いち。
チョコをもらった。二月十四日、大好きな君に。
放課後。君からのチョコがほしくて、でも言えなくて、ずっと意味も無く校舎中をうろうろしていた。テスト二日目、部活動は禁止。だから、なんの音も聞こえない校舎。それなのにまだいるのは、勉強を理由に雑談をするせいぜい数人の生徒のみ。そんな中、邪な想いを胸に校舎中を練り歩いているのは自分一人しかいないだろう。彼女がまだ学校に残っているとは限らないにも関わらず。けれど夕日すら沈みかけて虚しくなり、さすがにそろそろ帰ろうとそっと教室に入った。
窓から入る光のない、薄暗い教室。茶色、白、茶色、白。煤けた茶色に薄汚れた白。ひたすらに静謐な空間。ひとつだけ点いた蛍光灯。その下。愛しくて仕方のない君の姿。椅子に座って、うつむいて。さらさらと流れる黒い髪の毛。ぽたぽたと流れて机に水たまりをつくる雫。
「……あ」
顔をあげた彼女と、目が合った。その両腕がぎゅうと胸元に抱きしめる包みは、ほんの両手ほどの大きさ。水色のラッピングに、蝶々結びされたリボンは藍色。灰色の制服をきちんと着こなす君によく似合う、穏やかな空と海の色。
君は慌てて右腕の袖で目元を勢いよくこすって、そんなに激しくこすったら後から痛くならないだろうかだなんて心配して。彼女は赤く腫れた瞼を誤魔化すように、にこっと笑った。
「まだ、学校にいたんだね」
ふわりと揺れる黒髪が、彼女の肩に落ちる。
「ね、それ。その」考えるより先に、口をついて出た言葉。「その、包み」
「ああ、これ? これは――」
「ほしい」
何かを言いかけていた君は、目を見開いて、ちょこんと首を傾げて。それから、その包みをじっと見つめて。
「――うん。あげる」
強く抱きしめられた包みは、君の涙で少しだけ湿って、折れていた。
嬉しくて、悲しくて、僕は君を途中まで送ってから、すぐに帰宅してコレを開けた。
中身は、甘くて苦いフォンダンショコラ。まるで君みたいに、ふわふわとろとろ。
君は一体、本当は誰にこれを食べてほしかったのだろう?
***
「すいませーん、食後の黒蜜がけ抹茶パフェお願いします」
その言葉に、かしこまりました、と店員がお辞儀をして去っていく。
「おまえ、本当に抹茶好きだな」
ちょうどドリンクバーから戻ってきたコウは、ヒロにそう言った。
「おー、伊達に茶道部入ってないぜ!」
謎のドヤ顔。甘党め、とコウが呟くように言う。僕はどうも抹茶が苦手だ。苦いし。抹茶好きが甘党というのもしっくりこない。市販のお菓子はなんとか食べられるけど、幼い頃母に連れられて行った京都の抹茶は未だにトラウマである。
でもさ、と僕は隣に座るコウのほうを見て続けた。
「コウも甘党だよね」
「ちげーよ、苦いの飲めねーだけ。このくらい入れないとコーヒーって苦くね?」
その手には、ミルクが二つとシュガースティックが三本。あつあつの内にいれないと、砂糖飽和溶液になること間違いなしだ。コウは僕の言葉に否定を返しながら、ざらざらざらーと苦みを中和するどころか完全に殺しにかかる。そこまでするなら、コーヒーなんて飲まなければいいのに。以前そう言ったら、おれはコーヒーの匂いが好きなんだからいいの、と砂糖を必死に溶かしながら返されたんだっけ。 かちゃかちゃと金属同士がこすれ合う音。ちゃぷ、と薄茶色の液体が波立った。
「お待たせいたしました、黒蜜がけ抹茶パフェのお客様」
緑と黒の層が綺麗なグラスを手に、店員が声をかけてくる。ヒロが、はいはい俺俺―っととても嬉しそうに手をあげた。
「おお、うまそー」
パフェグラス用のやけに細長いスプーンを手に、ヒロが爛々と目を輝かせる。身長百七十八センチもある高校生が、まるで子供みたいだ。
そんなヒロを見て。コウがメニューを手にとった。相変わらず右手はティースプーンを持ったまま。掬い上げたのを見ると、白い粒が残っていた。やっぱり三本は多いよ、絶対。
「抹茶なあ。嫌いじゃないんだけど、独特な苦みがあるから。それよりもおれはこっち食いてえ。つーか食う。キヨ、店員呼ぶやつ押してよ」
「はいはい」
ぴんぽーん。僕がボタンを押すと、軽快な音が店内に響き渡った。何度も同じテーブルに呼ばれて、店員も可哀想に。コウはバニラアイス添えプリンを注文した。なんとなく、僕もティラミスを頼んでみる。僕は二人みたいに甘いものが得意なわけじゃないから、一番甘くなさそうなものにした。
高校男児が三人もファミレスに来て、何やってるんだか。
相良広鷹、進堂康介、そして僕、新田清良は、高校に入ってから二年間同じクラスの友人同士だ。ヒロとコウは前後で、僕はどちらかの隣。去年はヒロの隣で、今年はコウの隣だ。去年は鈴木鈴木宗田高橋からの僕だったんだけど、今年は榛葉鈴木高橋高峰藤堂からの僕。出身中学も委員会も趣味も違うけれど、三人そろって市外通いなことと、運動が得意じゃないところが共通点で仲良くなった。ヒロは茶道部、コウは吹奏楽部、僕は美術部。それぞれ男子部員は貴重で、同じクラスにひとりもいない。ヒロに至っては同学年にいない。だから、よくつるむようになったのだ。
休日に一緒に遊ぶわけでも――そもそも吹奏楽部のコウに休日なんてものは存在しない――なく、共通の話題があるわけでもない。ただ一緒にいると楽で、ノリで楽しめるから。だから、たまに部活の終わりがかぶったときに、駅前のファミレスで一緒に飯を食べて、コウ、ヒロ、僕の順に電車を降りる。ただそれだけの仲。
「ふたりとも、今回のテストどうだった?」
ティラミス待ちの僕が今日で最終日を迎えた話題を持ち掛けると、ふたりが「おいばかやめろ」「テストなんてなかった、なかったぞ?」と記憶の抹消にとりかかりはじめた。だいぶひどいのだろう。
「二年最後の期末にそれで、来年だいじょ」
「そういやこないだ、部活の後輩が、部活がないからって言ってわざわざ教室まで抹茶クッキー持ってきてくれたのが超嬉しくてさあ。さすが、俺の好み熟知してるねえ」
ヒロに話を遮られた。しかも、こんな話題で。これは……だいぶじゃない、相当だ。
「ああ、今年のバレンタイン、テスト期間とかぶったもんなあ。女子が部活の人用の義理チョコつくらなくてすむーってすっげ喜んでたわ」
コウが、男子吹奏楽部員の一番の特権をなんだと思っていやがる、となんとかぶつぶつ言いだした。一体何目的で入部したのか、神経を疑う。中学のときから続けているのは聞いているけれど、まさかバレンタインの義理チョコ目当てじゃない、よな?
プリンとティラミスが運ばれてきて、話が一時中断される。これでもう、本当にテストの話題は終わったな。二度と出てくることも無いだろう。
グラスの底に沈んでいる寒天と格闘しながら、ヒロが、そういえば、と言った。
「そのバレンタインで俺、彼女できたんだー」
「うえええっ!?」
ぼと、と今まさに口に入れんとしたアイスをテーブルに落とすヒロ。大袈裟な。僕は、そんなことだろうと思っていた。ヒロがにひ、と歯を見せてにかっと笑顔を見せる。
「さっき言った後輩。茶道部の子なんだけど、可愛いし気が利くしで、しかも帰った後に『先輩のは義理じゃなくて本命なんです』ってメールきて、奥ゆかしさに萌え! さすが茶道部俺の後輩! みたいな? で、付き合うことにした」
「あーあー。うーわ。それはないっすわ広鷹せんぱーい。マジパネエっすわー」
「うひひひひひ。なんとでも言うがいい。俺は大人の階段を昇ってやるのだ」
「後輩逃げて超逃げてー!」
ふたりは笑う。笑いあう。僕もつられて笑った。
そして笑い飽きたコウが、テーブルを紙ナプキンで拭きながら悔しそうな声をあげた。
「あーあ、おれなんか今年の収穫はゼロですわい。同じクラスの同期連中すらなにもくれなくてさあ」
「えっ、藍実も?」
――その名前を聞いて、僕の心臓がどくんと大きな音を立てた。コウが頷く。
「あー、うん。そう、藍実も。薄情者め」
「っかしいなあ。バレンタインの前日、藍実んちからチョコの匂いしてたけどなあ」
「義理つくってないってパターンすか。チョコじゃなくてもいいから甘いもん食いたかっただけなのにー」
「はいはい甘党甘党」
「甘党じゃないやい」
ぎゃいぎゃいと言い合うふたりの横で、僕は黙りこんだ。同時に、ティラミスの苦みが口の中に広がる。
藍実。真白藍実。僕のクラスメイトで、コウと反対側の隣の席。コウの吹奏楽部同期。ヒロの幼馴染。バレンタインの日、僕に抹茶とホワイトチョコのフォンダンショコラをくれた人。優しくて可愛らしい、砂糖菓子みたいにふわふわした、でも話していると安心する、不思議な人。
そして僕の、好きな人。
真白さんが作ったのは〝抹茶〟のフォンダンショコラ。ヒロの大好物、抹茶。
真白さんはきっと、ヒロにあのチョコをあげようとしたに違いない。けれど、後輩にクッキーをもらって満更でもないヒロを見て、だからあの日。
「キヨは誰かにもらえた?」
「え?」
幸せそうににやにやするヒロに顔を覗き込まれ、僕の思考はぷっつり途切れた。
「――あ、うん。美術部の子が、女子部員全員からだって言ってポッキー一箱くれた」
「えっ、計十四人から? わりに合わなくね? ってか、ホワイトデーがやばいわそれ」
「うん、すごく複雑」
なんとなく、真白さんからもらったことは言えなかった。本当は僕宛じゃないから。ああ、ホワイトデーどうしよう。何故かコウが唇を尖らせた。
「ポッキーいいなあポッキー。ふたりとも女子にお菓子もらえてずるい。いいなーいいなー。おーれーもーたーべーたーいー」
「今プリン食ってんじゃん」とヒロ。
「それとこれとは話がちげーんだよ」
「はいはい、駄々こねるなよ。男子があひる唇? だっけ? やったところで誰も得しないし。帰りにコンビニ寄ってポッキー奢ってやっから」
「そんなしょっぱいバレンタインは嫌だー!」
「いや、もうバレンタイン終わったし。じゃあいらねーな」
「いる」
「即答かよ。まあいいけど。そろそろ出るか」
その言葉を合図に、三人で財布を鞄から取り出した。僕は千五十二円。ぴったり出して、ヒロに任せる。いつもどおり。僕は深い青のコートを着て、同系色の手袋とマフラーを着けて先に外に出た。ドアを開けると冷気が入り込んで、暖房の効いた店内から「早く閉めろ」という切実な思いが伝わってくる、気がする。寒い。最近は晴れの日が続いているけれど、寒いものは寒いのだ。店内ほどではないけれど、外灯に照らされた夜空が眩しい。
支払いを済ませたヒロとコウが出てきて、「行こうか」と駅へと歩を進める。下り、小田原方面。僕の住むところは各停急行快速なんでもござれだけど、コウのところは快速は停まらないし、ヒロの最寄は各停だけだ。だから僕らは、各停が来るまで待つ。どうでもいいけど、コンビニに寄らずにホームまで来てよかったんだろうか。コウが忘れてるならそれで、まあいいんだけど。
『一番線、電車が参ります。ご注意ください。参ります電車は各駅停車小田原行――』
「あーっ! ポッキー奢ってもらうの忘れてた!」
ちょうどよくコウが記憶力を発揮したようで、電車の轟音に匹敵する大声で叫んだ。さすが吹奏楽部の肺活量。でも周りからの視線が痛いからやめてほしい。
「ちっ、思い出したか」とヒロが大袈裟な仕草付きで舌打ち。「なに、今からコンビニ戻んの? やーだよぉ俺え」
電車がゆっくりと停まり、コウの色素の薄い髪がぶあっと風に巻き込まれた。「うーん」どっと人が下りてくる。「今度でいーや」
各停来るの次、二十分後だし。
そんな言葉が聞こえたような、聞こえなかったような。
……ああ、真白さんがチョコをあげたかった相手、コウの可能性もあるのかな。抹茶が苦手なのを知らなかっただけで。ホワイトチョコって甘いし。コウ優しいし、同じクラスの同じ部活で、関わることも多いだろうし。
ヒロとコウ、それとも僕の知らない別の人? 一体誰なんだろう。僕の好きな人の、好きな人。
「きーよ、何ぼーっとしてんの? 早く乗りなよ」
「あ――うん」
『ドアが閉まります、ご注意ください』
コウが声をかけてくれなかったら危なかった。ふたりのことだから、「どうしたんだよ」とか言いながら降りてくるに違いない。僕はどの電車でも帰れるのに。
僕の方がふたりに優る良いところなんて、ひとつもない。
だから、真白さんが僕にチョコをくれたことは、ふたりのどちらかに向けられているであろう想いに傷をつけるようで、最後まで言い出せなかった。