第五話 海の花嫁[後編⑧]
元凶お前じゃねぇええかぁああぁぁあ!――by終太郎
「ナージュ、さん……?」
「はぁい、ナージュですぅ」
おずおずとした僕の呼びかけに振り返ったナージュさんは、拍子抜けするほどいつも通りだった。キョトンと続く言葉をなくす僕にナージュさんはニッコリ微笑むと、表情を改めて女王に向き直る。娘に会いたいという念願が叶った女王はしかし、その衝撃ゆえに言葉も表情も呼吸もなくしていた。
「ジュリ、ナージ?」
そしてそれは、シェリーさんも同じだった。ふらりと泳ぎ寄ろうとする彼に、ナージュさんは「後ほど、ちゃんとお話します」と告げる。僕の時と違って一瞥すらしなかったが、なんとなく拒絶とは違う気がした。シェリーさんもそれを分かっているのか、「約束だぞ」と返しただけだった。
「ジュリナージ……」
「お久しぶりです、お母様」
「あなた、今までどこに……」
「陸上、正しくはフーリガンズという街で店を開いていました」
シェーレさんから聞いていらっしゃらないんですか、と純粋に小首を傾げるナージュさんを前に、女王の額にビキッと血管が浮き出る。おわっ、一瞬で驚愕が苛立ちに打ち消されたよ。
「ジュリナージ、あなた自分の立場を分かったうえで発言してるの?」
「姫の地位と許嫁の席を返上して自由の身になった、しがない一般人です」
「あんな書置き一つで返上できるわけないでしょうがぁあぁああ! 貴方いったい王族の何を学んできたの!?」
「何をと言われましても……座学の後はどうも頭痛が酷くて、お酒で鎮めていましたので」
「つまり酔っ払って何も覚えてないと? 記憶の奥底に沈めたと!?」
「いえいえ、覚えてますよ? 王は海と民を守り繁栄へと導く標、婚約はそのための儀式ですよね――だからこそ、私は退こうと決めたんです」
私は欠陥人魚ですから、とナージュさんは微笑みを浮かべたまま言い切った。なんで、なんでそんな事を言うんですか……? 衝動的に口を挟みかけた僕を、けれどもソウシが平手打ちする勢いで塞いでくる。今は黙って見ていろ、と。
「個を殺して王に徹する、私も最初はそうなろうと思っていました。民は大事ですし、海も好きですし、なによりお母様がそのように生きていましたから……でも私にはどうしても個を、名を捨てることができませんでした」
抑えなければと思えば思うほど、日に日に増していく個への欲求。こんな状態で王になっても`王としての自分を保つ`ことばかり意識して、`民と海を守ること`にまで頭が回らない。空っぽのお飾りになるくらいならいっそ自分は辞退して、より適している人に譲ったほうがいいというのがナージュさんが出した結論らしいけど、
「ふっっっっざけんなボンクラ娘がぁああぁあ!」
女王様ご立腹まっしぐらですわ……!
「なに勝手に結論出して実行してるの! そんな逃げみいたいな理由で王族辞めれるわけないでしょうが!」
「勝手にって、私ちゃんとお母様に相談しましたよ? そろそろ王権制度から民主制度に移行したほうがいいですよ~って」
「それに関しては`冗談じゃない`と一蹴しましたけど!?」
「あら、そうでしたっけ? ごめんなさい、あの時ちょっとホロ酔い気味でしたので……」
沈痛な面持ちで謝るナージュさんだったが――その手は無邪気に背中に回り、酒瓶を取り出した挙句に蓋をポンッと飛ばして、
「~~~~プッ、ハァアァ!」
いや「プッ、ハァアァ!」じゃねーよ! アンタ状況分かってる? 毒親気味だけど七年ぶりの親御さんとの再会だよ!? しかも今真面目な話してたよね!? なに当たり前の顔して酒呷ってんの!
「あ、失礼しましたお母様! ちょっと喋りすぎて喉が乾いてしまって……」
いや無理があるだろ! んなモン一気飲みしたら喉潤うどころか焼けるわ!
「お母様も一杯どうです、私が造った自信作」
そして勧めるな! もうお母様ご立腹通り越して虚無になってるよっ、現実直視したくないって白目剥いてるよ! ついでに言うとシェリーさんとシェーレさんもね! もっとついでに言うと僕のこのツッコミ、ソウシの掌に抑え込まれて一文字たりとも声に出てないんだよね!
「……ジュリナージ」
「ふぅ、ヒック……はぁ~い?」
「あなた、その髪どうしたの?」
ナージュさんのスカイブルーの髪を震える手で指差しながら、女王が「なに、その色」と繰り返す。え、髪色がどうしたんだろ? 綺麗な色だと思うけど……と、女王が貝殻の髪留めで纏めていたパールホワイトの髪を乱暴に解き、ガッと鷲掴みにした。
「私から受け継いだこの真珠の髪を、染めたというの!?」
「染めてませんよ? でも言われてみれば、いつの間にかこの色に染まってましたねぇ……でも私はこの色気に入ってるんですよ?」
なにせ私が一目惚れした一期一会の秘酒`ブルー・ダイ`と同じ色ですからぁ――うっとりと、それはもう幸せそうに酒瓶に頬擦りしながらナージュさんは言うけれど、今の話を聞いてとある仮説が頭を過ぎった僕らは全員白目になっていた。彼女のお気に入りの酒の名はブルー・ダイ。大雑把に訳すと「青く染まる」……つまりこの人の髪が染まった原因ってのは、
「酒かよぉおおぉおおぉぉお!」
この時ばかりは、黙ってろと言ったソウシも一緒にツッコんでしまった。どんだけ飲んだらその豊かな髪全部染められんだよっ、`浴びるほど`なんてレベル確実に超えてるぞ! そもそも聞いたことねーよ毛根染め尽くす酒なんて!
「このお酒との出会いが`陸でお酒に触れて生きる`という、私が本当に歩むべき道を教えてくれたんですぅ」
周りが見えていないのか、ナージュさんの人生語りは止まらない。
「一度この味を知ってしまったら、海で出回ってるお酒なんてお酒とは呼べませぇん……本当に、このお酒を譲ってくださった旅人さんには感謝してもしきれません」
「……旅人さん?」
聞き覚えのある名詞、そして見覚えのある相棒の「ビクッ」という反応。僕はさり気なく距離を取ろうとしたソウシの腕を掴みつつ、おずおずと尋ねる。「はぁい❤」と振り返ったナージュさんは、慌てふためくソウシの顔など見えていないかのように喜々として種明かしを始めた。
「十年前、このまま婚約して本当に女王になっていいのかと浜辺で悩んでいた時のことです。漆黒を纏った旅人さんが「アンタ、酒好き?」と聞いてきて、自分は飲まないから好きならやると、ブルーダイをくれたんですぅ。こんなに美味しいお酒を見返りも要求せずに譲ってくれるなんて、本当に天使のような方でしたぁ」
「…………」
「…………」
「ジー……」
「っ……(汗)×π」
「ジー…ジー……」
「っ……(汗)×∞」
「ジーーーーーー」
「……テヘッ☆」
『元凶お前じゃねぇええかぁああぁぁあ!』
なにが「テヘッ☆」だ一周回って開き直ってんじゃねぇ! 僕は脳内で叫びながらソウシの両頬を力いっぱい引っ張る。[思念伝達]のスキルを使ったのか、僕の叫びを受信したソウシはすぐさま『まてまて不可抗力だ!』と返してきた。
『まさか相手が姫さんだなんて思わなかったし! そもそも人生観と毛髪がレボリューション起こすほどのアル中になるなんてもっと思わないし!』
『それはそうだけどタイミングがタイミングすぎるだろ! ウルの告白作法の時も思ったけどお前どんだけピンポイントで影響与えてんだ! これもカンストステータスの成せる技ってか!?』
『バカ言うな! いくらカンストステータスでも男の突進速度と女の酒癖の悪さと秋の空模様だけは読めねぇよ!』
仕返しだとソウシも僕の頬っぺをニュイ~ッと引っ張ってくる。この時の僕は気づかなかったけど、傍から見れば僕らは`無言で頬を引っ張り合ってる変人`なわけで、
「な、なぁジュリナージ……」
シェリーさん達はシェリーさん達で、話を進めていた。呼びかけるだけで吃りまくりなシェリーさんに対して、「お久しぶりですぅ」と頭を下げるナージュさんには気まずさも躊躇いもない。七年という時間の差なんて、まるで感じてないみたいだった。
「げ、元気……だったんだよな?」
「はぁい、元気でした」
「だよな……ぇ、えっと俺、ずっとお前のこと捜してて…」
「存じていますよぉ――尋ねたいことは、本当にそのことですか?」
優しい目元はそのままに、少しだけ低められた声音でナージュさんが問えば、シェリーさんは泣きそうな顔で肩を揺らした。ソウシに頬を抓られたまま、僕はナージュさんと目元を押さえて俯いている女王との間で視線を行き来させる。
今この場にいる面子のなかで、親子と呼べるのは彼女たちだけだが……僕の目には、ナージュさんとシェリーさんのほうがよっぽどまともな親子に見えた。まぁ、まともな親子の記憶なんてない僕が言うのもアレだけど。
(もしかして、シェリーさんがナージュさんに重ねてた人って……)
「シェリー様」
ハッと意識を戻せば、怖気づいたように後ろへ下がっていたシェリーさんの背中をシェーレさんが支えている。大丈夫だと支えるように、或いは逃げちゃ駄目だと叱咤するように。同時に僕は、シェーレさんが彼を`ヴァルシェ`じゃなく`シェリー`と呼んでいることに気づく。
上手く助け舟出せたんだな、とソウシのほうを見やればプイッとそっぽを向かれた。けどその仕草こそが何よりの証だぞ……ところでお前は、いつまで僕の頬を抓ってるんだ? 僕とっくに手ぇ放してますけど。
「ぉ、怒ってるよな?」
関係ない人間を巻き込んで危険な目に合わせたこと、と呟くように言ってシェリーさんは俯く。根は優しい人だから、カーッとなってる時は分からなくても、時間が経つとじわじわ罪悪感が滲んでくるんだろう……人の身体を乗っ取るって方法を提案したシェーレさんも同じようで、シェリーさんの隣に並んで頭を下げている。責任は彼だけじゃなく、自分にもあると。
「……見て見ぬ振りをしていたも同然の私に、お二人を怒る資格はありませんよ」
「見て見ぬ振り……?」
「少なくとも、シュウタロウさん達が川縁で目撃したスライムはマーメイドだと確信していました。マーメイド固有の変質魔法[リクェクション]は、隠密活動時の常套手段ですからね」
陸上の方々は殆どご存知ないでしょうが、とナージュさんは付け加えて酒瓶を小さく揺らすと、「こちらこそ、母がご迷惑をお掛けしました」と丁寧に謝罪した。王族という肩書きは簡単には下ろせないという女王の言葉は、ナージュさんの中にもあったそうだ。それこそ、陸に上がるよりもずっとずっと前から。
「海のため民のため、シェリーくんのため……そんな聞こえのいい言い訳を並べて逃げた私も同罪なんです」
「ナージュさん……?」
いずれ決着をつけなければ、海に戻らなければいけない日がくると覚悟していた。だから半ば誘導する形で僕とソウシに捜査を任せ、どうしてもやっておきたい仕事だけ片付けてきたと彼女は言う。そんな……そんな全部諦めたみたいに言わないでよ。
理想論かもしれないけど、血筋に囚われずに国の代表を選ぶって考え、間違ってないって僕も思うよ。それにナージュさんが海に帰っちゃったら、フーリガンズのみんなが……ウルが悲しむよ。僕だって寂しいよ!
「……ハァ、分かってるならとりあえずいいわ」
戸惑う僕らとは裏腹に、女王は帰還の意志を見せるナージュさんを見てホッと息を吐く。この期に及んでほんっとに自分の意見曲げない人だな! めちゃくちゃ腹立つし、できることなら引き止めたいけど……衛兵に囲まれてもナージュさんは抵抗する素振りを見せない。
だったら僕らが無理やり止めても、でも止めないとこのまま会えなくなっちゃうんじゃ――とモヤモヤ悩む僕の肩をソウシがトントンと叩き、「あーって口開けて耳塞いで」と言ってきた。え、なんで?
ガァアァアアアァアァッ!
直後、馬鹿デカい咆哮が水中を爆走。崩れかけていた城壁が完全に吹っ飛び、深海の青が剥き出しになる……ソウシの言う通りにしていなかったら、間違いなく鼓膜が粉砕されていた。シェリーさんの音爆とは比べものにならない、音という名の核爆弾だった。
その証拠に無防備だった女王と衛兵たちは出血こそしてないけど、白目を剥いて痙攣している。シェリーさんとシェーレさん、ナージュさんは僕らと同じで自分で自分の耳を守っていたため、無事だったようだ。
「姐さんに手ぇ出すんじゃねぇよ」