愛は試してはいけない
ファリナには相思相愛だった婚約者がいる。
「だった」と過去形になるのには事情がある。
婚約者が一年半ほど前から特定の令嬢とはしたない距離感で接するようになり、こちらと疎遠になった事から、ファリナの気持ちが離れたのだ。
婚姻前に分かって良かった、と、ファリナは第三者にその状態を確認してもらい続け、ようやく証拠となる資料を整えた。
今はまだファリナも十六歳で婚姻可能になるまで二年もある。
最上級の婚姻は望めなくとも妥当な婚姻は可能である。
証言者となる第三者――同じ派閥で同格の家の令嬢と、その兄を伴って両親を呼び、応接室で資料を見せながら婚約破棄の要求をした。
無論両親は渋ったが、令嬢とその兄は、このまま関係を続け婚姻に至っても、愛人を寵愛しているようではファリナは蔑ろにされるだけだし、子とて愛人の子をファリナの子にするようにされるかもしれないと熱弁を振るった。
実際、最近そういう話が発覚して爵位も下げられ領地も一部没収された家がある。
王家の許可がなければ貴族家の婚姻というものは出来ない。
要するに、王家が「この家とこの家で婚姻して血を繋ぐ」ことを認めているのだ。
それを袖にするということは、王家にケチをつけるのと同じこと。
理解せず、分からずにやらかす男は割といるので、爵位の変動というものは案外こまめにある。
ともあれ。
ファリナが蔑ろにされる可能性が高いともなれば、ファリナの家がナメられたも同然であるし、何よりあちらの家と一緒に没落させられる可能性が出てくる。
父親もさすがに証拠も証人も揃っていて、広く知られている関係性だと言われてしまった上にそうなる可能性が高いとなれば渋るのをやめる他なかった。
一度二度程度ならともかく、一年半は関係が続いているとくれば……と、あちら有責での解消を申し出ると決断した。
「ああ、疲れた。お二人ともありがとう」
「いいのよ。ねえお兄様?」
「うん、僕も見てて気持ちいい人たちじゃなかったから」
話し合いの後、別室で三人はお茶をしていた。
と言っても飲み物は爽やかな梨の果汁水だが。
盛り合わせも果物で、とにかくリフレッシュしたいという気持ちが見て取れる。
ファリナは苺を摘まみ上げ、ぱくんと一口で食べる。
「……フレデリク様とはこれでようやくお別れなのよね。
気持ちがなくなってからは本当に嫌で嫌で」
「だろうね。気持ちが通じ合っていたと思ったらとんだ裏切りだもの」
「お兄様はそんなことなさってないわよねえ?」
「もちろん。紳士として有り得ないね」
呼び出した二人――アイリスとデイビスは揃ってレモンの蜂蜜漬けを食べている。
アイリスとは幼い頃から仲が良く、自然とデイビスとも仲が良い。
こう聞けば婚約関係になりそうなものだが、デイビスは六つも年上だったので候補にさえならなかったし、そもそもアイリスと遊び始めた頃にはもう婚約者がいた。
今回デイビスが協力してくれたのには、同年代の紳士クラブにさえフレデリクの悪評が充満し、次世代のやらかす家はあそこだなと嘲笑の対象になっていることが分かったからだ。
さすがに妹の親友がそんな家に嫁ぐとなるのは気まずい。
というわけでアイリス経由でファリナに話が行き、三人で結託したというわけである。
アイリスとファリナは行動範囲が微妙にかみ合わない部分があるし、デイビスは男だけの情報網というものがある。
そこを活用して一年ほどかけてじっくり不義理な行動を浮き彫りにしたわけだ。
噂だけでなく、実際に婚約者――フレデリクが別の令嬢を伴って茶会や社交の場に出ている現場を見た令嬢令息の証言は面白いほどに溜まっていった。
敵対派閥だけでなく協力関係にある派閥はもちろんのこと、同じ派閥からも彼らは目撃されている。
口付けやそれ以上の行為こそ確認出来ていないが、令嬢が腕に抱きついていたりは確認されているし、そういった現場をファリナも何度も見ている。
「私、あんな男の何がよかったのかしら。
あーぁ、婚約どうしよう」
「ファリナなら大丈夫よ、いい男はまだこの世に山ほどいるもの!」
「そうそう。証拠集めしてる間にね、何人かいたよ?ファリナほどの令嬢なら娶りたいのにって言ってる独身令息」
「そう?ならいいんだけど。さすがに行かず後家はちょっとねえ」
今度は付け合わせの小さなクッキーを手に取り、口に放り込むファリナ。
果実の味に満たされた口内をバターが満たすのを感じながら考える。
別に熱愛関係じゃなきゃイヤだなんて思わない、誠実な方がいいわ、と。
その数日後。
父は無事あちら有責という形で婚約を解消してきた。
その際、慰謝料もぶんどってきたということで、ファリナの持参金に充てられることとなった。
「かなり渋られたが不貞の証拠が役に立ったぞ、よく集めたなファリナ」
「うふふ。アイリスとデイビス様の協力あってこそですわ。
私の気持ちは落ち着いておりますので、次の婚約は探していただいて構いませんから」
「そうか。未練があったら可哀そうだと思ったが、気持ちの整理がついているなら問題ないか。
どうせあちらの醜聞は広がっているし早々に見つけて復縁の芽を摘ませてもらうとしよう」
とまあ、父たる当主は次の婚約先を見つけるため行動するつもりだった。
しかしそれに先んじてアイリスやデイビスが破談の話を広めていたおかげか、翌日には気の早い貴族家が婚約の提案の手紙を送ってきていた。
それが三日もしないうちにそれなりの量になり、それでいて良物件ばかりなものだから当主は背景に宇宙を背負った猫のような表情をする他なかった。
しかしそこは仮にも一家の当主である。
家の利害関係や派閥の背景などを調査し、二人ほどに候補を絞り、実際に顔合わせをさせた上で、同じ伯爵家のセドリックという令息を本決まりとして選んだ。
彼は穏健派に属する家で、その性格も悪くない。むしろ「なんでこれまで婚約してなかったんだ?」と疑ってしまうほど温和で誠実な人間だった。
これは調査の結果分かった話だが、絶妙に長男が体が弱く、跡取りにするしないを最近まで熟慮しており、結果、長男ではやはり無理だとなった為セドリックの花嫁を探す必要が出たというわけだ。
「そういうわけですので、長男は嫁こそ取りませんが領地で養う必要があります。
家のことに口出しするような人ではありませんが、嫌な人は嫌かなと」
「まあ。問題ありませんわ、継承問題には関係してこられないのでしょう?」
「もちろんです。継承権は僕に移譲されましたから。
僕とあなたの間に生まれた子には継承権はありますが、兄がこっそり子を作っても継承権はありませんよ」
セドリックが言うには、それでも不信感を抱かれて婚約に至らなかった話が幾つもあるそうだ。
実際、父も最初は無しの方向にしようとしたと聞いている。
それでも顔合わせにまで進んだのは父がきちんと調査をして内部事情に切り込み、不信感を払しょくできたからだ。
セドリック側としては、やはり紳士クラブや社交の場での話からファリナに瑕疵がないことは分かっていた。
それでいて親戚に当たる家から聞く評判は悪くない。
ならば一縷の望みに賭けてみるかと縁談を申し込んだというわけだ。
「ところで、読書が好きだと聞いています。
レイチェル女史の「葡萄を摘む女」などは趣味に合いますか?」
「ええ勿論!平民の女性の生き方を知るにはよい本でしたわ。
本筋とは関係ない話なども気になって、ついつい熱中してしまいました」
「僕もです。「鈴蘭の乙女」も僕は気に入っているんですよ」
と、このように二人は趣味が合った。
絵画の好みも似ていて、お茶会を早々に切り上げて二人で画集を広げてあれこれ話している間にすっかり夕方になっていた程だ。
次の逢瀬では展覧会など……と約束をして二人はその日は別れた。
ファリナはすっかりフレデリクのことなど忘却していた。
初恋は確かに彼だったが、思えば趣味は合わなかった。
フレデリクは華々しい冒険譚を好んだし、それ以外は読まなかった。
絵画も美人画のみを好み、しかしそれをファリナには見せまいとしていた。
ついでに言えば菓子の好みも絶妙にズレていたので、お茶会では交互にお互いの好みのものを出していた。
終わってみれば「どうして頑張って合わせていたのかしら?」と首を傾げてしまう。
専属メイドにそれを話すと、「恋は盲目と申しますから」と微妙な笑みを返された。
なるほど、ファリナも納得がいった。
次の恋――あるいは、親愛では、客観的に考えることもしてみよう、と、思う程度には納得がいった。
セドリックとの婚約が結ばれ、定期的に逢瀬を交わすようになり、茶会や社交の場に出るようになって二か月。
ファリナはすっかりセドリックと打ち解けていて、具体的に結婚式の話やその後の話をするようにまでなっていた。
と言っても、「結婚式後は領地と王都、どちらで暮らすか」「両親との同居に当たってどのようにするか」程度の話だが。
セドリックとしてはしばらくは王都で社交を頑張り、両親には少しだけ見守ってもらってから領地に行ってもらうのが良さそうだという予想で。
ファリナとしても、優秀な代官が居て、領地には時たま視察に行く程度で最初は進めて、跡継ぎが結婚するかどうかを区切りにして領地で本格的に暮らすのが理想的なので、意見は合った。
お互いの両親との顔合わせもよい結果だった。
セドリックは最初からファリナの両親には好意的に見られていたし、ファリナもセドリックの両親に「面倒な事情持ちなのによくぞ……!」と迎え入れてくれた。
ちなみにセドリックの兄も、病弱ながら顔合わせに参加し「僕は二人の邪魔にだけは絶対ならないから安心してくださいね」と気弱に笑んでいた。
そんな風に過ごしていたファリナは、セドリックの細かな気遣いや思いやりに心を掴まれ始めていた。
ファリナが興味がありそうな本を見つけたから、と、まだ未開拓だった作家の本を持ってきてくれたり。
些細な表情の変化から茶や菓子の好みを察知し、次にあちらの家でお茶をという時には好みに沿ってくれたり。
ドレスや髪飾りにセドリックの瞳の色を取り入れると、すぐに気付いて喜んでくれたりするのだ。
それだけでなく、週末には手紙と共に一輪の花を届けてくれる。
手紙の内容はそれなりに会う頻度が高いから長くはないが、ファリナへの仄かな親愛の情に満ちている。
例えば、この間は少し顔色が悪かった。読書で夜更かしをしているのならたくさん寝て昼間にたくさん読書をして欲しいだとか。その時の花はラベンダーだった。
ついつい菓子を食べ過ぎてしまったと落ち込んでいたけれど、自分はもう少しふっくらしても好きな自信があるので、美味しく菓子を食べて欲しいだとか。その時の花は薔薇だった。
実際、ファリナは少しやせ型である。
しかし着ぶくれするように思えて常に痩身を考えているのだが、セドリックにはやせ型なファリナがありのままに見えているらしい。
「あまり華奢だと抱きしめたら折れてしまいそうで怖くなります」
などと言われたこともある。
ファリナはこの感情を恋だと思っている。
激しいドキドキはない。
じーん……と染み入るような「好き」なのだ。
しかしそれだっていいじゃないと思っている。
ふとした瞬間に「ああ、この人のことが好きだわ」と思える。
好きで好きでたまらなくて衝動がこらえきれないのもまた恋なのだろうが、ファリナは今が気に入っている。
なので、かつての婚約者のことなど忘れていたのだ。
本当に、すっかりと。
ある日、ファリナは同年代の令嬢令息の集まるガーデンパーティーに呼ばれた。
となればセドリックとの参加となるのは必然で、二人は予定を合わせて揃いに見える意匠のイヤリングをあつらえた。
それを身に着け、普段通りに適切な距離感でパーティーに参加したのだが。
「なんで婚約解消なんかしたんだファリナッ!お前は僕を愛してたんじゃないのか!?」
かつての婚約者に絡まれることになったのだ。
主催となる家の令嬢は顔を真っ青にして頭を横に振っている。
つまりフレデリクは呼ばれていない。もちろん、その左腕に絡みついている令嬢も呼ばれていないのだろう。
ファリナはただただ冷めた気持ちだった。
そうして戯言ぬかすなボケがと言い返そうとしたところで、セドリックが口を開く。
「僕の婚約者を呼び捨てにしないでいただけますか?元婚約者殿」
「なっ……! ファリナは僕を愛してるんだ、元も何もない!
こいつみたいなポッと出の妥協の婚約者なんかより僕がいいだろう!?ファリナ!」
「今もなお不埒な関係にある令嬢を伴った上でそのように言える神経を疑いますね。
ファリナはあなたの不貞を知って愛想をつかしたのですよ。
見直して欲しいのならせめてその左腕の令嬢を放り捨ててからいらしては?」
ぐうの音も出ない正論に周囲もうんうん頷いている。
そもそもいい感じに楽しんでいたところへの乱入者且つ要らぬ騒動だ。
騒ぎを聞きつけた警備の人間がじわ……とフレデリクを囲い始めた。
「そもそもお聞きしたかったのですが。なぜ不貞など?」
「ファリナが僕を愛しているか試しただけに決まってるだろ!?
コイツは本気にしたみたいだけど、僕はずっとファリナが好きだった!
少しの障害があってもファリナならきっと僕を信じてくれると思ってたのに!」
イラッときたファリナは警備の人間により拘束されつつある元婚約者に嫌悪感のこもった視線を向けた。
「不貞だけでも気分が悪いのに贈り物や手紙も欠くようになり、逢瀬もなくなったのですから気持ちも離れようものですけど。
試さなければ信じられないほど私に信頼がおけなかったのならいずれ破綻しておりましたわ。
そういうわけで、私は普通に信頼を置けるセドリック様と婚姻いたします。
あなたはぜひそちらのご令嬢とお幸せに」
何事かを喚こうとしたフレデリクの口に猿轡が噛まされ、令嬢も同じようにされて連行されていく。
それを見送ってからファリナは優雅に礼をする。
「私の事情でパーティーを乱してしまいましたわ。申し訳ありません」
「よろしいのよ!あちらが悪いのですもの。あの家には苦情を送りますわ。
さ、まだ菓子もお茶も用意しておりますの。続きを楽しみましょう!」
主催の令嬢の仕切り直しにより、ガーデンパーティーはなんとか盛り上がりを取り戻して終わった。
ただし。
主催の家は筆頭侯爵家であり、令嬢は隠していたが大変お怒りだったので、当主もそれを受けてフレデリクの家には猛烈な抗議が行った。
その上で筆頭侯爵家に睨まれたものだから、この家の経営する商会からもそっぽを向かれることとなり、安価な塩の入手が難しくなった。次に、その商会と縁がある商会からも疎遠にされ、領地の農産物は売れないし、よそからの買い物も難しくなった。
弱り果てたフレデリクの家は原因であるフレデリクを跡継ぎから外し、戒律の厳しいことで知られる修道院に送った。もちろん今後そこから出られることのないよう、寄付金は弾んだ上でだ。
それでやっと経済制裁が終わったのだが、立て直しには随分かかったそうだ。
令嬢がどうなったかは誰も詳細を知らない。ただ、何某言う男爵家の令嬢が行方不明になったという噂だけが一瞬出回り、忘れられていった。
というのをファリナは知らない。
終わったことにいつまでも記憶容量を使う女ではないのだ。
セドリックとの交流の方がよほど大事だし、最近は侍女や従者がついてくるものの、セドリックの家の領地への視察を二人で行うようにもなったので忙しいのだ。
最近始めたという水車を使った紡績で出来た良質な布を売る算段もつけねばならないし、二人はてんてこまいだ。
しかし忙しい日々の中でも、セドリックとファリナは確かに信頼を積み重ね、好意を膨らませ、幸福そうにしている。
堅実な二人は、きっとこれからもお互いを裏切ることなく、お互いの幸福を願いながら生きていくのだろう。
それが己の幸福につながるのだから。
試し行動する男ってヤ~ね。って気持ちから生まれました