お話 3
「因幡っち!」
「永久!!」
フロアーに飛び出した俺の耳に、懐かしい声が響く。
視界を巡らせると、奥の丸テーブルに柊と慧が座っていた。手にはアルコールの入ったグラスを持っている。
ロッカールームでの出来事を振り切るように1度頭を振ると、2人に近付いた。
「お久しぶりです。柊さん、慧さん」
笑顔を浮かべたはずだったのに、慧の鋭い声が其れを散らせる。
「何があった?」
静かな声だったけれど逃れる事を許さないかのような声に、表情が凍りついた。
「おい、慧・・・」
窘めるような柊の声に、しかし慧は怯まない。
「柾は黙ってて」
ぴしりと告げられた言葉に柊は苦笑を浮かべ、そうして俺の方へ視線を投げかけた。その視線に耐えられなかった俺は、其れを床に向ける。
コンっとグラスを置く音がし、続いて慧の溜息が聞こえた。
「・・・永久、酷い顔しているよ?それじゃあ、何も無いって言う方が可笑しいや」
自分はそんなに酷い顔をしているのだろうか。そっと自分の頬に手を当てて、けれどやっぱり解らない。
ただ解っているのは、さっきの出来事が思っている以上に尾を引いているって事だけ。
「佐伯さ」
「柊に慧じゃないか!」
何かを言おうとした慧の声を遮るものがあった。
「こんばんわ、佐伯さん」
言葉を途切れさせられたのが気に入らなかったのか、慧の挨拶が少し不機嫌な物なる。柊の溜息が小さく聞こえた。その2人の表情が一瞬で変わる。
眉間に大きく刻まれた皺に不思議に思った俺は、視線を佐伯に向け、そうして再び視界が歪むのが解った。
「店長~、誰ですか~?」
佐伯の腕には、美桜がまだ絡まっていた。柊と慧の視線が俺に向けられる。
「・・・なに?どういう事?」
慧の声が戸惑いを含んでいて、そうしてどこか非難した物が含まれているような気がして胃が焼きつくようにキリキリと痛む。そうして異常なまでの痛みが襲い、目の前が真っ暗になった。
「!・・・永久!!」
「永久!!」
「?!・・・因幡っち?!」
がたん、と大きな音がしたかと思うと、3人の叫び声がした気がした。
どこかふわふわとした感覚が襲う。
身体が異常にだるくて、眉間に皺が寄る。
其れに、なんだか周りが煩くて、人の眠りを妨げるのは誰だ?!という怒りにもにた感情が湧いた。
「・・・佐伯さんがいけないんだよ!」
これは慧の声だろうか。久しく会っていなかったと思うけれど、まさか夢に見るなんてどうかしている。
「落ち着け、慧」
これは柊・・・?妙に落ち着いてしゃべる人だな、と笑いそうになった。
「飯塚くん、落ち着いて」
ん?・・・この声は如月さん?
「諒さんが悪いんだ。音羽を引っ張りまわしていたからね・・・」
申し訳なさそうな声に、逆にこっちが申し訳なく感じる。
「だからって、永久を放って置いても良いって事にはならないでしょう?!倒れる程具合が悪くなってるのに気付かないなんて、それでも永久の彼氏かよ!!・・・それにあいつ何者なんだよ!」
普段は可愛らしい話し方をする慧が言葉を荒げている。慧と初めて出会った時の事を思い出した。
「彼は 羽生 美桜くん。新人で因幡くんが教育係なんだよ」
静かな如月の声に、慧は更に声を張り上げる。
「ふざけるな!あいつ可笑しいだろ?永久が教育係だったなら、なんで永久の言う事を聞かない?!他のスタッフ締め上げて聞いたら、さんざん永久に悪態吐いたってゆうじゃないか!!」
その言葉に1番反応したのは佐伯だった。がたん、と音がしたかと思うと低い地響きのような声がする。
「・・・どういう事だ?」
しかし、それに返事をする者はいない。静寂に包まれた空間に、これは夢ではない事が知れた。
そうして思い出す。
今日、確か店に柊と慧が来たのだ。俺の顔を見た途端、慧に詰問された。何があったのか、と。
そうして佐伯と美桜の姿を思い出す。途端に言い知れない悲しみと不安が襲い、2人の姿を見て自分は倒れたのだ。
ここは何処だ?
ゆっくりと重い瞼を押し上げると、瞳に白い天井が見えた。少し首を動かすと、見覚えのある家具が見える。どうやらここは、初めてBeach Soundでバイトをした時に住んでいた部屋だと知れた。
そのまま逆方向に首を動かすと、再び佐伯の怖いまでの声が響いた。
「なんの事だ?・・・おい、瑞希!・・・なんの事だ。俺は何も聞いていない」
ぶわっと膨れ上がった佐伯の怒りが、びしびしと皮膚を突く。
「ばっかじゃねぇ~の?!そんな事も知らないで、あんた本当に店長かよ!!」
「慧!やめろ!!」
霞がかった視界が晴れ、飛び込んで来た映像に息を呑んだ。
慧の小さな身体が動いたかと思うと、慌てた柊が止める前に佐伯の頬を殴ったのだ。
まさか殴られるとは思っていなかったのだろう佐伯は呆然と慧を見る。
慧の可愛らしい顔にある大きな瞳から、ぽろりと涙が伝った。
「・・・永久は俺の親友だ。頼むから、大事にしろよ・・・」
自身の身体を掴んでいた柊を振り払うと、慧はその場を後にする。
「・・・すみません、佐伯さん。・・・でも、慧にとって因幡っちは、唯一心を許せる存在なんです。色々あったあいつにとっては本当に親友なんです」
がばりと頭を下げ、柊は慧の後を追ったのだった。
2、3言葉を交わした佐伯と如月が部屋を出て行く。静かになった部屋で、俺は漸く身体を起こした。
“親友”
慧の放った言葉に頬が熱くなる気がする。まさか自分が其処まで想われているなんて思ってもみなかったから、次に慧に会う時どんな顔をして良いのかわからない。
はーっと大きく息を吐いた時だった。
再び部屋の扉が開いたかと思うと、佐伯が姿を現す。驚いて視線を向けると、同じく驚いた佐伯の表情があった。その顔が、ほっとした物に変わる。良く見ると、左頬が赤くなっていて、慧が殴ったのはやっぱり夢ではなかったのだと知った。
「あの・・・」
「良かった・・・」
お互い同時に声を発して、そうして黙り込む。その沈黙を破ったのは佐伯だった。ふーっと1つ息を吐きベッドに近付く。そうしてあの大きな暖かい手を俺の頬に当てた。
「具合はどうだ?・・・もう大丈夫か?」
優しい声に、感情が揺れ動く。笑顔であるはずの佐伯の顔は、けれど妙に憔悴しきっている。自分がとても迷惑を掛けてしまったのだと思うと、申し訳なかった。忙しい佐伯を煩わせたくなかったのに、結局これか、と思うといたたまれない。
ふい、と視線を外して小さく謝罪の言葉を告げた。
「・・・すみませんでした・・・」
「え?」
佐伯の困惑気な声がする。きゅっと唇を一旦閉じて、深呼吸をすると逸らした視線を佐伯に向けた。
「佐伯さんが忙しいの解ってるのに、俺迷惑かけてしまって・・・」
下を向いた俺の頬に痛みが走る。むに~っと引っ張られた頬に驚いて目を上げると、びっくりするぐらい近くに佐伯の顔があった。
「いらいです、しゃえきさん」
情けない声に、それでも佐伯の顔は変わらない。どうしたら良いのか解らずに、しかたなく眉尻を下げた。
「変な顔」
ふっと口元を緩ませ手を放してくれる。まだ少し痛む頬を摩って恨みがましい視線を投げかけてみた。
ふいと視線を外し、佐伯は小さな声で言う。
「・・・悪かったな」
呟いた言葉に意味が解らなかった俺は、小首を傾げ佐伯を見た。
「佐伯さん・・・?」
待っても何も言わない佐伯に呼びかけてみる。
「だから・・・お前を1人にして悪かった!それに、辛い思いさせたみたいだし・・・」
とっても辛い表情がそこにあって、俺は急いで否定した。
「ち、違います!俺が力不足だっただけで」
突然視界が揺れる。力強い佐伯の腕が俺を包んだ。
「お前が倒れた時、心臓が止まるかと思った・・・」
肩に埋められた佐伯がくぐもった声を出す。その声が震えている気がして、胸がぎゅっと締め付けられた。
「辛い時はちゃんと辛いって言ってくれ・・・。俺が忙しいからって、何も知らされずに其れを後で他の奴から聞かされるのは辛い・・・」
あぁ、そうか。佐伯も自分と同じ気持ちだったのだと知り自然と言葉が溢れる。
「・・・俺、凄く辛くて・・・。勿論羽生くんの事もそうだけど、佐伯さんに逢えなかったのがとても辛かった・・・。彼の事を相談したかった。この間くれたメールも、本当は自分も逢いたいって送りたかったけど、仕事の邪魔になるんじゃないかと思ったら、出来なかった・・・。心配掛けて、ごめんなさい・・・」
ぎゅっと更に強く抱き締められて、そうしてそっと俺の事を離すと真剣な眼差しが向けられた。
「俺に永久を守らせてくれ・・・」
小さく呟くと、端正な顔が近付いて来てそっと口付けされた。
久しぶりの甘いそれに、一瞬でメロメロになってしまう。何時の間にか深い物に変わった口付けに翻弄され、やがてその息もあがっていく。
ゆっくりと身体を押し倒され、そうして唇を放した佐伯は小さく笑った。
「ほれ、美桜!」
目の前に美桜の不貞腐れた顔がある。その横では、まるで首根っこを掴んでいるような格好で佐伯が立っていた。
「ちゃんと永久に謝れ」
一時の住処であったあの部屋で久しぶりの逢瀬を堪能した俺に、佐伯はとても驚く話をした。
美桜の事だ。
彼は、実は佐伯の友人の弟らしい。
その容姿はとても美しく、色々な人間にちやほやされ育った為か妙に曲がった性格になってしまったらしい。曲がった、というかなんというか・・・。
つまりはとても天邪鬼らしい。
じっと顔を見詰めると、ほんのりと頬を染めぷいと顔をそむけた。思わず苦笑が零れる。
ある日、美桜は兄に連れられてBeach Soundに客として来たらしい。
そこで、どうやら・・・“俺”に一目惚れしたらしいのだ。お兄さんが、佐伯の恋人だと教えたけれど気持ちを抑える事が出来なくて、バイトに来た、と言うわけらしい。
本当に俺の事を好きなのか?と疑いたくなるあの態度は、天邪鬼が為せる技のようだった。
「えと・・・佐伯さん、もう良いですから」
苦笑を浮かべ告げると、キッと美桜が顔を上げる。その顔が急に涙に変わった。
「因幡さん・・・すみませんでした・・・」
小さな声だったけれど、しっかりと聞こえた謝罪に、俺は大きく頷いたのだった。
段ボール箱に入った衣類をひっぱり出す。
ぐるりと部屋を見回し、小さく息を吐いた。8畳の洋間には立派なベッドが備え付けられていて、その横にはデスクまである。以前の部屋とは比べ物にならない程広い部屋に驚きを隠せないでいた。
荷ほどきに悪戦苦闘していた俺の耳に部屋をノックする音が聞こえる。
「永久、一休みしないか?」
佐伯の声だ。
店で倒れた俺を、もう1人にはできない、と豪語した佐伯は同居を再度申し出たのだ。
もう、渋る理由もなくなった俺は笑顔でその申し出を受けた。
其れから1月。
今日、無事に引っ越しが終わった俺は急いで返事をし部屋を後にする。
広いリビングには引っ越しを手伝ってくれた如月、柊、慧、そして美桜の姿がある。
「永久!」
笑顔で慧が俺の腕を引き、リビングのテーブルに付かせた。
Beach Soundに来てもう直ぐ4年になろうとしている。
俺の周りには沢山の人が、俺の事を大切に見守っていてくれた。
今度は自分が見守る番だ。
目の前に広がる料理に手を合わせながら、俺は心に誓ったのだった。
end
ショートストーリーでしたが、少しでも楽しんで頂けていたら・・・
と、心から思っています。
最後に、稚拙な文章を最後まで読んで下さった方、ありがとうございました。