その1
――好きです。
――付き合ってください。
何処か現実味の伴わない心地で聞いた告白に、私はおもむろに口を開いて、その相手にただ一言を告げた。
それはとある夏の、昼下がりの出来事。
そして全ての始まり――。
***
窓の向こうで、蝉が鳴いている。
その時の私は、蒸し暑い教室の片隅で、ぼんやりと夏を感じていた。
湿気が多くて不快な暑さだが、わずかに開いた窓から入り込む、薄手の夏服を撫でる風が心地よい。
妙に眠気を誘われるような昼下がりだった。
「聞いてくれ、山田」
昼休み終了間近に、そう言って私の席の前に仁王立ちしたのは、幼稚園から今の高校まで腐れ縁で繋がり続けている幼馴染だった。
彼の名前は徳川秀一。
大層な苗字だが、江戸幕府を開いた偉人とは何ら関係がなく、子孫というわけではない。歴史の授業になるとクラスメイトにネタにされているのはお決まりのパターンで、それが原因で秀ちゃんは中学の頃、歴史の授業が嫌いだと言ってはばからなかった。
ついでに私の名前は山田せりか。
ありきたりな山田という苗字に、あまり見かけない下の名前のギャップをよくからかわれる。親がセリカ好きだったからこんなチグハグな名前にされてしまった。キラキラネームとは常に親の趣味から生まれるものなので、仕方ないと諦めてはいるものの、もうちょっと何とかして欲しかったと思わないでもない。せめてもの救いは、苗字が豊田じゃなかったことか。
閑話休題。
「どうしたの、秀ちゃん」
「今日から俺は主人公だ」
この幼馴染が唐突なのはいつものことだった。
私は、また秀ちゃんが変なことを言いだした、と思った。
「山田は主人公がどういうものか、知っているか?」
秀ちゃんは、近くにいたクラスメイトから拝借した伊達眼鏡をかけて(何故そのクラスメイトが伊達眼鏡なんかを持ち歩いているのか不思議だが)、その手にはいつの間にやら音楽室から取ってきた指揮棒を持っていた。何でも見た目や形から入りたがる秀ちゃんは、今回は知的な解説キャラの役作りをしているらしい。
「物語の主役でしょ」
たいていは物事が起きる時、中心にいる人物のことだ。それを考えると、確かに秀ちゃんは主人公の素質があるのかもしれない。秀ちゃんの場合、自分から事を起こしているのが大半だが。
「その通り。そして主人公には物語を盛り上げるために、いくつもの"主人公補正"なるものが付加されている」
「例えば?」
「主人公が死んだら物語は終わってしまうので、どんなにピンチになっても死なない。もしくは死んでも生き返る。落ちこぼれだと思っていたら実は天才だった。父親が凄い人でその血が受け継がれてる主人公も凄い潜在能力を秘めている。周囲から弱いと思いこまれていたが実は最強だった、などなど」
そう言いながら、黒板に主人公補正一覧をカッカッと白いチョークで書いていく。周囲のクラスメイトはまた徳川が何かしてるのか、と遠巻きにその事態を見守っている。彼らも秀ちゃんの奇行にはすっかり慣れっこである。授業開始ギリギリまで昼食を堪能している人たちからは、チョークの粉飛ばさないでよね、と嫌な顔をされているが。
「たくさんあるんだね。それで秀ちゃんにはどんな主人公補正があるの?」
よくぞ聞いてくれました、とばかりに、秀ちゃんは鷹揚に頷いた。
「ラブコメ主人公補正だ」
バン! と秀ちゃんは黒板を叩いた。結構な衝撃があったのか、黒板の上に飾ってある時計がガクリと傾ぐ。
さすがのクラスメイトたちも驚いてこちらを振り返っているが、秀ちゃんは周囲の目などお構いなしに私だけを真っ直ぐ見詰めている。
心なしキラキラと輝いているように見えるその目は、先を促す声を期待しているようだった。
「……と言うと?」
「異性にモテる」
チョークまみれになった手のひらで、とん、と胸を叩いた。我が高校の男子の制服は、古来より伝わる伝統ある学ランなので、白いチョークの粉が目立つことこの上なかった。
「へー、すごいね」
「……凄くどうでもよさそうな声で、いかにも感心しました、みたいな顔しないでくれるか?」
「で?」
「え?」
「他にはどんな補正があるの?」
と、そこで何故か秀ちゃんはこほん、とひとつ咳払いをした。
「それは明日になったら、実際にお見せしよう」
なので明日は早朝から我が家の前に来るように、と約束をさせられた。
正直なところ、嫌な予感しかしなかった。