第五話 海の花嫁[後編⑪]
私の本質は流されやすく、優柔不断です――byナージュ
「西海の王子ヴァルシェリアの名のもとに、審判を下します――この決闘、引き分けです」
「……はい」
「ちょ、引き分けですって!?」
ナージュさんは素直に納得したけど、案の定というべきか女王は「私はまだ戦えるわ!」と立ち上がって異議を唱えた。それでもシェリーさんは「いえ、引き分けです」と頑として揺らがない。
「双方、武器を手放したうえで同時に気を失いました」
「っ!」
「何度でも言います、この決闘は引き分けです」
「っ……」
ふらりと、脱力した女王の身体が揺らぐ。けど衛兵たちの騒めきに気づくと、ハッと咳払いをして踏ん張った。ナージュさんも、手を貸そうとしてくれたウルに「ありがとう、でも大丈夫ですよ」と一言告げて自分の尾で立ち上がる。互いに互いを見つめたまま、永久にも刹那にも感じられる沈黙が流れ、見ている僕の息も詰まった。
「……ジュリナージ」
「はい」
「正直に答えて……貴方は海と陸、どちらで生きていきたいの?」
「…………」
小刻みに震える女王の手元を見下ろしていたパールホワイトの瞳が、ついで後ろにいるウルを肩越しに捉える。目が合ったウルは彼女の枷になるまいと、咄嗟に「暴れたオレが言うのもアレっすけど、姐さんの生き方は姐さんが決めてください」と毅然とした表情を作った。ただ彼らしい一途なその態度は、
「陸です」
縋るような眼差しよりもずっと強く、ナージュさんの心に響いていた。一度女王に背を向けて後方へ泳ぐと、瓦礫に突き刺さっていた大鎌を引き抜きブローチに戻す。と、シェリーさんが誘蛾灯に惹き寄せられるように、その背中に向かってフラフラと泳ぎ寄っていった……ん?
審判を下した時、彼のヴァニラの瞳はしっかり焦点が合っていたはずなのに……今は心なしか遠くを見ているような気がする。同じことを思ったのか、複雑な顔をしたシェーレさんが後を追いかけていった。
「……母s――」
「シェリーくん」
「っ、ごめん!」
凪のような静かな呼びかけが、逆に凪いでいたシェリーさんの意識にさざ波を立てた。我に返った彼は伸ばしかけていた手を慌てて引っ込め、謝りながら後ずさるも、今度は後ろにいたシェーレさんにぶつかってしまう。「ぁ、ごめ……」と振り向いた声には安堵が滲んでいたが……呆れの滲んだワインレッドの目とかち合うと、気まずそうに顔を背けていた。
「信じてもらえるかは分かりませんが、私は貴方を嫌ったことは一度もありません」
「……え?」
「シェリーくんは優しくて真っ直ぐで、本当に素敵な王子様です。ちょっと視野が狭いところもありますけど、それはこれから直していけばいいでしょう」
「っ、でも俺が……俺が母さんと重ねてお前を見てたから、嫌になったんだろ…?」
王位を退いて自由になりたいという願い以上に、自分の想いが重石になっていたから顔も見せずにいなくなったんだろと、シェリーさんは自分の口で告げる。それは彼にとって、塩にまみれた手で瘡蓋を引き剥がすようなもの。柔く幼い心からは、きっと絶えず血が流れている。でもシェリーさんは、
「ハッキリ言ってくれ!」
もう目を逸らさない。シェーレさんも、背中に寄り添う掌を放そうとしなかった。
「同じものを返せないという意味では、確かに嫌になったかもしれません」
「……同じもの?」
「息子から母へ向ける愛を受け入れられたとしても、どうしたって私には母として息子を愛することはできませんから」
一度受け入れたうえで突き放すというこの上ない裏切りをするくらいなら、最初から受け入れないほうがいい。だから傍を去ったのだと言ってナージュさんは振り返り、シェリーさんのほうへ泳ぎ寄った。
視線も言葉も交えないまま、二人はすれ違う――その刹那、ポロポロとか細い雫が水中に溶けた。シェリーさんの涙だった。彼が欲していた愛とはちょっと違うかもしれないけど、ナージュさんは確かにシェリーさんを大事に思っていた……それをちゃんと、受け取れたんだ。
「愛って、沢山あるんだな」
親愛に友愛、家族愛に恋愛、そして敬愛。愛と名のつく単語がたくさんあることは知っていたけど、実感したのはきっと今が初めてだ。
「そう、愛は一つじゃない」
「っ、ソウシ……」
「原理的には`嘘も方便`と同じだよ。一見心にもないような言動の裏に、誰よりも重く深い思いやりが隠れてることはある」
「そう、なんだ」
「本当に稀なことだけどな」
大抵は言動そのままだから、引っ掛からないようにしろよ――そう囁くソウシは、いったいどんな`愛`を僕に向けていたんだろう。
「こちら、お返しします……女王陛下」
「…………」
――このブローチは、陸へ旅立つ前に母から譲り受けた宝物なので
――娘を、私の娘をっ……返しなさいよぉおおぉおぉ!
「っ、ちょっと待って!」
覚悟を決めたようにブローチを差し出してるナージュさんと、置物のような表情でそれを受け取ろうとしている女王の間に咄嗟に割って入った僕には、分からなかった。
「シュウタロウさん?」
「……なんですの、貴方」
「いやいや`なんですの`じゃなくて……あの、勘違いだったら全然訂正してほしいんですけど、絶縁しようとしてません?」
シェリーさんの矛と同じ王族の証である大鎌を、ナージュさんは王位継承をボイコットして陸に上がった後もずっと肌身離さず身につけていた。それを今になって手放そうとしてるのは、このタイミングで`お母様`ではなく`女王陛下`と呼んだのはもしや……とそっとナージュさんを見上げれば、彼女は「鋭いですね」と苦笑まじりに嘆息する。チラッと顧みた女王も、痛みを堪え受け入れるように瞼を下ろしている。
「そんなのおかしいだろ!」
気づけば僕は遠慮の文字を敬語ごとかなぐり捨て、感情のままに怒鳴っていた。その勢いのままにポカンと目を丸くしてるナージュさんを睨みつけ、行き場を失いかけているブローチをその手ごと彼女のほうに押し返す。
「シュウタロウ、さ……」
「陸を選んだからって、なんで家族の縁まで切り捨てなくちゃならないんですか」
「……それが、王族が本当の意味で陸を選ぶということだからです。今までの私は、所詮はただの家出娘。いざという時に`海に戻る`という選択肢を取れるよう、出自という切り札を保持していた駄々っ子でしかありません」
そもそもが宙ぶらりんで、自身の生き方だの下剋上だの偉そうなことを言える立場じゃなかったと言うナージュさん。たとえ自分の中で99%生き方が決まっていたとしても、残りの1%……たった一人の拒絶が微毒の如き脅威となり、決意を鈍らせる。自分は鈍った決意を必死に丸めて固めたフリをしていただけだと。
「シュウタロウさんも見たでしょ? あの時ウルくんが止めてくれなければ、私は海に流されていました」
「…………」
「私の本質は流されやすく、優柔不断です。陛下に問われた今だって、間接的にウルくんに判断を委ねました」
「姐さん……」
こういうところも女王に向かないんですよねぇ、と聞き慣れた柔らかい口調で頬に手を添えるナージュさん。確かに、王族の血は切り離せないと海に戻ろうとしたり下剋上だと反発したりと、彼女はその時の感情で動いてばかりだけど……。
――人の大事なものを平然と見下し傷つける、貴方のような人魚になりたくなかったからです
――貴方の勝手な取捨選択、いい加減に厭き厭きしてるんです
「違う」
「え?」
「少なくとも今の貴方は、流されてなんかないはずだ」
「シュウタロウ、さん……?」
「おいシュウタロウ、これ以上姐さん困らせるようなこと言うなって!」
理解が追いつかず言葉に詰まったナージュさんを庇うように、ウルが肩を掴んでくるが、この時ばかりは容赦なく振り払った。と、それにカチンときたらしいウルが「いい加減にしろって!」と腕を鷲掴みにしてくる。
「さっきから何なんだっ、アンタ姐さんに戻ってきてほしくねぇのかよ!」
「戻ってきてほしいよ」
「じゃあなんでっ――」
「けど絶縁は望んでない。ウルだってそうだろ?」
母親を亡くしたお前なら、二人が本当に縁を切るべき母子かどうか本能で分かってるはずだと言えば、ウルもまた言葉に詰まって視線を逸らした。僕は「ごめん、酷いこと言った」と小声で謝って腕を掴んでる彼の手をそっと外すと、再びナージュさんに向き直る。
「ナージュさん」
「…………」
「貴方はただ――陸と海の両方を手に入れる覚悟が決まってないだけだ」
「っ……」
本当に欲しいものを言い当てられた時、人は年齢や種族に関係なく、一様に子供のような表情になるらしい。ナージュさんは慌てて顔を逸らしたけど、それは図星を裏付ける反応以外のなにものでもなかった。チラッと肩越しに女王を顧みれば、僕と目が合った瞬間彼女と同じようにそっぽを向く始末で、親子だなぁと微苦笑がこぼれる。
「`無欲は怠惰の基である`」
「ぇ、なんですそれ?」
「僕が生まれ育った国の名言です。欲を持たないことは現状をただ受け入れているだけで、より良いものを成し遂げるには常に高い志をもつことが大事だっていう」
「高い、志」
ピクッとナージュさんの眼差しが一瞬前向きになるも、「ですが私のはどちらかと言えば強欲、とても高い志とは……」とすぐまた後ろ向きに戻る。僕は乾いた唇を舐めるように短く息を吸って、「違いますよ」と続けた。
「誰かを傷つける強欲と、誰かに寄り添うための我儘は違います。そしてナージュさんの欲は後者だと、僕は思います」
「……私の欲が、人に寄り添うためのもの?」
「はい。だって貴方の選択肢の根底には、いつだって誰かへの思いがあった」
婚約を振り切って海を去った時は、お母さんのことを背負い続けているシェリーさんへの思い。一度海に帰ろうと決めた時は、女王に捕まりそうになってた僕らへの思い。そして陸を選んだ時はフーリガンズに残されるウルのへの思いがあったと言えば、ナージュさんは小さく息を飲んだ。
(どうしたんだろ、僕……)
どこぞの主人公みたく堂々と精神論を述べてる僕だけど、実のところその内心はクラゲみたいにフヨフヨしていて、限りなく透明に近かった。ナージュさんに伝えた言葉にこれっぽっちも嘘はないけど、なんていうか……僕の理想通りの言葉すぎるんだよな。
分厚い辞書をパラパラと捲っただけでピッタリの単語が飛び出してきて、パズルのピースみたいにパッパッて絶妙な表現の形に組み合わさっていってるみたいな……とにかく、とてもじゃないけど僕程度のお頭が考えられる言葉並びじゃないんだ。
「シュウタロウ?」
「っ、あ……」
一度違和感に気づくと、スイッチが切り替わったように口が動かなくなった。いや単語だけなら浮かぶんだけど……さっきまでみたいな人を惹きつける並べ方ができない。今口を開いたら、感情任せの駄々っ子みたいなことしか言えない。
「なぁ女王様よ」
「っ……」
スッと、陰のような静けさとさり気なさでソウシが進み出てきた。ウルの僕に対する疑問符やナージュさんの葛藤……僕の戸惑いに至るすべてを引き寄せて吸収し、自然な形で意識を女王に向けさせる。天性のカリスマ、という単語が漠然と僕の頭に浮かんだ。
「お姫様を女王公認で陸に送り出すことって、ホントにできねぇの?」