兎はぴょんと跳ねて
異世界に行く権利と5分間エッチなお姉さんの巨乳を揉む権利。
その二つを天秤にかけたとき、男子高校生はどうするのか。その答えがここにある。
「約束は違えるなよ、少年」
蒸気した顔でバニーガール――――グレン=ヴァンシュタインロード=アレキサンドライトさんが勝ち誇った。結果は言わずもがな。押し寄せる柔らかな感触の前には男子高校生の鉄の意志など無力だった。飴細工のごとく簡単に溶かされた。
両手両膝を地面に付く俺は正に敗者。正に負け犬。この世界がゲームなら頭に『YOU LOSE』の文字が踊ること間違いなしだ。
「……畜生。本能が恨めしい」
この瞬間ほど性欲が消え失せればと思ったことはない。
「ふふふ」とほくそ笑むグレンさん。勝者の笑みである。
「GWを超える、正にゴールデンタイムであっただろう」
「……くそ。大して上手くないのに、否定できないのが悔しい」
確かにそうだ。ネトゲ漬けだったGWと、今の5分間のどちらを捨てるか。そう問われれば俺は喜んでGWを捨てる自信がある。
「なんてな」
グレンさんが、戯けるように肩を竦めて手を返す。
「本当は時間に色などない。全ては人間の色眼鏡で見た錯覚さ。まして黄金色の輝きなど以ての外だ」
「……それは俺を慰めているのか?」
「まあ適当にな」
だと思ったよ畜生。
「嘘なんでしょう。GWの暗殺なんて」
「本当だとも。GWの暗殺は嘘じゃない」
恐らくグレンさんの口を出る言葉は真実だ。けれどそれは俺が知りたい真実ではない。
GWという大型連休を隠れ蓑にする暗殺がある。それ即ち、GWには元々暗殺の隠れ蓑にできるだけの自殺者がいるのだ。
俺が自由意志による自殺なのか、見知らぬ誰かの意志に唆された自殺なのか。その答えをグレンさんが口に出すことはない。ただ静かに微笑むだけだ。
屋上を風が吹き抜けていく。火照った身体を冷ましてくれる涼風を浴びながら、俺は黙ってグレンさんの背中を見ていた。わかっている。彼女はもう行く気なのだ。
やがて風が止んで、彼女は別れを告げた。
「君は悪い夢を見ただけさ。自分の意志を強く持て」
「そう言われてもなあ」
「GWの暗殺。その標的にされる人間はすべからく有能な人間だ。どうせ殺すなら、世界に多くをもたらす人間を殺した方が、再分配が捗るからな」
「えっとさ。俺のどこが優れてるの?」
「迸る性欲と、情熱的な揉みしだきかな」
酷い御墨付きをいただいたものだ。さすがは職業エッチなお姉さん。碌でもないことしか保証してくれない。そのスキルじゃAV男優以外の道を見出だせないのだが。
「前向きに考えろ、少年。生きていればエッチなお姉さんと遭遇する機会もあるということだ」
確かに生を渇望する気になるお言葉だ。でもいないだろ、こんな人。一生かけても、街中でエンカウントできる気がしねえ。
「その機会より、俺が自殺を考える機会の方が多そうな気がして仕方ねえな」
「大丈夫さ。君は今回の件で大切なことを学んだ」
学んだとな。俺が学んだのは異世界の使者はバニーガールで、エッチなお姉さんと言うこと。それと、自分は何かの拍子でふらりと自殺しそうな意志の弱い人間ということだけだ。
「いや違う」と俺の心を見透かし、グレンさんがその全てを否定する。
「君の収穫は――1秒あれば世界からは逃げられるということを学んだことだ、少年」
1秒後。グレンさんは俺の見知った世界には居なかった。焼きとった星空の風景とともにグレンさんは消えた。影も形もない。ここはどこにでもある学校の屋上で、そこにいるのは無目的な男子高校生だけだ。
「やっぱり、柵もグレンさんが取っ払ってたのかよ」
全てが元通りになると夢から覚めた気分だった。
「しっかし、あれが最後の言葉ねえ」
未来は光に満ちている。そんな劇的な言葉ではないにしてもせめてだ。1秒あれば世界は変えられるとでも言って欲しかった。
「けど、俺にはお似合いってことか」
――1秒あれば世界からは逃げられる。
間違っていない。その気になれば世界から逃げることなど容易いのだ。そう思えば死ぬのが阿呆らしくなってきた。どうせ何時でも死ねるのだ。
すうっと、身体から憑き物が落ちた気分だ。心は晴れやかで身体は絶好調。空はどこまでも澄み渡る晴天で、息を吹き返すには絶好の陽気だった。
「うっし」
両手で頬に気合を入れる。人間現金なもので、途端に生きると決めるとやる気が出てくる。良い機会だ、目標でも立てておくか。
「取り敢えず、理系に鞍替えして、功夫でも積むか」
せっかく異世界人の助言を得たのだ。同一世界の多重構論とやらを突き詰めていくか。エッチなお姉さんとのエンカウント率を上げるための努力なら頑張れそうだ。適当に選択した文系に未練があるわけでもない。
「一生かかるということは、裏を返せば一生かければ、真理に辿り着くということだろ」
そこまで都合の良い解釈が出来る発言じゃなかった気もするが、まあいいや。ただエッチなお姉さんと遭遇するのを待つだけより、この方が余程可能性が高そうだ。
「やってやろうじゃねえか。ほわー」
高い壁に挑む武術家の気分だった。俺が勝手に思い描く中国拳法っぽいポーズを決める。適当だから全く決まらないけど。そういや功夫は関係ないんだったな。
「どうでもいいか」
後頭部を掻いて、俺は錆びた鉄扉へと戻っていく。
功夫を学ぼうと決めること。自殺を敢行しようと試みること。やっぱり止めて引き返すこと。そのどれもが一緒だ。こういうのは勢いが大事なのだ。
俺は何ともまあ冴えない日常へと帰っていく。
階段を降りる足取りは軽やかで、グレンさんの言う通りなのだと確信した。
空を歩くのには、どうやら功夫も魔法もいらないようだ。
「ほっ」
俺は階段半ばから踊り場めがけて飛び跳ねた。
空も飛べそうな気分だった。