婚約破棄された悪役令嬢ですが、浮気の証拠を上映したら王宮がひっくり返りました。――契約違反の請求書をお送りします。
「レティシア・バーネット! 身の程知らずな悪女め、貴様との婚約をここで破棄する!」
シャンデリアが眩しく輝く卒業パーティーの広間に、王太子アルノルトの怒声が響き渡った。
彼の傍らには、いかにも庇護欲をそそる弱々しい態度で寄り添う聖女エルミナの姿がある。
静まり返る会場。
周囲の貴族たちは、私を蔑むような、あるいは哀れむような視線で一斉に見つめてきた。
(よし、言ったわね)
私は心の中で、そっと小さくガッツポーズをした。
前世の私は、地味な書類チェックばかりしていた派遣OL。
今世の私は、乙女ゲームのシナリオ通りに婚約破棄される予定の侯爵令嬢。
理不尽な相手から完璧に「違約金」をむしり取るための準備期間として、この瞬間のために十年間を捧げてきたのだ。
私は手に持っていた扇をゆっくりと閉じ、表情を一切崩さずに王太子を見つめ返した。
冷えきったイチゴのタルトの甘い匂いと、大理石の床から這い上がってくる冷気が、やけに生々しく肌に伝わってくる。
「アルノルト殿下。唐突なお言葉でございますが、その婚約破棄の宣言、確かに承りました」
私の声は、静まり返った広間に驚くほどクリアに響いた。
取り乱す様子も、涙を流す素振りもない私を見て、王太子の眉がピクリと跳ねる。
「……ふん、強がりを。自分の犯した罪の重さに、今さら恐怖で声も出ないか」
アルノルトは勝ち誇った笑みを浮かべ、胸を張った。
その隣で、聖女エルミナがわざとらしく肩を震わせ、ハンカチで目元を抑える。
「レティシア様……どうして私に、あんなひどい嫌がらせをなさったのですか。私のドレスにインクをかけたり、階段から突き落とそうとしたり……。私はただ、殿下の幼馴染としてお役に立ちたかっただけなのに……っ」
エルミナの涙交じりの声に、周囲の貴族たちから「なんて痛ましい」「やはりあの悪役令嬢は噂通り冷酷な女だ」と批評的な囁き声が漏れ始める。
ざわざわとした不快な雑音が、波のように広間に広がっていく。
最初は小さなさざ波だったそれが、徐々に確信を持った非難の嵐へと膨れ上がっていくのが分かった。
…前世の派遣OL時代、他人のミスを一方的に押し付けられ、言い訳の余地すら与えられずに首を切られたあの最悪な雨の日の午後。
「君の代わりなんていくらでもいるんだよ。書類のチェックすらまともにできない無能は、うちの会社には必要ない」と、冷酷な声を投げかけてきた上司の歪んだ顔。
あの時の、胃の奥が雑巾のように絞られるような、暗い無力感。
ただ理不尽に踏みにじられるだけだった、あの弱くて惨めだった私。
だが、今の私は違う。
ひょんなことからこの世界に転生し、自分が破滅する運命の悪役令嬢レティシアだと気づいた五歳のあの日から、私は牙を研ぎ続けてきた。
ただ泣き寝入りするためだけに、この高貴な血と前世とは比べ物にならない美しい顔と身体、そして強力な魔力を授かったわけではない。
理不尽な上司も、わがままな王族も、私の世界から徹底的に排除してやるのだ。
「エルミナ様。私があなたに嫌がらせを行ったという、客観的な証拠は存在いたしますか?」
私の問いかけに、エルミナは一瞬だけ言葉に詰まり、すぐにアルノルトの袖を引っ張った。
「そ、それは……殿下がすべて見ていてくださったわ!」
「ああ、その通りだ!」
アルノルトがエルミナをかばうように一歩前に踏み出す。
「エルミナの証言こそが何よりの証拠だ。さらに、我が近衛騎士たちも貴様がエルミナに対して陰口を叩き、罵倒しているのを聞いている。
言い逃れはできんぞ、レティシア。貴様のような性悪女は王太子妃にふさわしくない。バーネット侯爵家にも、監督不行き届きとして重い減封と、貴様の国外追放を命ずる!」
アルノルトの言葉は、まるで絶対の真実であるかのように響いた。
だが、その内容はあまりにもお粗末で、前世で契約書の法的な抜け穴ばかりチェックしていた私の目には、穴だらけのザル同然に映った。
「なるほど。口頭の証言のみ、ですね。では殿下、私がこの場で、そのすべての容疑を晴らす客観的証拠を提示してもよろしいでしょうか?」
「証拠だと? ハッ、そんなものがあるはずがなかろう…貴様の悪行は紛れもない事実なのだからな!」
アルノルトは鼻で笑った。
その表情には、一切の疑念がない。
自分が正義であり、私という悪を成敗しているのだと本気で信じ込んでいる。
そのおめでたい頭の構造に、私はため息をこらえながら、ドレスの袖口に隠していた小さな魔導具に触れた。
思えば、この魔導具を作るのには本当に苦労した。
五歳の時に転生を自覚してから、私は昼夜を問わず、バーネット侯爵家の膨大な魔導書を読み漁った。
「悪役令嬢レティシア」の破滅を回避し、かつ悠々自適なセカンドライフを送るためには、王室の権力に押し潰されないための「完璧な証拠保全技術」が必要不可欠だったからだ。
最初は魔力回路の接続ミスで小さな爆発を起こし、自室の壁を真っ黒に焦がしたこともあった。
家庭教師や侍女たちからは「おいたわしや、お嬢様は頭を強固に打たれてから、奇妙な実験ばかりされている」と憐れまれたものだ。
しかし、私は諦めなかった。前世で理不尽に追い出されたあの無力さを、二度と味わいたくはなかった。
十年間、誰にも秘密で地下の隠し工房にこもり、この世界の契約魔術の隙を突き、個人の魔力情報を正確にレコーディングするシステムを自力で完成させたのだ。
この世界は前世と違って個人情報を守る法はまだ存在していない、悪用さえしなければ自分の身を守るくらいならできる。
「では、皆様。こちらのホログラムをご覧ください」
私が魔導具に魔力を通した瞬間、広間の天井に向けて、淡い青色の光が放射された。
大広間の空間に、立体的な映像が浮かび上がる。
映し出されたのは、夜の王宮の庭園。
人気の少ない東屋のベンチで、仲睦まじく寄り添うアルノルトとエルミナの姿だった。
「なっ……なんだこれは!?」
アルノルトの顔から、血の気が一気に引いていくのが見えた。
「おい、エルミナ。例の計画だが、本当にうまくいくのだろうな?」
映像の中のアルノルトが、エルミナの腰を引き寄せながら囁く。
「ええ、アルノルト様。レティシア様が私を突き落とそうとしたという狂言誘拐の準備は完璧です。私が自分で階段から落ちて、すこし足をくじくだけで、周囲は全員彼女を犯人だと信じ込みますわ。
あんな可愛げのない氷の人形みたいな婚約者、早く廃嫡して、私を王太子妃にしてくださいね?」
「ああ、もちろんだ。あの小賢しい侯爵令嬢の顔を見るのも飽き飽きしていたところだ。バーネット侯爵家も、この機会に力を削いでおかねばな。国の予算を握る彼らの力を削げば、私の王権もより強固なものになる」
映像の中の二人は、非常に楽しそうに、そして極めて具体的に私を陥れるための冤罪計画を語り合っていた。
広間が、恐ろしいほどの沈黙に包まれ、静まり返っている。
さきほどまで私を非難していた貴族たちの視線が、今度はアルノルトとエルミナに向けて突き刺さる。
疑惑、驚愕、そして軽蔑。
群衆の視線の温度が、一瞬にして氷点下まで急降下していく。
「まさか、王太子殿下が直々に冤罪を計画されていたとは……」
「聖女様のあの涙も、すべて自作自演の演技だったのか?」
ひそひそという囁きが、今度は二人を取り囲む包囲網となって広がっていく。その非難のグラデーションは、一歩ずつ彼らを逃げ場のない崖っぷちへと追い詰めていった。
「あ、ありえないわ! こんなの、幻影魔術の捏造よ!レティシア様が私をおとしめるために、偽物の映像を作ったのですわ!」
エルミナが悲鳴のような声を上げ、狂ったように叫んだ。
「その通りだ!幻影魔術など、魔力操作に長けたバーネット家なら簡単に偽造できる! このような不敬な捏造映像、証拠になるものか!」
アルノルトもまた、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
だが、私はその見苦しい足掻きを完全に予測していた。
「いいえ、殿下。エルミナ様。この映像は幻影魔術によるものではありません」
私は淡々と、デバイスの操作パネルを空間に表示させた。
「これは、私が十年間かけて開発し、魔術ギルドの本部に特許登録した『魔力シグネチャ追跡型・証拠保全デバイス』によって記録されたものです。
この映像と音声には、発言者の固有魔力波形――つまり、偽造不可能な魔力の指紋が、一秒ごとに暗号化されて記録されています」
私は魔術ギルドの公式な認証マークと、改ざん防止の術式ログを空間に大きく引き伸ばして提示した。
「魔術ギルド総裁である大魔導士様にも、事前にこのデータの真正性を検証し、国家公認の『証拠能力あり』という鑑定書をいただいております。
現在、魔術ギルド本部にも同じログが複製データとして保管されており、外部からのいかなる魔術的干渉も受け付けません」
「な……魔術ギルドが、公認しただと……?」
アルノルトの足元が、目に見えて震え始めた。
彼の額から、大粒の汗がボタボタと大理石の床に滴り落ちる。
「さらに言えば、殿下。私と殿下との間には、王神の祭壇にて交わした『婚約の国家誓約』が存在します。この誓約には、契約魔術が組み込まれておりますね」
私は虚空から、金色の光を放つ羊皮紙の魔力写しを取り出した。
それは、私たちが十歳のときに交わした、王室とバーネット侯爵家との婚約契約書である。
この世界の「契約魔術」は、王神の名において結ばれる絶対の呪縛だ。
もし契約を違えれば、その者の魂に刻まれた誓約が牙をむく。
「契約魔術の第十二条――『双方は婚約期間中、互いに誠実であり、第三者との間に婚姻関係に準ずる不貞行為を行わないこと。また、一方的に誓約を破棄する場合は、違約としてその責任の重さに応じた代償を支払うこと』…とあります」
私はアルノルトを冷たい目で見据えた。
「殿下は、聖女エルミナ様と不貞関係にあり、かつ意図的に私を陥れるための冤罪を計画・実行されました。これは明確な『重大なる契約違反』に該当します」
「う、うるさい!私は王太子だぞ!契約など、王権をもってすれば容易に上書きできる!」
アルノルトが狂乱し、私に向かって手を伸ばそうとしたその時。
ドン、と重厚な足音が広間に響いた。
「そこまでにしていただけますかな、アルノルト殿下」
広間の入り口から現れたのは、厳格な表情を浮かべた私の父、バーネット侯爵だった。
彼の背後には、王宮の法務官たちと、契約魔術の監視役である聖魔導士たちが控えている。
「バーネット侯爵……! なぜお前がここに……!」
「娘から事前に相談を受けておりましてな。王太子殿下が我が娘に対し、契約違反および冤罪による名誉毀損を行っている疑いがある、と。法務官の皆様にも、先ほどの真正なる証拠ログをすべて確認していただきました」
父の声は低く、そして冷徹だった。
法務官の代表が一歩前に出て、アルノルトに向かって一礼する。
「アルノルト殿下。バーネット侯爵令嬢の提示した証拠は完璧であり、殿下の行為は国家誓約の重大な違反であると判断いたしました。
これにより、誓約に組み込まれていた契約魔術が自動的に発動いたします」
「な……自動発動……だと?」
アルノルトが絶望の声を上げた瞬間、彼の胸元から、禍々しい黒い魔力の霧が噴き出した。
「ぐああああああっ!?」
アルノルトはその場に崩れ落ち、胸を押さえて激しく苦しみ始めた。
これは契約魔術のペナルティだ。
魂に刻まれた誓いを破った報いとして、彼の体内の魔力回路が強制的に収縮し、魔力が急速に枯渇していく。
魔力の急激な現象に伴って、心臓の鼓動が激しく乱れ、立っていられないほどの激痛が彼を襲う。
一度このペナルティを受けると、二度と以前のような強力な魔法を使うことはできなくなると言われている。
王室の象徴としての魔力を失うことは、王位継承権の喪失――すなわち実質的な廃嫡を意味していた。
「アルノルト様! 嫌、そんな……!」
エルミナが悲鳴を上げ、這いつくばるアルノルトに駆け寄る。
だが、そのエルミナに対しても、法務官が非情な宣告を下した。
「聖女エルミナ。あなたもまた、王太子との不貞行為、および侯爵令嬢に対する冤罪の共同正犯として、重い責任を問われます。
聖女の称号は剥奪され、バーネット侯爵家に対する損害賠償金の支払いが命じられます」
「損害賠償……?そ、そんな、私にお金なんて……!」
「支払えない場合は、魔力抽出塔にて、賠償金全額に達するまで魔力供給の強制労働に従事していただきます。あそこは、一日に何度も魔力を根こそぎ奪われる、過酷な精神労働の場です。損害賠償を払えないのであれば、国のエネルギーのために役立ってください」
「いやぁああっ! そんなの嫌よ! 助けて、アルノルト様!」
エルミナは泣き叫んだが、魔力を失って苦しむアルノルトには、彼女を助ける力などもう残っていなかった。
周囲の貴族たちは、もはや二人を助けようともせず、まるで汚物を見るかのような冷ややかな視線を向けるだけだった。
「これほどの裏切りを行う王太子が、次の王になるなどあり得ない」
「自業自得だ」
冷たい嘲笑とため息が、広間のあちこちから漏れる。
私は、その様子を静かに見届けた。
前世で、理不尽に解雇された私を嘲笑っていた上司や同僚の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
あの時、私は何もできなかった。
ただ涙をこらえて、自分のデスクの荷物をまとめて立ち去るしかなかった。
だが、今の私は、自分の力で、自分の知恵で、この理不尽な運命を完全に覆したのだ。
胸の奥から、十年間張り詰めていた緊張が、温かい達成感とともに溶けていくのを感じた。
私の手は少しだけ震えていたが、それは恐怖ではなく、静かな歓喜の震えだった。
「レティシア」
父が私に向かって、優しく微笑みかけた。
「よくぞここまで耐え、完璧な証拠を揃えてくれた。王室はこの件で契約違反の違約金として、バーネット侯爵家に対して国家予算の一割に相当する賠償金の支払い、および辺境の広大な新領地の譲渡を約束した…もうお前を苦しめるものはないだろう」
「ありがとうございます、お父様」
私は深く頭を下げた。
「これで、私の念願だった『辺境での静かな研究生活』が送れますわ」
そう、実を言うと私の本当の目的は、王太子妃という面倒で息苦しい椅子に座ることではなかった。
前世のサラリーマン生活で嫌というほど競争に懲りていた私は、今世では誰にも邪魔されない安全な場所で、のんびりと趣味の魔導具開発をして暮らしたかったのだ。
そのためには、王室からの正当な婚約破棄(もちろん、莫大な手切れ金付き)がどうしても必要だった。
もちろん、聖女エルミナ全てを仕組んでいたわけではないが…最初から、この結末は私の予定通りだったのである。
「ふふ、これでやっと、うるさい社交界ともおさらばですね」
私は小さく呟き、広間の出口へと歩き出した。
背後では、衛兵たちによって引きずられていくアルノルトとエルミナの無様な泣き声が響いていたが、私にはもう関係のないことだった。
数ヶ月後。
私は、譲渡された辺境の領地にある、豊かな緑に囲まれた邸宅のテラスにいた。
テーブルの上には、淹れたてのハーブティーが心地よい香りを漂わせている。
前世では夢のまた夢だった、締め切りのない、理不尽な上司もいない、完全な自由。
澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、私は目の前に広がる美しい森を眺めた。
「レティシア様、新しい魔導具の試作品が完成いたしました」
私の専属の助手となった元魔導士の少年が、嬉しそうに新しい魔導具を持ってきた。
「ええ、見せてちょうだい。私たちの新しい『契約』の始まりね」
私はハーブティーを一口すすり、辺境の澄んだ青空を見上げながら、悪戯っぽく微笑んだ。
【完】




