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第1話 窓の向こうで、春が手招きする


プロローグ


四月の風は、記憶の匂いがする。

桜の花びらが舞い散る校庭で、僕――西村優斗は知らなかった。

今日という日が、すべての始まりになることを。


-----


## 再会


「……あれ、優斗?」


新しい教室で教科書を積み上げていた僕の手が止まった。振り返ると、そこに美咲がいる。三年ぶりの、幼なじみ。


記憶の中の”近所のガキんちょ”は、もういない。肩まで伸びた髪が陽光を吸って、ふわりと揺れる。笑うと目尻に小さな三日月ができて、胸の奥が不意に熱くなった。


「同じクラスなんだ。……よろしくね、向かいの住人さん」


そう、僕らの家は道を挟んで真正面。窓を開ければ互いの部屋が見える、そんな距離にある。


保育園の頃は、その道をよく”横断”した。泥だんごを見せに走っていって、おばさんに「車に気をつけなさい」って怒られるのがセット。運動会では手をつないで転び、膝に同じ形の絆創膏を貼った。七夕の短冊には「ゆうとくんとけっこんします」と書いて、何年も母にからかわれた。


「優斗、ネクタイ曲がってる」


美咲が近づき、僕の襟元に手を伸ばす。指先が喉もとすれすれを通って、柔らかいシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。近い。あまりに近くて、声が裏返りそうになる。


「い、今ので合ってる?」

「完璧。……顔、赤いけど?」


からかうように小首をかしげる彼女との距離に、心臓が早鐘を打つ。


その時、彼女のスマホが震えた。画面に一瞬、見知らぬ男の名前が映る。胸の奥が小さく掻かれるような感覚に、わざと視線を逸らした。


-----


## 運命という名の偶然


ホームルーム後の席替えで、僕らはまたもや隣同士になった。


「運命だね」と美咲が笑う。運命。そういう言葉は少しこそばゆいけれど、似合う気もした。


放課後、昇降口の狭い階段ですれ違う時、肩が触れた。バランスを崩した僕を美咲が支える。制服越しの体温が、予想よりもずっと暖かい。


「前もこんなことあったよね。保育園の廊下で、優斗が転んで私が泣かせたって勘違いされて」

「泣いてたのは美咲だろ。僕は強かったもん」

「はいはい、強い強い」


笑いながら並んで歩く。校門の先、まっすぐの道の向こうに僕らの”向かいの家”がある。


風が吹いて、桜の花びらが目の前に舞い降りた。拾い上げた瞬間、胸の奥で何かがコトンと音を立てる。


-----


## 記憶の断片


夢を見ていた気がする。


桜の木の下、夕暮れの風。誰かと向き合って言い争っていた。その誰かは泣きそうなのに強がっていて、唇が震えて、言葉の最後は風にさらわれた。僕は手を伸ばしたけれど、指先はわずかに届かず、花びらだけが掌に積もっていく。


胸の奥がぎゅっと縮んだ感触だけが、目覚めても残っていた。


「どうしたの?」

「いや……なんか、懐かしい匂いがしただけ」


美咲が空を見上げる。

「わかるかも。春って、胸の奥がキュッてなる匂いするよね」


横顔に見とれる。睫毛が長い。そんなの、前から知っていたっけ?


歩き始めると、向かい同士の家までの道のりは昔のまま短い。途中の自販機で、僕はミルクティー、彼女はレモンソーダを選んだ。ストローを口元に運ぶ仕草が、なぜか妙に気になって、慌てて視線を逸らした。


-----


## 別れ際の重さ


家の前に着くと、道の真ん中で足が止まる。斜め向かい合う二つの玄関。帰るべき家はそれぞれにあって、距離はほんの数歩なのに、足取りが同時に鈍った。


別れ際は昔から苦手だ。向こうの家に入ってしまえば見えなくなる。窓を開けるまで、しばらく会えない。それだけのことが、今日は少し重たい。


「じゃ、また窓越しに」

「うん。……美咲」

「なに?」

「さっきの、その、スマホの――」


言いかけて、やめた。口の中がからからに乾く。


彼女は、いたずらを思いついた子どものように目尻を上げる。

「嫉妬した?」

「べ、別に」

「ふふ。優斗って、そういう顔、昔からすぐ出る」


からかわれているのに、嫌じゃない。むしろ、どうしようもなく嬉しい。でも胸の奥のどこかで、小さな警鐘が鳴っている。それは”今”の出来事のためじゃない。もっと遠い場所から響いてくる音。


――あのときみたいに、また手を離してしまうの?


言葉にならない問いが、花びらと一緒に足元を舞う。


「ねえ、優斗」

「うん」

「もしさ――いや、なんでもない。……今のままじゃ、ちょっと後悔するかもね、って思っただけ」


唐突に落ちてきた一文が胸に刺さる。彼女は笑って玄関に駆けていった。振り返って手を振る仕草は子どもの頃と同じ。けれど、目の奥のきらめきは少し違う。


-----


## 窓越しの約束


夜。宿題を広げた机の上に、さっきのレモンの匂いがまだ残っている。


ふと視線を上げ、窓のカーテンを指二本分だけ開けた。向かいの窓も、ちょうど同じくらい開いて光が細く漏れる。影絵のように、彼女がノートをめくる動きが見える。


僕はペンを持って、メモ用紙に一言だけ書いた――「おやすみ」。


紙をカーテンの隙間に挟んで見せると、少し間があって、向こうの窓にも白い紙が現れた。そこには丸い字でこう書いてあった。


「また、あした。」


瞬間、胸の奥で古い鐘が鳴った気がした。


“また”――いつの”また”だろう。保育園の帰り道? 小学校の運動会? それとも、もっと前?


桜の木の下で言えなかった言葉の続きが、舌先まで上がってくる。僕は窓越しに、そっと口を動かした。


――今度こそ。


春の夜風が紙を揺らす。物語は、窓と窓の間で始まった。笑えるように、泣けるように、応援したくなるように。


そして、前に果たせなかった約束の続きが、ここからやっと、つながっていく。


-----


## エピローグ


四月の風は、やはり記憶の匂いがする。

けれど今夜からは、新しい記憶も混じっている。

窓の向こうで手を振る彼女の笑顔と、心の奥で響く古い鐘の音と。

春が運んできた、もう一度の物語が、静かに幕を開けた。

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