背中
誰よりも頼り甲斐のある大きな背中を見てきた。
母さんに理不尽に怒られても、高校生になり思春期を迎えた麻衣に無視されても、毎日行ってきますと背広きっちりと羽織って仕事に向かう父さん。
俺が社会人になる前は、帰りは毎日22時過ぎるし、家族サービスもそこそこで、寡黙だった父さんのことがあまり好きじゃなかった。
だが同じ立場になってようやく分かったんだ。
残業ばかりの毎日で、接待や断れない飲み会で帰るのは終電間近。
寝るのは深夜の1時を回ってからで起きるのは朝6時。
この生活がずっと繰り返されている。
俺に対して母さんたちは無視したり怒ったりしてこない。
なんなら、母さんは過剰なまでに心配してくれる。
でも父さんは違うんだ。
そう思うと心が締め付けられて、申し訳なさがヘドロのように流れ込んでくる。
今日も父さんはいつものように怒られ無視される。
その後行ってきますとひと言。
玄関に向かい、休日に自分で磨いている艶やかな革靴を履いている後ろ姿は、あのとき見ていた大きな背中ではなくて、虚栄を貼り付けた小さい背中のように見えた。
「父さん!」
「綾人、どうした?」
思わず声をかけていた。
朝の通勤ラッシュ並にピリついた雰囲気が辺りを漂っていた。
血は繋がっているはずなのに、こうやって顔を合わせると緊張してしまうのは、後ろめたさがあるからなのかもしれない。
でも今日は社会人として働き始めて、初めての給料日。
言うなら今しかない。
「あ…あのさ。今日もしよかったら、一緒にご飯食べに行かない?」
父さんの顔を真正面から見ることはできなかった。
けど空気が柔らかくなった感じがして、目だけ上にあげると優しく微笑む父さんがいた。
そんな表情は見たことがなくて、思わず目を見開いてしまった。
「そうか、綾人もそんな歳か……。父さん、今日は18時に終わる予定だから、綾人がよければ18時半に新橋のSL広場で待ち合わせでもいいか?」
「あ、うん、それで大丈夫。……店は俺が決めておくよ。」
「そうか?なら店は綾人にお願いするよ。今日の夜楽しみにしてるからな。」
「俺も楽しみにしてる!……父さん行ってらっしゃい。」
「綾人も気をつけて会社に向かうんだぞ。」
玄関扉を開けて出ていく姿は、子供の頃に見ていたあの大きい背中と同じくらいかっこよく見えた。
きっといつもより背筋が伸びていたからだろう。
「俺も頑張らなきゃな。」
視線を感じて振り向くと、麻衣が生温かい目でこっちを見ていた。
「お兄ちゃん、かっこいい。……最近お父さんに冷たくしちゃってたから助かるぅ。あ、お土産よろしくぅ。」
「おい、お前ももう少し父さんに柔らかくなれよ。」
「むーりー。あ、お兄ちゃん時間大丈夫?」
腕を指さしながら煽ってくる妹に苛立ちながら、時計を見ると7時45分を指していた。
「やっべ!!早く言えよ!お土産はないからな!」
遅刻寸前なのにいつもより心は澄んでいて、子供のように夜を心待ちにしながら、今日も会社へと向かった。