08.ご新規さんは常連さんの始まり 〜ミントコーヒー
お店のドアベルがチリンと鳴って、新しいお客さんが入ってきた。
「こんな近くにこんなカフェが出来てたんですね……。いつ頃オープンしたお店なんですか?」
「いらっしゃいませ。このシナモンカフェはオープンして半年ほどになります。ご来店ありがとうございます。
どうぞお好きな席におかけになってください。今お水とおしぼりをお持ちしますね」
芽衣奈の挨拶に、ご新規のお客さんは軽く頷いた。
眼鏡をかけた彼女は、モグラの異世界人のような気がする。
顔色は土気色というより土色で、クイッと眼鏡を上げる白い手は6本指だった。
――モグラは指が6本あると聞いた事がある。
芽衣奈はモグラをイラストくらいでしか見た事はないが、おそらくモグラを擬人化した時は彼女のような姿になるんじゃないかな?と感じるような容姿をしていた。ちょっと可愛い。
「半年前……?今まで気づかなかったわ。私って相当ぼんやりしてるのね。……疲れているのかしら?」
眼鏡の彼女が静かにため息をつきながら呟いた。
彼女はおそらくどこかの会社で働く事務員さんだろう。
着ている服は私服というより、制服に見える。
首元にリボンのある白いブラウス。薄いピンクのベストと、同じ素材のタイトスカート。
『事務員さん』を表すような格好だ。
三つあるテーブル席の、一番奥のテーブル席に座った彼女は、眼鏡を取ってゴシゴシとハンカチで拭き、こめかみを押さえている。
本当に疲れているように見えた。
「注文は……うーん。目がショボショボしてとても眠たいし、目が覚めるようなエスプレッソを四杯ぶんくらい頼むわ」
エスプレッソ四杯分。
1ショット = 30ccだから、4ショットあればコーヒーカップをある程度満たせるくらいの量になる。
だけどそれはカフェイン中毒まっしぐらの飲み方だ。危険しかない。
「あの……余計な申し出かもしれませんが。
もし『目が覚めるコーヒー』をご希望であれば、エスプレッソ四杯ではなく、カフェインを摂りすぎない目が覚めるようなコーヒーをお待ちしましょうか?」
芽衣奈はお客さんのリクエスト重視ではあるけれど、不穏な飲み方はできれば止めてあげたい。
飲んだ途端にカフェイン中毒で倒れてしまうお客さんを見たら、芽衣奈にとってもトラウマ案件だ。
是非とも他を提案したい。
「目が覚めるものなら何でもいいわよ。このままじゃ仕事が進まなくって、また今日も遅くまでの残業になっちゃうのよ」
「お仕事大変ですね。かしこまりました。すぐにご用意しますね。アイスの方がお勧めなんですけどいかがでしょう?」
「目が覚めるならどっちでもいいわよ」
目をショボショボさせる彼女に、これ以上話しかけるのはよくないだろう。
芽衣奈は「かしこまりました」とだけ告げて、疲れている彼女に少しでもゆっくり過ごしてもらう事にした。
「目が覚めるコーヒー」というミッションに、すでに答えは出ている。
ハッと目が覚めるコーヒー。
それはミントコーヒーだ。
清涼感のあるス――ッとした涼しさが、彼女の意識をハッキリさせてくれるに違いない。
ミントコーヒーは簡単だ。
お店で出しているアイスコーヒーに、ミントシロップを注ぐだけで完成するドリンクで、しかも美味しい。
見た目からミント感を楽しんでもらえるよう、お店の中で育てているミントをちぎって、コーヒーの上に飾った。
あっという間に出来上がる。
「お待たせしました。アイスミントコーヒーです」
「え……ミントコーヒー……?」
目をショボショボさせている彼女は、少し眠っていたようだ。起き立ちのような声で言葉を返される。
「ああ……ちょっとウトウトしちゃったわ。いけないわ。午後からまた仕事なのに……」
ゆるゆると首を振って、テーブルに置かれたグラスを手に取り、彼女はストローをさしてちゅうっとミントコーヒーを吸い上げた。
「あ。目が……覚めたわ。なんだか今日の午後は頑張れそう。このミントコーヒー、甘くてスーッとして、でもコーヒーなのが良いわね。美味しいわ。
同じものをテイクアウトしようかしら?帰る時にお願いね」
「美味しく目が覚めて良かったです。ミントコーヒー、追加でテイクアウトですね。かしこまりました。お帰りの際に準備しますね。どうぞごゆっくりお召し上がりください」
目が覚めてしまった彼女は、この後の休憩時間に眠る事もできないかもしれないが、それでもゆっくり過ごしてもらいたい。
芽衣奈は彼女の時間を邪魔しないよう、カウンターの後ろに下がって、いつでもテイクアウトのコーヒーを渡せるよう、カップとストローを用意しておいた。
「しっかり目が覚めたわ。ありがとう。また眠くなっても、このミントコーヒーがあればもう大丈夫ね。
朝も早くから開いてるのよね。これから出勤前にもこのコーヒーを頼もうかしら……」
彼女の言葉は、カフェイン摂りすぎの入り口だ。
ここはもう少し他の提案をするべきところだろう。
「あの、もし良かったら。これお店で使っているカモミールティーなんですけど、今夜寝る前に飲んでみてください」
「カモミールティー?」
帰り間際にテイクアウトのミントティーと、おまけにカモミールティーのティーバックを一つ彼女に手渡した。
「カモミールティーはりんごのような甘い香りで癒されるハーブティーです。ハチミツを入れて飲むと美味しいですよ。ノンカフェインだし、リラックス効果があるので、寝る前に飲むとよく眠れると思います。
カモミールティーはミントとも意外と相性がいいですし、お昼休憩はリラックスを兼ねてカモミールミントティーに代えてみるのもいいかもしれませんよ」
「……そうなの?ありがとう、今夜飲んでみるわ」
「午後のお仕事、頑張ってくださいね」
シナモンカフェを出ていく彼女は、来た時よりも軽い足取りだった。
翌日の朝オープンと同時に、昨日のミントコーヒーのお客様が、ドアベルをチリンと鳴らして扉を開けた。
「おはようございます。うふふ。扉の前でオープンを待っちゃったわ。昨夜はぐっすり眠れて、今朝はとても気分がいいの。きっとあなたにもらったカモミールティーが効いたのね。
仕事前のテイクアウトに、カモミールミントティーをお願いね」
「おはようございます。よく眠れたようでよかったです。ではお急ぎでしょうし、すぐにご用意しますね」
これから仕事が始まるお客さんは急ぎのはずだ。
芽衣奈は急いでテイクアウトのカモミールティーの用意を始めた。
いそいそと芽衣奈が準備をする様子を見ていた彼女が、お店の中を見回しながら声をかけた。
「ふうん。昨日は気が付かなかったけど、とても素敵な店内ね。なんだか落ち着くわ。メニューも色々あるのね。これから通っちゃいそう。
あ、私ホリーっていうの。この先の会社で事務の仕事をしてるのよ。よろしくね」
「ありがとうございます、ホリーさん。私はシナモンカフェの店主の芽衣奈といいます」
「メーナさんね」と言いながら、芽衣奈が差し出したカモミールミントティーを受け取るホリーの顔色は、土色ではなく少し日に焼けた程度の健康的な肌色だった。
どうやら昨日の土色の顔は、寝不足で顔色が悪くなっていただけのようだ。
ホリーさんはモグラの異星人ではないのかもしれない。
だけどそんな事はどうでもいい事だ。
ホリーさんは、シナモンカフェとお店の味を好んでくれる常連さんになりそうな、今日の朝一番のお客さんなのだ。




