第1幕1部 天使「ベル」
彼は、最後の最後に、本物の天使の手に抱かれて逝った
天使が舞い降りたのだ
それじゃぁ
何度目かわからないが
話をはじめよう
長い話だ
飽きたら構わず帰ってくれて構わないよ
ただ、わしが話したいだけだからな
好きなんだ
この話がな
・・・
すまんな、ちょっと
肺が悪くてな
たまに咳き込むが、心配せんでいい
さて、それじゃぁ
天使の力を手に入れた、王様の話を知っているかい。
そうさ、今、お前たちを幸せにしてくれている王様だ。
この国は豊かだ。
木々の緑は鮮やかで、炎にうち焼かれることもない。
川の水は澄んでいて、血の色に染まることもない。
風はどこまでも清く、火薬の匂いを運ぶこともない。
この国は豊かだ。
幸せに満ちている。
大小の差はあれど、人々は皆幸せだ
うん
違うな
幸せになる権利を持っている
違いがわかるか?
うん
難しい話だったか
昔はそんなことはなかった
この国は弱くて
作物もならず
人々は皆貧しかった
大陸の端っこしか国土がなかったんだからな
豊かになれ、という方が無理だ
昔からの、この国の領土にいったことはあるか?
いまもそこは、冬になると雪に閉ざされ
嘘のように静かな世界になる
いつか、行ってみるといい
そこには、この国の歴史がある
死んでいった英雄たちの墓がある
いつか、行ってみるといい
そして、一言礼を言ってやってくれ
ありがとう、ってな
嫌な時代だったよ
よく、生き残ったもんだ
皆ピリピリしていてな
二つの大きな国が争っていたんだ
この国は 蚊帳の外だった
街の色はどこか灰色で
いつもどこかで誰かが悲惨な目にあっていた
嫌な時代だった
・・・
あぁ、そうだな、すまん
じゃぁ本当に
この国の話を始めよう
飽きたら途中で・・・
さっきもいったか?
そうだったか
すまんな
・・・
大丈夫だよ
たとえボケても
この話だけは忘れないんだよ
忘れられる訳が無いんだ
ゆっくり聞いてくれ
この国の王様と
天使の話だ
女の名前は、キャロルといった。
その晩、キャロルはグリッツ帝国の国土の中の深い森の中で野営を行っていた。
隣国のダラス王国への護衛の仕事を終え、今はグリッツへの帰路の途中である。
予定では既に森を抜けているはずであったが、先日の大雨で川が氾濫し、橋が流されてしまっていて旅程が遅れていたのだ。
パチパチと爆ぜる炎に木をくべる。
時折聞こえる狼の遠吠えに、ウトウトと眠りに吸い込まれかけては起こされ、吸い込まれかけては起こされの連続だった。
いつもは危険を伴う護衛ならばバディを組んで当たるのが普通なのだが、依頼主が報酬をケチったために予定していたバディが逃げてしまったのだ。
呆れたキャロルも始めは依頼主を見捨てようとしたのだが、涙ながらに頼み込まれてとうとう断りきれなくなり、仕方なしに一人で三台の荷馬車を護衛するなどという無茶をおかすことになった。
幸い今回は野盗に襲われるようなこともなかったが、もしも何かが起きていたらと思うとぞっとする。
とにもかくにも無事に護衛を終えられてほっとしていたのも束の間、この有様だ。
長い旅路に体が疲弊しきっているのに、火を絶やさないようにするために眠ることもできない。
最低でも二人であれば、交代で眠ることができるはずだったのだ。
今更ではあったが、依頼主のあの商人に悪態をつきたい気分だった。
眠気を覚まそうと、いつでも手に取れる位置に置いてあった短槍へ手を伸ばす。
持ち手にはヤスリが何回もかけられ、油がよく染み込ませてあり、スベスベと手に気持ちの良い感触を与えてくる。
一方で、使い込まれた刀身はよく研がれてはいるものの、いくつか欠けている部分があった。
―――グリッツに戻ったら、刀身を交換しなくちゃだめだな。
キャロルは槍をぼんやりと見つめながら深い溜息をついた。
自分の愛用する槍ではあったが、今はそれが気持ちを高揚させてくれることもない。
キャロルに襲いかかる眠気と疲れには役に立たなかった。
諦めて短槍を地面に置くと、キャロルは再び炎を見つめる事に意識を集中させた。
夜の森は静かだった。
虫の鳴き声が響く以外には、なんの音も聞こえてこない。
自分以外の人間の存在が全く感じられない世界だ。
炎から目を上げて森を見渡しても、暗い闇が広がるばかり。
時折炎の光に反射して、一対の目のような光が煌めくのは明かりに誘われた鹿かなにかがいるからだろうか。
狼でないことを祈るしかなかった。
そうして、しばらくの時を心穏やかでなく過ごした時であった。
ふと、キャロルは顔を上げる。
眠気を覚まそうとしてのことではなかった。
何か、違和感を感じたのだ。
日頃から気を張り詰めた生活を送っているキャロルであるからこそ気づけるような、そんな微細な違和感だった。
周囲の空気がざわめくような、ソワソワとした感情を引き起こす違和感だ。
自分の周りに高くそびえる木々の葉の隙間から空を覗う。
空は森と同様に暗かったが、そこには星が輝いている。
雲一つない星空は宝石を散りばめたように綺麗だった。
やがて、その星の中の一つにキャロルは目線を定める。
その星は他の星よりもぼんやりとしており僅かに動いているように思えた。
「落ちてきてる・・・?」
キャロルは誰がいるわけでもないのに、思わずそう呟く。
星は、ゆっくりとその高度を下げてきていた。
キャロルは急いで目線をその星から外し、荷物の中からなけなしの油を取り出す。
もう残りは僅かで、これを使ってしまったら底をつくような量しか残っていなかった。
キャロルは構わずに、古くなった包帯を取り出すと、ひとつの大きな薪にくくりつけて油を染み込ませる。
空になった瓶を投げ捨てると、包帯を巻きつけた薪を火にかざして即席の松明を作った。
外套の紐をきつく結び直し、先ほど地面に置いていた短槍をもう片方の手で掴むと、キャロルは足早に移動を開始した。
時折顔を上げて木々の隙間から星を探す。
先ほどよりもはっきりと見えるようになったその光は、やはりだんだんと大きくなってきているように思えた。
「人・・・か・・・?」
星の落下地点に検討をつけて進むキャロルの目に、僅かに輪郭が認識できるようになったそれは、人の姿のように映った。
ただ、何かが違う。
足を止めることなく森がポッカリと開ける場所まで来た。
周囲を森に囲まれ、そこだけが円形のホールになったような、小高い丘のある空間だった。
キャロルに、やがてはっきりとその形が見えるようになってきた。
キャロルは驚いて一瞬その歩みを止める。
その明かりには、羽が生えていた。
真っ白で、神々しく、美しい羽だった。
羽が舞い落ちる。
その人影は穏やかに身を横たえるようにして宙に浮き、胸の前で手を組んでいるようだった。
意識があるのかないのかは、下から見上げるキャロルには分からない。
羽と同じ白色であろうひざ下までのローブは、夜の闇とその人影がぼんやりと発する光の影響か薄紫色に染まって見える。
キャロルがその人影の落下地点についた時には、先程まで遥か上空にみえていた人影は建物の三階程の高さまで降りてきていた。
呆然とその光景を見ながら、キャロルは手に持った荷物をその場に下ろし、松明を地面に突き刺すと両手を広げて人影を受け止めるようにした。
キャロルが両手を広げたその時、その人影は強烈な閃光を放って輝いた。
光の柱が、地面のキャロルから、その遥か上空まで一気に顕現する。
あまりに強烈な光に目がくらんだキャロルであったが、視界の隅で先程まで緩やかに落下していた人影が急に重力に従って落下のスピードを上げたのを捕らえ、慌ててそれを受け止めた。
二階よりも僅かに高い位の場所から急激に落下したその人影を、あわや取り落としそうになるのを必死に力をこめて支え、かろうじて両手で抱く。
その人影は、少女に見えるその人物は、空から降ってきたことと背中から生える純白の羽を除けば普通の人と変わらないように見えた。
キャロルは息をのんでその少女を見つめる。
意識はないようで、少女はぐったりとした様子でキャロルに身を任せていた。
(なんだ、これは)
キャロルは、そのようなものを見たことがなかった。
いや、実物では見たことがない、という方が正確だろうか。
特別な信仰というものを持たず、幼い頃にしか教会に足を運ぶことのなかったキャロルはホコリをかぶった記憶を呼び覚ます。
教会のステンドグラスや壁画、そしてあくびが出るほど退屈だった聖書の挿絵の中に描かれていたそれは
(天使・・・?)
余りに唐突に、なんの前触れもなく自分の腕の中に降ってきたそれに、キャロルは大きく混乱させられていた。
訳が分からなかった。
なぜこんなことが起きたのか。
なぜ今こんなことになっているのか。
果たしてこれは本当に天使なのか。
いったい自分は、この少女をどうすればいいのか。
疑問は尽きなかった。
キャロルが困り果てて少女を見つめていると、やがて、少女はゆっくりと目を開いた。
キャロルが途方にくれていたとき。
キャロルと少女に迫る影があった。
影の数は五つ。
その影たちは統率のとれた間隔を維持しながら、星の瞬く夜空を疾走していた。
空を飛んでいることを考えなければ、遠目には馬に騎乗している人々のように見えなくもない。
よく見てみればその五つの影はどれもが白を基調とした重厚な鎧に身を包んでおり、兜をかぶった顔は表情をうかがい知ることができない。
鎧には夜の闇の中でもうっすらと輝くほどに精巧な金細工が施してあり、彼らの身分の高さを想像することができた。
兜の頭頂部には真っ赤に染め上げられた、たてがみのような細い紐が太い束になって翻っており、腰に下げた剣は、鎧や兜と同様に白を基調とした鞘に金細工が施してあった。
そして、遠目には馬のように見える彼らの騎乗している生き物は、実際は馬とは大きく違った生き物である。
その体の表面は硬そうなウロコに覆われ、体色は個体ごとに様々であった。
薄い青色をしたものもいれば、くすんだ緑色をしているものもいる。
ただ、そのどれもがごつごつとした輪郭の翼をその背中からはやしていた。
首は異様に長く、空を走るようにして飛ぶ動作に連動して上下に躍動する。
僅かに開いた口からは真っ赤な長い舌がのぞき、爬虫類を思わせた。
目つきはするどく、瞳の色はどの個体も揃えたように赤い。
体の後方には長く伸びた尻尾が風に流されるようにして翻り、その生き物が凄まじい速度をもってして進んでいることを表していた。
体長は尻尾の先から頭部まで全てを合わせて7mを超えるほどであろうか。
ドラゴン、と呼ばれる生き物だった。
五頭のドラゴンは、その内の一頭を先頭にして扇状に陣形を型どり、夜の闇の中を駆ける。
その先頭のドラゴンに騎乗する騎士のように見える人物は、兜の隙間から金色の長い髪をなびかせていた。
やがて彼らは、先ほど夜空に突然現れた光の柱の根元の部分の近くへと、到達する。
キャロルは途方にくれていた。
果たして、声を掛けていいものなのだろうか。
今しがたゆっくりと目を開き、いまだキャロルに体を抱えられたまま不思議そうな視線を送ってくるその少女は、天使に見えないこともない。
幼い頃に知ったその存在は人々の空想上のものだと一笑に付していたキャロルではあったが、その頭に刷り込まれているのは、それが人など触れることすらできないような高潔な生命であるということだ。
もしもこの少女が本当に天使であるならばだが、恐れ多くもキャロルはうつつ世の穢れを伴った身で天使を抱いているのである。
即座に天罰が下っても良さそうなものだった。
その考えが頭にあるからこそ、では声をかけるのはどうなのだろう、とキャロルは戸惑う。
口を聞こうものなら、その途端にこの天使が穢れに犯されてしまうかもしれないのだ。
自分に天罰が下るくらいなら大して恐れを感じないキャロルであったが、無垢な表情を浮かべて自分をみつめるその少女の身になにかを起こしてしまうのは、申し訳ないような気がした。
「貴女は、どなたですか?」
少女が、口を開く。
キャロルは大きく目をみはった。
人の言葉を喋った。
その瞬間まで考えてもいなかったことだが、なんとなく、自分には理解のできない言葉を扱うような存在として無意識に認識していたのだ。
常識の範疇をはるかに超える登場の仕方と外見をし、今抱かれているその少女が、自分の理解できる存在であるはずがないと、知らず知らずのうちにそう思っていた。
だから、人の言葉を喋る少女に驚いたのだ。
キャロルは咄嗟のことに、言葉につまる。
外見通りか細い声だとか、丁寧な言葉遣いだとか、どうでもいい事ばかりが頭に浮かぶ。
正直、少女が口にした言葉をそっくりそのまま返したいキャロルであった。「アンタこそだれなんだ?」と。
口を開かないキャロルを、少女は相も変わらず不思議そうな顔をして見上げている。
しばしその表情を呆然と見つめていたキャロルであったが、やがて我に帰ると慌てて口を開いた。
「私はキャロルっていう。護衛や厄介事専門の、放浪者だ」
「・・・キャロル様」
少女がキャロルの言葉を受けて、キャロルの名前を確かめるように呟く。
様付けなどで呼ばれたことのないキャロルは、なれない感覚になんだか居心地が悪かった。
「あんた、名前は?」
かろうじて、キャロルは聞くことができた。
少女が静かに顔をあげて、外していた視線を再びキャロルへと向ける。
美しい顔立ちだった。
肌は陶磁器のように白く、長く伸びた髪は銀色に輝いている。
まるで作り物のようだと、キャロルは感じた。
「・・・下ろしていただいても、よろしいですか?」
少女がそう言う。
キャロルはそれを聞いて慌てて抱き上げていた少女を慎重に地面へと下ろした。
「立てるか?」
ええ、と少女が頷く。
そう言われ、キャロルは少女の肩を支えていた手をゆっくりと離すと、少女は案外しっかりとした様子でたち、おもむろにキャロルに丁寧に頭を下げる。
キャロルは少女の行動が何を意味するものなのか、すぐには理解ができずに困惑した。
「キャロル様が受け止めてくださったのですね、ありがとうございます」
少女はそういってから顔を上げる。
空から落ちてきた自分を受け止めてくれた礼を言っているのだと理解するのに、キャロルは数瞬を要した。
なんと言って返したらいいのか分からずに困った表情を浮かべるキャロルに、その少女は柔らかく微笑んだ。
「私、ベルと言います」
少女が自分の名を名乗る。
「私、間抜けなので足を滑らせてしまって・・・落ちてしまったんです。受け止めていただかなければ危ないところでした」
足を滑らせたって、どこで?
落ちたって、どこから?
そもそもあんた、人間なのか?
次々と頭に質問が浮かんだが、浮かびすぎてそのどれもが咄嗟に口から出てこなかったキャロルは黙って頷いた。
「・・・アンタ、怪我はしてないのか?」
考えた割に、大したことも聞けない自分にキャロルは思わず舌打ちしそうになる。
ええ、と少女は再び微笑んだ。
筆舌に尽くしがたい美しさとは、こういうものを言うのだろうかとキャロルが感じるのに、十分な微笑みであった。
「キャロル様のお陰です。本当にありがとうございました」
そう言ってまた少女が深々と頭を下げる。
それに伴って目の前にひょっこりと顔を出した少女の背中についている翼をみて、キャロルがいよいよ何を聞いたらいいかわからなくなった、その時であった。
バサ
と、翼をはためかせるような音がキャロルの耳に届いた。
キャロルは、はっ、とその音の方向へと顔を向ける。
ベルと名乗ったその少女も音に気がついたようで、キャロルと同じようにそちらに顔を向けていた。
バサ
バサ
暗い夜空に、五つの影が浮かんでいた。
その影は、どうやらこちらを目指して一直線に進んできている。
―――――――――あれは
ベルが降ってきた時とは対照的に、五つの影はあっという間にその姿を大きくしていく。
白を基調として金細工を全身に散りばめた鎧に
希少なドラゴンを愛騎として駆るその影は
―――――――――グリッツの・・・聖騎士団の奴ら・・・ドラゴンライダーか
ドラゴンを愛騎とし、空を駆け、一騎の力が通常の歩兵の100人分にも及ぶと言われているドラゴンライダーたちが、5騎、キャロル達の頭上までやってきていた。
―――――――――国境警備中か?
キャロルは、こちらに迫ってきた時とは違ってゆっくりと高度を下げてくるドラゴンライダーたちを見て考えを巡らせた。
そもそも、ドラゴンライダー達は戦場において圧倒的な機動力と、ドラゴンの強靭さを利用して強襲をかける戦法を得意とする戦士たちであった。
しかし、平時においてはその機動力を活かして街や国境の巡回を行うことも珍しくはない。
ただ、プライドの高い彼らにとってそのような仕事はあまりお気に召さないらしく、行く先々で問題を起こしたり、仕事を怠けたりと悪い噂が絶えることがなかった。
キャロルは警戒心を高める。
災難続きの今回の仕事の次に待っていたのが、天使とドラゴンライダーだ。
何か悪いことが起きてもおかしくはない、そんな奇怪な状況にキャロルは巻き込まれていた。
ドラゴンたちが完全に地上に降りたった。
それに合わせてドラゴンライダー達が一斉にドラゴンの背から地面へと降りてくる。
静かな夜だったのに、ガチャガチャと響く鎧の音がさっきまでの世界を変えてしまったようでひどく不快だった。
「グリッツ聖騎士団のフローラよ」
ドラゴンライダーの中で、一際ゴテゴテとした悪趣味な装飾を施した剣を腰に下げた女が、キャロルに近づきながらそう名乗った。
こいつが、リーダー格なのだろうか。
その女は歩きながら兜を取る。
美しい金色の髪が宙に舞った。
キャロルは内心で僅かに驚いていた。
その外見は意外な程に若い。
20に届いているかすらも疑わしい、いまだあどけなさすら残すような顔立ちであった。
「キャロルだ」
キャロルも相手に名乗りながら、チラと自分の背後に目線を送った。不思議そうな顔をするベルに、姿を出すなと目で訴えた。
ドラゴンライダー達が視界に入った瞬間から、キャロルはその背中にベルの姿を隠していた。
「後ろのは、ベル」
「よろしく、キャロル、ベル」
フローラと名乗った若い女はキャロルの目の前に達すると、キャロルに頷きながら片手を差し出す。
傲岸不遜の輩が多い聖騎士団のドラゴンライダーのくせに、珍しく話が分かりそうなやつだとキャロルは驚いた。
今までも何回か聖騎士団の騎士たちと話す機会があったキャロルだったが、その誰もがキャロルに握手を求めるようなことは一度たりともなかった。
「私たち、今国境警備の任を負っているの、ここで何をしているのか聞かせてもらってもいいかしら?」
やはり、国境警備の最中のドラゴンライダー達であった。
予想通りではあったが、しかし、そう聞かれてキャロルは僅かに言葉につまる。
どう説明すればいいのだろう。
天使のような少女が空から降ってきたから、今しがた受け止めてみたなどと。
果たして、このドラゴンライダー達は信じてくれるのだろうか?
キャロルが言葉につまる様子に、フローラは僅かに眉をひそめた。
しかしそれでも、フローラは態度を変えることなく、キャロルに質問を続けた。
「さっき、ここら辺に巨大な光の柱が立つのを見て私たちは・・・」
「―――――――――あの」
あ、バカ・・・
「私、足を滑らせて落ちてしまったので・・・」
やめろバカ
「危ないところをキャロル様に助けていただいたところで・・・」
ベルが、恐るおそるといった様子で背後から顔をだす気配を感じた。
キャロルは、目の前のフローラを見つめていた。
フローラの表情が、寸刻前とは一変し驚愕の様相を呈していく様子が目に飛び込んでくる。
フローラ以外のドラゴンライダー達も、それまでの沈黙を破って息を飲む様子が伝わってきた。
「それで・・・その・・・」
ベルの背中には、うっすらと光り輝く羽が揺らいでいた。
ベルが完全に、キャロルの背後から姿を現す。
それと同時に
ドラゴンライダー達は一斉に跪いた。
「・・・え?」
ベルが困惑した声を上げる。
「あの・・・?」
キャロルはドラゴンライダー達の様子を覗う。
彼らが一体、どのような行動にでるのかがよくわからなかった。
ただなんとなく、キャロルはその胸にザワザワとした不安を感じていたのだった。
僅かな時間、その場を静寂が包む。
緊張感を増すキャロルにとっては、その時間が異様に長く感じられた。
「ベル様・・・と申されましたか?」
フローラという女騎士が、それまでの気軽な雰囲気を一変させ、重々しく口を開く。
頭をたれたままだった。
「え・・・?は、はい」
ベルがおどおどとした調子でそれに答えた。
「その背中の翼は・・・天使様とお見受けいたしますが・・・」
あぁ・・・
やめとけベルとやら
悪いことは言わんから
禄なことに・・・
「は、はい・・・その、そう・・・です・・・けど・・・」
天使は、世間知らずのお嬢様であった。
キャロルは盛大に溜息をつきたい気持ちになった。
おぉ・・・
と、騎士たちの間で感嘆したようなどよめきが起こる。
それまでフローラ以外の騎士は兜をかぶったままであったが、ベルの言葉を受けて全員が慌てたように兜を外し、跪いたままそれを脇に抱えた。
その様はまるで王を目の前にした騎士たちの姿そのものであり、尊敬と畏怖の念が彼らの全身から放たれているように見えた。
「それでは・・・先ほどの光の正体は貴女が・・・」
フローラが僅かに顔を上げてベルに尋ねる。
その顔は僅かに赤みがさし、内心の高揚が現れていた。
「光・・・?いえ、それは、わかりませんけど・・・」
ベルが戸惑った声を上げる。
あの時ベルは、やはり気を失っていたのだろう。
その光景を目の当たりにしていたキャロルにとっては「そうだよ」と代わりに答えてやりたいような気分だったが、当のベルにとっては知る由もない様子のようだった。
しかし、その様子を見てもフローラ達の態度に変化は起こらない。
「その翼・・・本物であらせられるのですね・・・」
例え光の正体がベルでなかったとしても、今目の前にいる少女の背中には、人間では決して生えることのない翼が、生命を持つものの現実感を伴って揺らいでいるのだ。
キャロルがフローラ達の立場であったとしても、同じようにその少女が天使であることを疑いなどしなかっただろう。
「あ、これは・・・その、そうです・・・けど・・・」
いよいよベルが困った顔になってキャロルの事を見上げてきた。
どうしたらいいかわからないのだろう。
キャロルは大げさに肩をすくめてみせた。
どうにもしようがない。
この騎士たちがどんな反応を見せるかわからなかったからこそ、キャロルは咄嗟に翼を生やすこの無垢な天使を隠そうとしたのだった。
勝手に姿を現されてしまったら、取り繕うこともできやしなかった。
それよりも今は、気になるのはこの後この騎士たちがどういった行動に出るのか、ということである。
先ほどであったばかりのこの天使にどうにかしてやる義理などあるはずもない状況のキャロルではあったが、しかし運の悪いことに、キャロルは比較的情に厚い性格をしていた。
だから
「ベル様、私共と一緒に、城に来てはいただけないでしょうか」
フローラが声に万感を込めながらそう言い放ったとき、キャロルは声にこそ出さなかったものの「ほらきた」と内心で辟易していた。
「・・・え?」
ベルが僅かに息を飲む。
この天使を自称する少女が、一体どういうものであるのかも、どういった事情で空から降ってきたのかもわからないキャロルにとって、実際のところどういった輩に保護されるのが万全であり最も望ましいのかなど判断のしようがない。
迷子の子猫を衛兵に届けるのとは、わけが違うのだ。
しかし、少なくとも自分はこの少女に危害を加えるつもりは毛頭なかった。
むしろ、関わってしまったからには簡単には投げ出そうなどと考えるキャロルではない。ベルが望むできる限りのことに力を尽くすことも、別に厭わない。
でも、ここでこの騎士団にベルを預けてしまった場合はどうなるのだろう。
キャロルは思い描いた。
グリッツ帝国は、帝国とは名ばかりに帝王などというものは存在しない。
いや、存在することはしていたのだが、その実権はないに等しく、ただの形骸とかしていたのだった。
その帝王に変わって、キャロルが生まれる遥か昔から権力を手中に収めてきたのは、聖騎士団の母体でもある、ヴェルゲール教の巨大宗派の一つのグリッツ国教会であった。
始まりこそ少数派の教えであったようだが、海から大地を引き上げ、その涙から人間を、翼の内の一枚の羽からドラゴンを生んだとされる唯一神ヴェルゲールを信仰の対象とし、人は信仰によってのみ救われると説く国教会は今や絶大な権力を手に入れていた。
グリッツのほとんどの民がこの宗派に属し、街のいたるところに絢爛豪華な礼拝堂が建てられている。
キャロルからみれば、自らの教えに反するように映るその礼拝堂や騎士たちの装飾も、その全ては神への賛美の表れであるらしい。
目の前の騎士たちの装備を、必要最低限の機能だけを持つものに切り詰めれば救われるであろう多くの孤児や乞食のことを思うと、キャロルにとっては反吐が出る思いだった。
その国教会に、このベルという天使が連れ去られればどういった扱いを受けるのだろうか?
想像は容易だった。
ベルは象徴として扱われるだろう。
信仰によって、天使が降臨したと宣伝され、いたるところでその姿を人民の前に引き出し、国教会こそが唯一にして絶対の宗派であると主張するための強力な切り札として振りかざされる。
隣国のダラス王国で、グリッツの国教会同様に強大な権力をもつ一大教派のダラス聖教会を排斥するための免罪符として矢面に立たされるのだ。
天使を御旗に掲げる国教会は凄まじい士気を持つことになるだろう。
相対して、聖教会は敵方につく天使の姿に恐れをなし、絶望し、その戦力を大きく減少させることとなるに違いない。
ましてやダラス聖教会は女神や女性の天使の存在を認めていない。
激しい男尊女卑の風潮が蔓延しているのだ。
聖教会は男神であるヴェルゲールが涙と翼から生命を作り出したことを、女性は異物でありイレギュラーであると解釈したのである。ヴェルゲールと同じだけの力を持つことがかなわず、自身から新しい生命を作り出すことができなくなった男性たちが、苦心の末に生み出した神の副産物が、女性である、そう聖教会は声高らかに布教していた。
あどけない少女の姿をもつベルの存在は、聖教会の教えを根底から覆すことになる可能性が大きかった。
そこまで考えて、キャロルはもうそれ以上思考をすすめるのをやめた。
想像したことが正しいかどうかなんて問題ではない。
そう、想像させてしまうような現状にある国教会自体が、キャロルにとっては大きな問題だったのだ。
自分にそんな想像を抱かせるような奴らに、この箱入り娘のような天使を放り渡してしまうのはキャロルの信条に反していた。
戦争の道具として幼い少女に見えるこの天使を利用するかもしれないと危惧を抱かせるこの国の宗教も、想像を絶する痛みに耐えて自分を産んでくれた母にすら感謝をしない隣国の宗教も、唾を吐きたくなるほどに、キャロルは毛嫌いしていた。
そういった自分の感情こそが凝り固まって、視野を狭窄させているのではないかと考えないほどにはキャロルは幼稚ではなかった。
しかし、だからといって自分を信じることができないほどにはキャロルは達観も諦観もしてはいなかった。
だから、キャロルは
「だめだ、この子は私が引き取る」
この少女を、こいつらには渡しちゃいけない、と思ったのだった。
毅然と言い放ったキャロルの言葉を聞いた騎士団の一行の雰囲気が、一瞬で変化するのをキャロルは感じた。
フローラが今まで感動を湛えていた目つきを鋭く変化させてキャロルを見つめる。
しばし、場は沈黙に包まれた。
「何を、言っているの?」
「あんた達に、この子を連れて行かせないって言ってるんだ」
ドラゴンには、軍用として用いるのに適した性能があった。
「どうしたの?キャロル。自分が何を言っているかわかってるの?」
「おい、ベル。こいつらについていきたいのかい?」
「え・・・?え、と・・・」
ドラゴンはそもそもが強靭な肉体を持ち、また知能も高いことから、騎乗する人間と心を通わせると馬よりも遥かに複雑な指示を理解することができる。
「ベル様、聞く必要はありません。この者は錯乱しているようです。一介の放浪者に、ベル様にふさわしい環境など用意できるはずがありません。危険も多くあることでしょう。その女に、貴方のような稀少な存在をお守りすることなどできはしません。」
「危険?ダラスと、いつ戦端を開こうか虎視眈々と狙っている国教会に天使がノコノコと出向いていくほうが私には危険に思えるけどね」
そして、矢が所構わず人々の頭上を行き交う戦場の空において、彼らの知能と反応速度、さらに彼らが持つ特殊な力が騎乗する人間を高い確率で守ることが、何よりも貴重なステータスとして、ドラゴンを軍用として用いる利点として、評価されていた。
「ベル様を戦争の矢面にあげるとでも言うの?そんなこと、するわけがないでしょう」
「どうだかな。あんたみたいな下っ端に言われたって、はいそうですかなんて簡単には引き下がれるわけ無いだろう?」
「黙りなさい、キャロル。今ならまだ見逃してあげてもいい。」
「見逃す?なんで見逃してもらわなきゃならないんだ?」
「あなた、頭悪いの?ここで貴方を反逆罪で切り捨てても構わないって言ってるのよ?」
口から炎を吐くのだ。
長く伸びる首を様々な方向へと変化させながら吐き出されるブレスは、襲いかかる矢をその高熱でもって一瞬で溶解させ、本来矢がもつ殺傷能力を無効化するのだった。
ドラゴン達は主や自分にめがけて一定以上の速度を持って打ち出される物体に反射的に打ち落とすように訓練され、一定以上の成功を収めるようになってから実際に任務や戦闘に用いられるようになる。
「私を、斬り捨てるだって?」
「嫌なら大人しくしていなさい。どのみち、抵抗したところで5人相手にかなうわけ無いでしょ?」
「まぁ、無理だな」
「だったら・・・」
「でも、戦わないしな」
「・・・え?」
「ベル、すまないが、私に付き合ってくれ」
そう言ってキャロルはベルを振り返った。
ベルはどうしたら良いか分からずに、先程からずっと困った表情を浮かべていたようだった。
「ちょっと・・・何を」
何をする気なの?
とフローラがキャロルに声をかけようとした瞬間。
キャロルは既に動き出している。
いつの間に手に持ったのか、振り向きざまに短槍を投げつけていた。
投げる動作と同時にベルの手を掴み、キャロルは一気に後方へと跳躍する。
キャロルが短槍を投げつけたのはフローラでも、他の騎士に対してでもない。
一行から少し離れた位置で静かに佇む、ドラゴンに向けて一直線に短槍を投げつけていたのだった。
「っ!?」
フローラがそれを視認した瞬間に自身も短槍とドラゴンを結ぶ直線上から身をよじって飛ぶ。
キャロルが短槍を投げつけたのは、フローラが騎乗するドラゴンではなかったからだ。
自分の主を危険に巻き込むことは無いドラゴンであったが、他の騎士に対しては、その本能は同様ではない。
自身に対する危険を回避するためならば、彼らは一寸もためらわずに他の命を巻き添えにする。
ゴッ
と凄まじい熱線が、今までキャロルとフローラがいた空間を駆け抜けた。
ドラゴンが自分に襲いかかる短槍に向かって反射的にブレスを吐いたのだった。
一瞬前まで森に囲まれた静かな小高い丘であるだけだったその場所は、あっという間に炎が荒れ狂う戦場と化した。
生きているままに草が燃え上がり、数十メートルも空間を引き裂いた熱線は反対側の森の木々にすらその炎を移していた。
ちょうど、騎士達とキャロルの間に炎のカーテンを引くようにして。
「くそっ!!」
紙一重で炎をかわしたフローラが地面に転がったままの体制で悪態をつく。
慌てて他の騎士たちが駆け寄ってくるが、その手を振り払うようにして体を起こしたフローラの目に映ったのは、森の中に消えていくキャロルと、そのキャロルに手を引かれるようにして走る天使の姿だった。
「何してるのよ!早く!」
フローラが騎士たちに怒鳴り声を上げると、フローラの周りに集まりかけた騎士たちは弾かれたように各々のドラゴンへと一斉に駆け出した。
倒れた身を急いで起こし、フローラも他の騎士同様に自分のドラゴンへと駆け寄る。
苛立ちを隠せない様子で兜をかぶりなおすと、「ヨーン!」とドラゴンの名を大声で叫んだ。
フローラの声に反応したドラゴンが咄嗟にその身を伏せるのを見て、フローラは勢いよくドラゴンの背中に備え付けてある鞍に飛び乗った。
フローラが手綱を掴むよりも早く、主の意思を汲み取ったドラゴンが凄まじい風圧を巻き起こしながら上空へと飛翔を始める。
あわや振り落とされそうになりながらも、バランスをとって体制を立て直したフローラはギッ、とキャロル達が消えていった森の方向へと目線を走らせた。
果たして、この深い森の中を逃げる標的を上空から見つけ出すことなどできるのだろうか?
今は、自分のドラゴンを信じるしかない。
ギリギリと歯ぎしりをしながら、フローラは手綱を振るってドラゴンに前進の意思を伝えた。