけ教えて」
「なに?」
「宿題のページ、どこ?」
「そこからなのかよ」
だから教科書も開いてなかったのか。隣で真白さんは呆れて溜息をついていた。
「おはよ、ぎりぎりセーフ。っと、なにこの空気、なにかあったの?」
コウが朝にしては疲れた笑顔で教室に入ってきた。吹奏楽部、大変なんだなあ。「おつかれさまー」と真白さんがコウを労った直後、担任の杉田先生が入ってきて、ヒロが絶望の様相で机に突っ伏した。さすがに数Ⅱ担当教師の目の前で数Ⅱの宿題は出来ない。
結局、ホームルームから一限が始まるまでの時間でもちろんコウが答えを見せてあげることはなく、ヒロのノートは真っ白なままだった。
「じごーじとくっ」
ノート提出の後、両手で顔を覆って机に肘をつくヒロを見てぽそっと呟いた真白さんの小声が、妙に可愛かった。
ちなみに、真白さんと僕に問三の答えを訊いてきた女子は、予想を大きく外して問五を当てられ、涙目になっていた。
***
杉田先生の入室により広鷹が突っ伏して、こうちーと新田くんはそれを指さしてお腹を抱えて笑った。
彼ら三人が私の近くで楽しそうに笑う。それだけで私は楽しい。男子の相手が得意でない私にとって、この三人が唯一男子の中で素のまま笑顔を向けられる相手だ。こうちーと新田くんが笑いの収まらないまま席に着く。一方広鷹は絶望の様相を見せていた。今更……。
バレンタインから十日が経った。あの日、泣きながらチョコを渡してしまったから、なにか訊かれるかと思ったけれど……とくにそんな素振りも見えない。彼をちらりと見ると偶然目があって、にっこり笑顔を向けられる。うーん。なにか勘違いとか、してない、よね……? でも自分から弁解に行くのは、恥ずかしいし、嫌だ。
考えても仕方ない――今は、授業に集中しよう。
***
「ポッキーおごってよ」
「……唐突になんなの」
三月三日金曜日、卒業式終了後。部活の先輩方へ花束を渡しに行ったはいいものの、女子の先輩たちとそれを囲む女子の同期、そして女子の後輩。いつもの部室という閉鎖空間ならともかく、廊下でなんて居づらいことこの上ない。そんなわけで逃げるように学校から出てきた僕たちは、華やかな雰囲気に背を向けて駅に向かって歩いていた。さすがに今日は吹奏楽部も休みらしい。そんな吹奏楽部員である、来週の土曜に演奏会を控えたコウに、いきなり言われた。ヒロが。
「だって、こないだ言ったじゃん? おれにポッキー奢ってくれるって」
「言ったっけ? ――ああ、思い出した。バレンタインの収穫ゼロな寂しく可哀想なコウにせめてものお恵みをって話ね」
「うるさいよ。来週がんばるから買ってよ」
「いや、買わなくても普通に頑張れよ聴きに行くから。な、キヨ」
「うん、市民センターだよね? 客席どのへんに座ればコウ見えるの?」
「客席から見て左側かなー。サンキュ、お客二人確保だぜ。で、そんなおれに差し入れくれてもいーじゃん? 今甘いもの食べさせてくれてもいーじゃん?」
「うぜぇ」
言いながら、財布の中身を確かめるヒロ。なんだかんだ言って優しい。コウがガッツポーズをした。
「やりぃ。あ、あと来週みんなに差し入れ持ってきたら喜ぶよ」
「やだよ、うちのクラス吹奏楽部何人いるんだよ」
ヒロに言われ、コウが指折り数え始める。
「おれ、藍実、さーや、とーや、嘉川、太田、あと本多と飯野かな?」
「えー……八人!? 断る! っつーかさーやととーやって誰だよ」
「さーやは渡辺葉子で、とーやは赤川莉奈だけど。クラスメイトの名前くらい覚えとけよ、もうあと一か月でこのクラス終わるんだからさあ」
「原型ないじゃねーか、それこそ知るか」
「さーやは豆が好きだからって理由で、豆のサヤからそういうあだ名になったんじゃなかったかな。あととーやは、さーやとめっちゃ仲良いから双子っぽいあだ名にしよっかーみたいな」
「そんな説明いらん」
うんざり顔のヒロ。吹奏楽部員が本名の原型をとどめていない名称で呼ばれても返事しているのをたまに見るのは、なるほど部内独特のあだ名があるからなのか。
「ほら、コンビニ着いたけど。どーすんだよ、今か来週か」
「今で! 目先の幸せが大事!」
何言ってるんだこの人……。なにはともあれ、コンビニに入る。最近暖かくなってきたとはいえまだコートが手放せない僕たちを、爽やかな温風が包み込んだ。
「五円までならおごってやるよ」
「なんも買えねえよ!」
「冗談冗談。決まったら持ってこいよ」
コウが「やったー」と声をあげる。仕草だけなら小学生だと言われても納得できる。毎日ハードな練習で疲れているんだろうなあ。僕からも何か奢るよと言ったら、ものすっごい笑顔になってチョコ菓子の陳列棚に向かった。
「俺もなんか買うかなー」
そう言って、ヒロもパンの棚に向かう。大抵ワッフルやバームクーヘン、パウンドケーキなんかが並んでいるあたりだ。僕もそれに付き合って商品を眺める。特に何も買いはしないけれど。そもそも僕はワッフルよりもポテトチップスの方が好きだ。
「あ。ヒロ、抹茶のお菓子たくさんあるじゃん」
「まーなー」
そんなん知ってるよと言わんばかりに、一種類ずつじっくりとパッケージを見ながら、ヒロは買うものを選別していく。バームクーヘンとパウンドケーキ、抹茶味の饅頭なんかを手の中に抱え、「コウ、まだ?」と声をあげた。ちょうど棚の向こうから返事が聞こえてくる。
「えー、いや、ちょっと待って? せっかくのおごりじゃん? 出来るだけたっかいやつをだな」
「ざけんな」
ヒロがけっして本気ではなく声を荒げ、「もう会計するから」と言うと、コウが慌てて「うわいあい!」と謎の奇声をあげてポッキーをふた箱持ってきた。ちゃっかり高めなやつ。三百円くらいかまわないけどさ。そして、レジに高校男児らしからぬ買い物内容が並ぶ。僕は色あせた紺色の財布を取り出して、小銭を漁った。うーん、そろそろ新しい財布が欲しい。
「ヒロ、僕からの奢りの分の三百円。会計よろしく」
「おー。あ、すみませんこれとこれ袋を別で」
「さんきゅーふたりとも、おれこれで頑張れるわ」
ヒロは呆れ顔で、ポッキーがふた箱入ったレジ袋をコウに押し付けた。
いや、無くても頑張ろうよ。