その4
濃すぎる朝の一幕から時は過ぎ、昼休み。
私は机をくっつけた友人たちと談笑しつつ――秀ちゃんとばかりいるため、もしかしてぼっちなのでは、と思われそうなので言っておくが、私にも友人くらいはいる――ゆったりと昼食を取っていた
しかし平穏な昼時も長くは続かない。
「知ってるか、山田」
また始まった、と私は購買部で買った焼きそばパンを口に咥えながら、秀ちゃんに胡乱な目を向けた。
「秀ちゃん、今お昼食べてるから後にしてよ」
昼食くらいはのんびり取りたいのに、秀ちゃんはやはりこちらの都合などお構いなく喋り出す。
「ラブコメ主人公にはラッキースケベという能力が――」
「ていうか何か変な臭いするよ。くさい」
鼻の奥がツンとする臭いが秀ちゃんの身体から漂ってくる。私は椅子に座ったまま、出来る限り秀ちゃんから身体を離す素振りをした。秀ちゃんは露骨に傷ついた顔をする。
「くさいとか言うな、傷つくだろうが。そして話を聞けよ」
「はいはい」
「そんなあからさまに投げやりな態度を取らなくても……」
聞く素振りを見せてあげたというのに、秀ちゃんは色々と面倒くさい男だった。
「ラッキースケベとは、その名の通りラッキーなスケベのことだ。偶然パイタッチしちゃったり、パンチラを目撃したり、風呂に入ろうとしたら女の子が入っているところに鉢合わせしたりと、バリエーションは豊富だ」
そういえばパンチラはすでに今朝すませてるな、とにこやかに付け足す。私の脳裏に、真っ赤な顔で逃げ去って行った女の子の顔が浮かぶ。
「秀ちゃんのデリカシーの無さはどうにかならないのかな、ほんとに」
「こんなに気のきく紳士は他にいないだろうが」
本気でそう思ってそうなところが、末恐ろしい。
「それで、一体何をしに屋上に行くの?」
無理やり昼食を中断させられた挙句、強制的に拉致られてしまった私は、屋上に行くぞ、という秀ちゃんに連れられて、別棟に向かって歩いているところだった。この高校、屋上が開放されているのが別棟の方だけなのだ。
「それは行ってからのお楽しみだ」
……まあ、間違いなく主人公がなんたらかんたら、とかそういう関連なんだろうけど。
別棟への連絡橋を渡り、屋上へと続く階段を上りはじめたのだが、そこで私はふと気付いてしまった。
「ねえ、秀ちゃん。なんかこの上から、秀ちゃんと同じにおいがするんだけど」
「俺のにおい……だと? ……山田さんのえっち」
「死ねばいいのに」
「ひどい」
泣き真似をしている馬鹿はともかく、その臭いがする階段手前まで上りきって、私はその正体にようやく気付いた。ワックスだ。床につけるやつの方の。
となると、秀ちゃんは一度ここに来て、そこで臭いが移ったのだろうか。
「あからさまにこの階段だけてかてか光ってるし。というか塗りたて……?」
そもそも、まだワックスがけをするには少しばかり気が早い時期だ。
「気が早い誰かがここの階段だけ塗りたくなったに違いない。……まあ、そんなことはどうでもいいだろ。早く屋上に行くぞ」
言うや否や、秀ちゃんは私の背中をぐいぐいと押して、ワックスまみれの階段を上るように急かす。
「ちょっと、そんなに急かすと足元があぶな――」
「うわぁあああ!!」
それは男の悲鳴だった。
「え?」
弾かれたように私は階段を見上げた。男子生徒が、階段を滑り落ちてくる。
咄嗟すぎて、受け止めようという親切心は働かなかった。私は接触寸前に、なんとか横に避けた。
しかし私の真後ろに立っていた秀ちゃんはそうもいかなかった。回避が間に合わず、そのまま滑り落ちてきた男子生徒に巻き込まれて、階段の踊り場で転倒する羽目になった。
ゴン、という身体のどこかを床に打ちつける鈍い音がした。2人は折り重なるように倒れていた。秀ちゃんは下敷きになっている。
さすがに心配になって、私は秀ちゃんの傍らに膝をつく。
「秀ちゃん、大丈夫……?」
「ぐふっ……男に押し倒された……お婿に行けない」
大丈夫そうだった。
「わ、悪い!」
男子生徒は慌てて身を起してそう言うと、走り去って行った。まるで何かに怯えるように、脱兎のごとくだ。
一瞬のことだったので、私も秀ちゃんも唖然としてそれを見送ってしまった。
「慰謝料払ってけよあの野郎。ラッキースケベどころかアンラッキースケベだろ、これじゃ。完璧な作戦にならんとは……」
「…………もしかしてこのワックス、秀ちゃんが……」
「何か言ったか、山田。主人公は都合の悪いことに対しては、途端に難聴になるという能力があるんだ」
心配した私が馬鹿だった。