どうしようもない恋だった
あの人の一番になれないことはわかっていた。
なんで好きになっちゃったんだろう、って、あの人が誰か別の人と腕を組んで歩いているところを見るたびに思った。
あの人には婚約者がいた。
たくさんの恋人もいた。
どうしようもない人だった。
色恋に弱くて、すけべで、だらしがなくて、最低な人だった。
それでもわたしはあの人が好きだった。
あの人の顔を見るだけで胸が高鳴ったし、目が合うと息がつまったし、会話をすると、自分の心臓の音がうるさくて、ろくに声が聞きとれないくらいだった。
わたしはあの人に恋をしていた。
どうしようもないくらい大好きだった。情けないくらいに愛していた。
でも、わたしはしょせんただのメイドで、たくさんいる恋人の一人にもなれなかった。
もし、立場が違えば、わたしはあの人の恋人になれただろうか。
婚約者に、たったひとりの特別な人になれただろうか。
*
「ご結婚、おめでとうございます!」
仲人である新婦の叔父が、陽気に声をあげた。
わたしは参列者のグラスにシャンパンを注いで回りながら、それを聞く。
「さあ、みなさん、今日は無礼講です。大いに飲んで、踊って、ふたりの門出を祝してやってください!」
披露宴が始まって、もう何度目になるかわからない乾杯が交わされる。
参列者たちは呆れたように渋々と、あるいは酔いに手を震わせながら、グラスを掲げる。
もちろん、メイドであるわたしは掲げるグラスを持つことも乾杯を口にすることも許されていない。無礼講とはよく言ったものだ。貴族たちが乾杯を交わす瞬間、わたしたち平民の使用人は、恭しく頭をたれて、自分の足元に向けて祝いの言葉を発さなければならないのだから。
「おめでとうございます」
わたしは今日何度目かになるその言葉を、低い声でつぶやいた。
呪詛のように。血を吐くように。わたしは主人の結婚を祝った。
「いやあ、なんてすばらしい結婚式なんだ」
白々しい仲人の台詞に、参列者の半分は失笑し、半分はその通りだと囃し立てた。
わたしは給仕に戻り、最低な結婚式だ、と思った。
公爵家同士の、絵に描いたような政略結婚。
新郎は女好きで、新婦は男好き。夫婦そろって色狂いで、下賤な噂が絶えない、社交界の鼻つまみ者だった。
ある意味ではお似合いの二人だろう。
結婚しても、互いだけでは満足しないことなど目に見えていた。きっと彼らは互いの公認のもと、多くの愛人を抱えるだろう。仮面夫婦として、うまくやっていくことだろう。
そう考えると、わたしの心は少しだけ軽くなった。
誰もあの人の特別にはならないし、なれないのだ。
あの人はたくさんの人を愛する。そうせずにはいられない。そういう性分のもとに生まれた人だから。
つまり、例え伴侶であろうとも、あの人の特別になることはできない。
わたしはあの人の特別になれないけど、わたし以外の誰でも、それは同じなのだ。
「――――ちょっと、呼ばれてるわよ」
同輩のメイドに小突かれ、わたしははっとする。
見ると、上座の新婦がわたしに向かって手招きをしている。
わたしはすぐさま上座に向かい、目立たないようそっと、新婦に近づいた。
「ちょっと抜けるわ。手を貸してちょうだい」
「ですが……」
主役である新婦が披露宴会場を抜けていいものか、とわたしは躊躇したが、しかし参列者たちのほとんどは酩酊しているか、踊っているか、噂話に興じている。
新郎もまた、お友だちの相手に忙しいようで、新婦には見向きもしていない。
「少しくらいなら、誰も気にしないわよ」
はやくしてちょうだい、と新婦は私に手を差し出した。
あとでメイド長から叱責を受けることは確実だが、主人の命令に逆らうことはできない。
心臓に走る、刺すような痛みに耐えながら、わたしは新婦の手をとった。
*
「――――ああ、気分がいいわ」
夜風を浴びたいという新婦の要望に答え、わたしたちは屋敷の二階奥にあるテラスにやってきた。
屋敷の一階大広間で開かれる披露宴の喧騒も、ここまでは届いてこない。
静かだった。
晩秋の夜風は冷えていたが、熱気のこもる会場を出たあとでは、肌に心地よかった。
ハイヒールを脱ぎ捨て、ウエディングドレスの長い裾をたくし上げ、新婦は夜風を浴びていた。
あられもない格好だったが、わたしはそれを咎めなかった。
一介のメイドであるわたしは、例え主人がなにをしていようとも、口を出すことは許されない。
結婚式を抜け出そうとも、娼婦のように男に色目をつかおうとも、誰かの恋人や婚約者を平然と寝取ろうとも、黙って目を伏せなければならない。ときには手助けをしてやらなければならない。
メイドとは、なんて損な立場なんだろう。
わたしは彼女に命じられたら、人殺しだってしなくてはならない。
彼女のためには、なんだってしてやらなくてはならないし、どんなことも我慢しなくてはならないのだ。
そうと知っていれば、わたしはメイドになんてならなかったのに。
働き口は他にもあったのだ。宿屋の女中でも、針子でも、金や待遇にこだわらなければ、どこへだって勤めることはできた。
わたしは馬鹿だった。
なにも知らなかった。
ただ給金がいいからという理由だけで公爵家の使用人になって、身分不相応な恋をして、身勝手な主に振り回されて。
散々だ。
不毛だ。
いくら願ったって、近くにいたって、あの人の特別にはなれないのに。
恋人として抱いてもらえることすらないのに。
わたしはそれでも今日まで希望を捨てることができなかった。
あの人は使用人に手を出さない。節操はないが、同じ貴族にしか手を出さないことを、わたしは知っていた。
使用人は、平民は、あの人の対象外なのだ。
さらにそれ以前に、わたしはあの人の好みではなかった。
少なくともわたしの知る限りで、あの人はわたしのような女を相手にしたことは一度もなかった。
「あなたはどう?」
俯くわたしに対して、新婦は言った。
「すこしは気分がよくなった?」
わたしは顔をあげて彼女を見た。
美しい花嫁だった。
月明りを受けて輝く金色の髪。風に翻る純白のドレス。紅色に染まった頬。木漏れ日を思わせる、温かな眼差し。
慈愛に満ちた微笑みを浮かべる彼女は、本当にきれいだった。
男を誑かすことがなによりも好きな女とは、とても思えない。
「ずいぶん顔色が悪いようだったから、連れ出したのよ。ちょうどわたしも、一息入れたかったし」
わたしは口を開いたが、うまく言葉を紡げなかった。
「ねえ、前にも同じことがあったの、覚えてる?」
わたしは黙ったまま頷いた。
忘れるわけがなかった。
五年前、まだわたしがここに勤めて間もない頃、彼女の誕生日パーティで、わたしは体調を崩してしまった。
しかし誰にも言いだすことができず、おぼつかない足取りで給仕に回っていたところを、彼女が助けてくれたのだ。
今日と同じように、涼みたいからと言い訳をして、わたしをこのテラスまで連れ出してくれたのだ。
忘れるわけがない。
あの日から、わたしはこの人を恋しく思うようになったのだから。
「あのときのあなたは他所から連れてこられたネコみたいだったわ。緊張で強張って、わたしに対しても警戒心剥きだして」
彼女はふふ、と笑みをもらした。
わたしは全身の血が沸騰するような、雷に打たれたような心地で、動けなかった。
彼女があの日のことを覚えていてくれた。
わたしのことを思い出して、笑ってくれた。
それだけで涙が出そうになった。
嬉しくて、気がへんになりそうだった。
「あなたもすっかり、メイドが板についたわね」
彼女は笑顔を浮かべたまま、わたしから眩い満月へと、視線を移した。
「わたし、あの日に初めて彼と出会ったのよ」
その一言は、浮かれたわたしを地の底に叩き落とした。
「人のことを言えたものじゃないけど、ろくでもない男だと思ったわ。――――それがまさか、結婚することになるなんてね」
そう呟く彼女の横顔は、美しかった。
口元の笑みには、疑いようのない幸福が讃えられていた。
「浮気者同士、うまくいくといいんだけど」
くすくすと彼女は笑い声を立てた。
わたしを思い出した時とは違う、子どもっぽい、おかしくてたまらないといった響きの笑いだった。
「まあ、だめだったらそのときはそのときね」
彼女はまるで他人事のように言ったが、わたしは気づいてしまった。
彼女にとって、彼は特別なのだ、と。
「――――あなたとも今日でお別れね」
寂しくなるわ、と彼女は幸せそうな笑みを浮かべたまま言った。
「お嬢様」
私は乾いた声で言った。
「お嬢様、わたしは――――」
あなたのことが好きです。
この想いは誰にも負けません。
大好きです。愛しています。
わたしは生涯あなただけを愛しました。心移りなんて絶対にしませんでした。
それなのにあなたは、ろくでもない浮気男を選ぶのですか。
どうしてあんな男がいいのですか。
あなたもろくでもない浮気女だからですか。
わたしはそれでもかまいませんでした。
あなたがどれだけ浮気をしようとも、わたしは生涯、あなたただ一人を愛しました。
それなのに。
わたしはあなたの恋人にもなれなかった。
あなたは節操なく愛を振りまくのに、これだけあなたを想っているわたしにだけは、なにもくださらなかった。
たった二度、手を繋いだだけです。
このテラスへ向かうほんの数分、ここであなたと過ごすひとときは、わたしの人生で最も長い時間でした。
あなたは最低です。
酷い人です。
ずるい人です。
でも好きでした。
もしわたしが貴族だったら。
もしわたしが男だったら。
もしわたしがこの想いを口にしたら、あなたは応えてくれたでしょうか。
わたしを特別にしてくれたでしょうか。
わたしは、あなたに恋をしていました。
どうしようもないあなたに、どうしようもない恋をしていました。
「――――わたしはあなたが嫌いです」
あふれかえる想いを、わたしはひとつとして口にできなかった。
「あなたみたいなふしだらな人に仕えるのが、ずっと苦痛でなりませんでした」
わたしはまだ諦めきれていなかった。
どんな形でもいいから、彼女の特別になりたいと思ってしまった。
「この結婚はうまくいきません。あなたみたいな人は、絶対に幸せにはなれません」
つい数分前まで沸騰していた全身が、いまは凍りついている。
手足の感覚が無い。頭が痺れる。目だけが燃えるように熱い。
それでもわたしは、彼女を祝福することなんてできなかった。
おめでとう。幸せになってね。
そんな言葉を、彼女は今日浴びるほど受けている。
わたしはその中のひとつにはなりたくなかった。例え嫌われてもいい。彼女を傷つけてでも、彼女の中に残りたかった。
「みんな同じことを言うのね」
わたしの決死の想いを、しかし彼女は軽やかに笑い飛ばした。
「あなたで十人目よ。まったく、人生に一度の晴れ舞台だって言うのに、わたしってどれだけ嫌われているのかしら?」
くすくすと、彼女は楽しそう笑い、呆然とするわたしに手を振った。
「でもわたしはあなたのことけっこう好きだったわよ。――――それじゃあね、マリア」
彼女はわたしを置いて、披露宴に戻って行った。
遠ざかる彼女の背中に、わたしは言葉をかけることも、手を伸ばすこともできなかった。
*
本当にろくでもないのはわたしだった。
彼女はわたしの名前を知っていた。
ほんの少しでも、わたしを好きでいてくれた。
それなのにわたしはつまらない意地を張って、彼女の周りにいるつまらない人間と同じことをしてしまった。
後悔しても遅かった。
彼女はきっとわたしを忘れるだろう。
でもわたしは、きっと彼女のことをいつまでも忘れることができない。
「――――好きでした」
誰もいなくなったテラスでひとり、わたしは呟いた。
「きらいなんて、うそです。わたしはずっと、あなたのことが好きでした。お嬢様。クラリス様。わたしは――――」
あなたのしあわせを願っていますとは、それでもわたしは、言えなかった。