第3幕2部 帝都にて
話が全然進まん
フローラは城内の広い廊下を歩いていた。
その歩調はフローラの内心の苛立ちを表しているのか、随分と忙しないものだった。
いくつもの角を曲がり、やがて見えてきた扉を目に入れるとフローラは一層早足になる。
扉の前につくと一旦立ち止まったものの、意を決したように扉に手をかけて勢いよく開いた。
バンッ!と大げさな音を扉がたてる。
「フルヴォン司祭!」
「フローラか・・・、乱暴だな。騒がしいぞ」
フローラが勢いよく開けた扉の先には司祭服に身を包んだ70歳近い白髪の老人が、山積みになった書類を前にして椅子に座りながら眉をひそめていた。
「フルヴォン司祭!どういうことなのです!」
フローラはフルヴォンの様子にも構うことなく、ズカズカとその目の前に迫った。
その剣幕の鋭さは並大抵の人間であれば青ざめて身を引いてしまうほどのものであったが、当のフルヴォン司祭は眉をひそめたまま盛大に溜息をつくだけだった。
「どうもこうもない。司祭たちで協議して決定されたことだ。お前が騒ぐようなことではないだろう」
「納得できません!」
フローラがフルヴォンの目の前にうず高く積み上げられた書類の上から乱暴に手をついて派手な音を鳴らす。
騎士の地位は助祭から副助祭に位置づけられている。
フローラにとってはフルヴォンは直属の上級職にあたるため、不躾な行為が咎められてもおかしくなさそうなものだったが、フルヴォンもフローラもそのことを特別気にしている様子は感じられない。
「お前が納得するかどうかなど問題にもならないのは分かっていることだろう。それともなにか?騎士を先導して司祭たちの決定に反旗でも翻してみるのか?」
フローラは顔を歪めながら首を左右に振る。
「そんなことをするわけがないでしょう!」
「だったら・・・」
「それでも!」
フローラが強い眼光でフルヴォンを睨みつける。
緑色の瞳が、まるで怒れるドラゴンのように燃え上がっていた。
「あの天使を人目に晒すことには反対なのです」
「・・・」
フルヴォンはフローラから視線を外し、僅かに下を向く。
「フルヴォン司祭」
「・・・どうしろというのだ」
「・・・」
「私だって反対はした。しかし、大勢は覆らなかった」
「ですが・・・、では、せめて騎士たちまでの公開にするとかの折衷案では・・・」
フルヴォンは目線を再びフローラに移して鋭く睨みつける。
「人の口に戸を立てろというのか?無茶を言うな。人民にまで話が広がれば大騒ぎになるぞ」
フローラの瞳に動揺の色が浮かぶ。
明確な代案があって、フルヴォンのところに押しかけたわけではないのだ。
ベルの処遇についての連絡が入り、居てもたってもいられずに行動を開始したフローラにとって、フルヴォンの心を動かせるような起死回生の案など咄嗟に思いつくわけがなかった。
「そもそもお前はどういうつもりであの天使を連れてきた。国教会が天使を手中におさめておいて、なんの行動もおこさずにただ彼女を保護するとでも思ったのか?」
「それは・・・」
「今までの歴史の中で天使が降臨したなどという記録は無い。降って湧いた幸運に司祭たちが色めき立つのも無理はないだろう」
「ですが・・・」
「決定したことを覆すことは容易ではない。今考えるのは、どうすればあの天使を戦争の道具にせずに守りきれるかということだ」
「・・・」
「フローラ、お前の心配はよくわかる」
「・・・」
「私たちの国教会は、今腐敗が進んでいる。天使をダラス侵攻の旗印に抱え上げようと考える輩がいるのは私もよく分かっているつもりだ。もし奴らの思い通りに事を進められれば、ギリギリの所で耐えているダラスとのバランスは造作もなく崩れることになるだろう。全面的に戦争が始まり、多くの人が死ぬ」
「・・・」
「だから、そうならないような道を探すのだ。あの天使を、人を殺すための道具にせず。人を救う存在として人々の目に触れさせる方法を」
「はい・・・」
そこまでいって、フルヴォンは再び大きな溜息をつく。
肘をついて顔の前で組んでいた手を解いて、椅子に深くもたれかかった彼は、傍目に見てもかなり疲労しているように映った。
「私は私なりに全力を尽くす。今、私の意見に賛同してくれそうな人物たちに協力を呼びかけているところだ。だからフローラ、お前も落ち着いて考えを巡らせろ。私にできないことで、お前にできることがあるはずだ。騎士の仲間を一人でも多く味方につけろ。もしも、騎士団が一丸となって意見を共にすることがあれば、司祭たちもそれを無視することはできないはずだ」
「そんなこと、私にできるのでしょうか・・・今の私には、ヨーンすら・・・」
「・・・ヨーンは惜しいことをした。だが、初めから弱気になってどうするのだ。そんなことでは行動することすらできずに終わってしまうぞ」
「・・・はい」
「お前の新しい騎龍については今早急に手を回しているところだ。苦しいだろうが、我慢してくれ」
「・・・お手数をおかけします」
「構わん」
真摯な眼差しで自分を見つめるフルヴォンを前にして、フローラは無言で立ち尽くしていた。
勢いに乗ってフルヴォンのところへ押し駆けたまではよかったが、これではただ自分の感情をぶつけて駄々をこねに来ただけだ。
連日続いた協議の直後、年老いたフルヴォンが疲れていることなど分かりきっていたはずだ。
それを承知で意見をぶつけに来たはずなのに、自分の中に確かにあると思った意見は薄っぺらで、なんの思慮もなかった。
「フルヴォン司祭」
「なんだ、フローラ」
俯いていた顔をあげ、フローラがフルヴォンを見つめる。
フルヴォンには、彼が頼りにしているはずのフローラがどことはなしに弱っているように見えた。
無理もない、自分の半身とも言える騎龍を失ってまだいくらも経っていないところに、この天使騒動だ。
自分で自分のことが、よくわからなくなっているのだろう。
「あの天使のお世話を、私がさせていただくことはできないでしょうか」
「・・・手配してみよう。期待はするな」
「ありがとうございます。・・・お疲れのところに、申し訳ございませんでした」
フローラがフルヴォンに向かって美しい所作でもって頭を下げる。
フルヴォンもそれを見て頷いてみせた。
「構わんよ。どうせ来るだろうと思っていたしな」
フルヴォンが今までの硬い表情を柔らかくし、僅かに微笑んだ。
「・・・失礼いたします」
それを見てフローラも少しだけ微笑んで見せてからフルヴォンに背を向けて歩き出す。
しかしドアまであとわずか、というところで何事か思ったのか、フローラはその歩みを止めた。
「何か、まだ言いたいことがあるのか?」
フルヴォンがフローラの様子を見て声をかける。
フローラは暫く無言で立ち尽くしたあと、フルヴォンに背を向けたまま口を開いた。
「フルヴォン司祭・・・もしも・・・」
「・・・なんだ?」
「もしも・・・天使が逃げ出すようなことがあれば、どういうことになるのでしょうか」
「逃がしたいのか?」
「・・・いいえ」
「どうなるか、か。何が起きるか、ということか?・・・だったら私にもわからんよ。どこへ逃げるかにもよるだろうしな。そもそも、多勢の追ってがかかる。あの天使が、自分で語った以上の力を秘めていなければ到底逃げきれるとは思えんがな。逃がすために手を貸してやる輩達がいるとも思えん。自殺行為だ」
「・・・」
「聞かなかったことにしよう。さぁ、もう行きなさい」
フローラが再び足を動かす。
取っ手に手をかけ、その扉を開こうとした時になって、今度はフルヴォンがその背中に声をかけた。
「そういえば」
フローラが扉を半ばまで開いたところで動きを止める。
「キャロルといったか?お前の報告によく似た特徴を持つ女が、昨日目撃されたという知らせが上がってきていたぞ」
「・・・」
「どこでだとおもう」
「さぁ、分かりかねます」
フローラは、振り返ることなくそう答える。
「帝都近くの、上空でだ」
「・・・」
「ドラゴンに騎乗していたそうだ。帝都周辺を警戒中の2部隊が追いかけたが、あっという間にまかれたらしい。・・・お前の報告では、その女はドラゴンライダーなどではないという話だったな」
「・・・はい。ただの、どこにでもいるような放浪者でした。・・・人違いではないのですか」
「そうか」
「・・・それが、なにか?」
「いや、なんでもないさ。気になるかと思っただけだ。引き止めてすまなかったな」
「いえ・・・、失礼します」
フローラはそのまま、扉を開けて静かに部屋を出ていく。
部屋に飛び込んできた時とは対照的に、フローラを包む空気はどこか重苦しいものだった。
僅かな音をたてて、扉がしめられる。
再び開くことはなかった扉を、フルヴォンは暫く見つめたあとに視線をはずし、身を沈めていた椅子を回転させて自分の背後にある窓から外を眺めた。
「天使を・・・逃がす、か・・・」
一体誰が、どこへ、どうやって。
自分の人生を捨てることを厭わずに、命を危険に晒すことも恐れずに。
「そんな、頭のおかしい奴がいるものかね・・・」
窓の外は、素晴らしい天気だった。
陽の光が燦々と降り注ぐ帝都は、神の祝福を受けているかのようにきらめいている。
フルヴォンは、それ以上の言葉は発さずに、しばらくの間、静かにその光景を眺め続けていた。
――――――――――――――――――
フルヴォンから、ベル付きの騎士として任務につくよう指示が来たのはそれから三日後のことだった。
期待はしていたものの、半ば諦めていたフローラにとって、その知らせを聞いた時の安堵感は筆舌に尽くしがたいものだった。
どういった手を使ったのか、およそ認められないだろうと思っていた配属の命令を伝えてきたフルヴォンに感謝の念を禁じ得なかった。
もしかしたらフルヴォンはフローラが自分の騎龍を失ったことを利用したのかもしれない。
高い給金を払っている騎士を無用の長物として腐らせておくよりは、まだ天使の世話でも焼かせていたほうが国民の血税の無駄使いにはなるまい。
屈辱ともとれる方便ではあったかもしれないが、しかし、今のフローラにとってはそれもまた良しと思えた。
コンコン、と静かな音で扉をノックし、返事を待たずにフローラは取っ手を回した。
扉を開けると、そこには窓枠に手をつき、ぼんやりと外を眺めるベルの姿があった。
「フローラさん!」
扉の空いた音に何事かと驚いた表情をしたベルだったが、フローラをそこに認識するとベルが嬉しそうな声を上げる。
自分の姿を目に止めて明るい表情を浮かべたベルの姿を見て、フローラは僅かに胸が痛んだ。
しかし、フローラはそれを顔には出さずにベルに向けて微笑んでみせる。
「ベル様、不自由はされておりませんか?」
そう尋ねるフローラに向けて、相変わらず明るい表情のままベルは首を横に振った。
「いいえ、皆さんよくして下さっています」
それを聞いてフローラも柔らかく頷いた。
「それは良かった。こんな部屋に押し込んでしまって本当に申し訳ありません。今しばらくすれば街に出て遊山に興じることもできるはずです。少しの間ご辛抱ください」
本当にそんなことができるかどうか、フローラには確信がなかったが、今はベルに不安を感じさせたくなかった。
少なくとも今は、フローラに伝わっている国教会の決定は「天使を人民に公開する」ということだけだ。
全てを悪い方向に考えていても仕方がない。
「はい。フローラさんは、今日は様子を見に来てくださったのですか?」
暗い考えが頭に浮かび始めていたフローラに、ベルが声をかける。
一瞬意識をベルから外していたフローラがハッとした表情を浮かべると、ベルは少しだけ不思議そうな顔をした。
「どうかされましたか?」
「あぁ、いえ、なんでもありません。」
「?」
「ベル様、今日は様子を見に来たのではないのです」
「どういうことですか?」
フローラの言葉を受けて、ベルが益々不思議そうに首をかしげる。
「ベル様のお世話をするように下命されたのです。いつまでになるか分かりませんが、今日からは私がベル様のお側に仕えさせていただきます」
フローラがそう言うと、ベルは暫くの間キョトンとしたままだったが、見る見る内に表情を明るくして喜びを顕にした。
「フローラさんがいつもそばにいてくださるということですか?」
「はい、夜も下の部屋に控えさせていただきます」
「わぁ!」
ベルが両手を胸の前で合わせる。
「嬉しいです!お話、沢山させていただけますか?」
その無邪気なベルの仕草をみて、フローラは柔らかく微笑んだ。
「勿論です。私でよろしければ、いくらでも話し相手をさせていただきます」
「わぁ!嬉しいです!とっても!」
ベルは手放しで喜びを表現する。
天使というものは、誰もがこのように無邪気なものなのだろうか。
自分が今までイメージしてきたそれとは大きく異なるベルの姿に、始めは驚かされたものの、今のフローラはなんとも言い難い温かい感情が生まれる感覚を覚えた。
「何か、聞きたい話しなどがあれば、なんなりとおっしゃって下さい」
「はい!」
しかし、ともフローラは思う。
今のこの無邪気なベルの姿が演技だとは到底思えない。では、あのキャロルとかいう女と一緒にいた時に彼女が見せていた悲しみにくれる姿はなんだったのだろう。
キャロルがベルに対して何か非道い事でもしたのではないか、そう思ってベルに訊ねたこともあったが、ベルは首を横に振るばかりでそれには答えてくれなかった。
まるで普通の人と接する時と同じように、その心の内は想像がつかない。
神だから、天使だから、という超常の存在に対して感じるものとは違う。
ごく普通に、他人の心の中のすべてが見えないのと同じように、天使の心の中は見えなかった。
不思議だと思う。
彼女の姿形は到底人とは思えない作り物のような美しさで固められ、その背中には純白に輝く翼が揺れている。
そればかりを見れば、あまりの神々しさにいつか自分の目が潰れてしまうのではないかとすら思うのに、しかし、その内面が自分たち人間と大きく異なるものとは感じない。
天使とは、どういう存在なのだろう。
無邪気に笑うベルの姿に微笑みを返しながら、フローラは胸中に、今までにない考えが浮かぶのを感じていた。
――――――――――――――――――
帝都には様々な商店が所狭しと並び、昼時ともなれば大勢の人間が行き交ってその豊かさを象徴するのに一役買っていた。
客を呼ぶ声がそこかしこに響き、道端で会話する女性たちの笑い声がそれに華を添える。
通りでは人々に行く手を遮られて立ち往生する馬車の馬が苛立ったように鼻を鳴らし、その御者が前方に道を開けさせようと怒号を飛ばしている。
時折、肩でもぶつかったのか喧嘩が始まると、面白がって大勢の野次馬が周りを取り囲み、血が飛ぶたびに大きな歓声が上がった。
酒場の外に設けられた臨時のテーブルでは男たちが昼間から酒を煽り、ポーカーに興じている。
飛び交う笑い声や怒声、騒がしい帝都の城下町は、外から来た異国人にその豊かさを強烈に印象づけるのに十分な様相を呈していた。
その喧騒の渦から僅かに外れた位置にある路地の中にたつ寂れた酒場のカウンターで、一人の細身の男が昼にもかかわらずに酒の匂いをプンプンさせながらイビキをかいていた。
瞼までかかるであろう長さのものを後ろで一つにまとめた明るい茶色の髪には艶があり、男がまだそれほど歳を重ねていないことを主張している。
深い緑色の外套は所々に、泥の汚れが落ちなかったのか、それとも返り血のあとなのか、どす黒く変色したままにされた跡が残っていた。
衣服はどれも安物で、元の色は茶色なのか、それとも安っぽい赤だったのか、色落ちしてほとんど灰色に近くなっている。
ろくに手入れもしていないのだろう、擦り切れ、肌の見えている部分がいくつもあった。
しかし、その外見のみすぼらしさとは反対に、男の横に立てかけられたものは一見して価値の高さを伺わせる。
恐らくその男の得物であろうと思われるそれは、男の身長にも並ぶほどの長さを誇り、鞘は紫色に光っている。
果たして何かがあった時に、咄嗟に抜くことができるのだろうかと心配になるほどの、異様な長さの大太刀であった。
鍔は濃い黒で統一されており、柄の部分は外套の色に揃えてあるのか、深い緑色をしている。
自分の外見とは大きく異なって管理に気を配られているであろうその大太刀を、男が大切に扱っている様子がよく伝わった。
ガランガランガラン―――――――――
正体不明のこの汚らしいこの男が果たしてちゃんと金を払ってくれるのか、酒場の主人が不安げな視線を何度も送っているところで、店の扉の鈴が鳴った。
もとよりその男以外に客のいなかった酒場に、その鈴の音は異様に大きく響いたように聞こえた。
「いらっしゃい」
眠りこける男から視線を外すと、酒場の主人は新しくやってきた客に目を向けて愛想の良さそうな顔を向ける。
こんな昼間から二人も客がくるなんて久しぶりのことだ。
この男が食い逃げ野郎などではなく、ちゃんと代金を支払ってくれる“客”であればの話ではあったが。
新しく入ってきた客は煤けた灰色の外套のフードを目深にかぶり、その性別は判然としない。
肩に大きな麻袋を抱え、手には、何かの得物なのだろうか、布をかけた長い包みを持っていた。
(また変な奴が来た・・・)
主人は辟易する思いだったが、いきなり追い返していては商売もくそもない。
しっかり代金さえ払ってくれればそれで良いのだ。
厄介事を起こされるなら話は別だったが、こんな場末の酒場だ、客は大事にしなければならない。
溜息を付きたくなるのを我慢し、主人は「ご注文は?」と笑顔のまま新しい客に向かって声をかけた。
「なんでもいい。時間のかかるやつを」
女の声だ。
しかしそんなことは置いといて、新しい客からの注文は、主人の頭の上に疑問符を浮かべるようなものだった。
何をいってやがる、と一瞬イラつきを覚えた主人だったが、しかしそれを押し殺し、笑顔のまま接客を続ける。
「どういうことです?一番時間のかかる料理ってことですかい?」
どうやら女らしい灰色のフードを目深にかぶった女が頷いてみせる。
「一番っていうと、ハンダのお頭の丸焼きになるんですが・・・一人で食べきれる量じゃないですぜ?でかい宴会用だ。10人とかでつつくような料理だ。」
「構わない、さっさと奥に入って作ってきてくれ」
女の客は相変わらずの無愛想のままそう言い放つ。
その訳のわからない注文も、礼儀もなにもあったものではない態度に今度こそカチンときた主人ではあったが、「いくらだ?」と女が先払いをしようとする動きをみせたことで、一瞬にして喉元にまで出かけていた文句を飲み込んだ。
上客だ。
訳がわからんが、金さえ払ってくれるなら別に構わない。
「2000です」
そういうと女が一瞬動きをとめる。
「高いな」
まさか、払えないとでも言うつもりだろうか。
値切りなどに応じるつもりはない。
もしもそんなことを女が口にするのならば、徹底抗戦する覚悟は出来ている。
「別のものなら、もっと安いですが」
かろうじてそう伝えると、女は首を横に振った。
「いや、払うよ。できるだけ時間をかけて、ゆっくり作ってきてくれ」
女がそう言ってカウンターに銀貨を数枚置く。
主人は警戒しながらも、客の考えが変わる前にと慌てた手つきでそれを掠め取り、金をポケットに突っ込みながら飛ぶようにして厨房へと姿を消していった。
「・・・」
女はやや寂しくなった懐に何を思うのか、銀貨が消えた小さな袋の中身をしばらく見つめたあと、思いを振り切るようにして袋の口を締めて顔を上げる。
その視線の先には、いまだ大仰なイビキをかいて眠りこける男の姿があった。
女はツカツカとその男に歩み寄る。
その脇に立つと、女は男を驚かさないようにとの配慮か、静かな声でその名前を呼んだ。
「おい、トールマン」
しかし、その程度の呼びかけでは届かないほど深く眠りについているのか、男が起きる反応をみせることはない。
「おい、起きろ、トールマン」
今度は背中に手をかけて揺さぶりながら声をかけてみる。
全くと言っていいほど男は目を覚まさない。
女はしばし無言で動きを止めた。
なんとなくだが、傍目にはイラつきが立ち上って来ているように見える。
「おい!トールマン!!」
今度こそと、女が男の耳元に口をよせて大声を上げた。
ガチャーンと、厨房の方で、女の大声に驚いたのか店の主人が何かを落としたかのような音を立てた。
慌てて厨房に続く扉の無い潜り戸に目を向けると、しばらくしてこちらを窺うように店の主人が首から上だけをのぞかせた。
フルフルと女が首を振ると、不審そうにしながらも主人はゆっくりと首を引っ込めていった。
「・・・」
しばらく女は潜り戸の方向を見つめていたが、向こう側で店の主人が作業を再開した物音が響き始めると、再び男の方へと向き直った。
女は、肩に担いでいた麻袋を床に下ろすと、反対に、布をかぶせていた長い包みを両手で持った。
グワッと音でもしそうな勢いで、女がそれを振りかぶる。
振りかぶった長い包みを一瞬頭上で静止させたあと、女はその先端を、いまだ眠りこける男のつま先に向けて振り下ろした。
ズンッッッ!!!!!!!!!!
男のつま先に見事に振り下ろされた包みが大げさな音を立てる。
あまりの勢いに、男のつま先のホコリがブワッと舞い上がった。
「・・・」
「ぎゃぁあああああああああああああああああああああああああ!!」
「起きたか、トールマン」
男が絶叫する。
当たり前だ、相当痛かっただろう。
できれば経験したくない目覚め方だった。
厨房の奥では、再びガッチャーン!と派手な音が響いた。
「てめぇコラ何しやが―――――――――」
「久しぶりだな、トールマン」
女が、フードをとる。
普段は一つにまとめている僅かに赤みがかった黒髪が、フワリ、とその女の肩に舞い落ちた。
「あ“!?キャ、キャロル!?」
トールマンは、その瞳を大きく開く。
半年ぶりに会ったキャロルが、僅かに口に微笑みをたたえながらこちらを見つめていた。