第五話 海の花嫁[後編①]
水が苦手だったのはソウシじゃなくて……僕?――by終太郎
この世界で最も雄大と謳われし都――王都【ワールドキング】の夜は今日も鮮やかです。庶民の質素な灯りから貴族のライト、そして王族の爛々と輝くシャンデリアまで、あらゆる光が街を彩っています。
加えて大地には人の呼気が満ち渡り、寒空の下でもホコホコと温まっている模様……ですが、どうしてでしょう。私には【フーリガンズ】の街を照らすランプの火のほうが、アルコールの混じったお客様たちの呼気のほうが、温かく感じるのです。
「……はい、確かに受け取りました」
掌で受け止めていた鳩型の魔力がふんわりと空に溶けても、その内容はしかと私の胸に刻まれました。件の失踪事件は、やはり彼の仕業でした。もうとっくに忘れられたものと思っていましたが……繋がりというものは、そう簡単に切れないのですね。
「姐さーん! 領収書はコレでいいん……どうかしたんすか?」
「ええ、ちょっとね」
カジノ・ザ・マーメイドにお得意様がいらしたみたい、と掌を握り込みながら振り返れば、そこにはキョトンと、けれども不安そうに目を瞬く可愛い可愛い私のお付き人が。
「お得意様? んな客いましたか?」
「ウルくんは知らないでしょうねぇ。貴方がお店にくる前に知り合ったお客ですからぁ」
「ゲッ、今シュウタロウとソウシしか店にいないっすよ! 早く[ロードスキップ]で店に――」
「いいえ、そう焦らなくても大丈夫ですよ」
お相手は、付き合いも気もとてもとても長い方……それこそ私の想像以上に。今晩はゆっくり休んで、明朝[ロードスキップ]で帰還しましょう。
(それまで、接客応対よろしくお願いしますよ)
お若い冒険者さん。
◇◇◇◇
「ぅ、わー……」
水面に淡い陽光が重なり、ゆらゆらと波打つ。少しの暖を含んだ潮風が頬を撫で、きっちり着込んできた白黒の衣装がはためく――決闘への入口は十二時まで開門しておくとの話だったが、ギリギリに行くのは失礼だしそもそも遅起きと思われたくないため、僕らは日の出に間に合うように南の海辺にやって来た。
「こらまたド派手な」
水面には真紅の鳥居が、それはもうどっしりと構えていた。
《☠いざ、参られたし☟》
デカデカとグロテスクにデコられた、手作り感満載の看板を掲げて。字面的にヴァルシェリア王子お手製かな。てか髑髏と指の向きに悪意が漲ってませんか。迎えた人のこと地獄に落とす気満々じゃん。
「いいじゃん地獄。万歳地獄」
「いやノー万歳! カモーン天国だよ!」
「まーまー、どの道向かう先は深海一択。そこが地獄になるか天国になるかは、俺ら次第だよ」
`助けてください`に応えるんだろ――ソウシはそう言うと、水面に向けて一歩踏み出した。と、本来沈むはずの水面は当たり前のようにソウシの足を受け止める。彼に倣って一歩踏み出した僕の足も、同じように受け止めてくれた。ゼリーより固いけど石よりは柔らかい、不思議な感覚。
「[エアフリード]、かけとけよ」
「お、おう」
言われた通り[エアフリード]の魔法をかけ、改めて鳥居を見上げる。向こうに続いているのは日の出に彩られた空と、どこまでも続く海面……でも分かる。一歩踏み出せば、真紅の口をくぐった先に待つのは紛うことなき異次元。覚えていないはずの、大量に海水を飲み込んだ時のあの何とも言えない感覚を思い出してしまい、ちょっと足が竦む。
――つめたい…さむい……くるしいよ…
もしかして、水が苦手だったのはソウシじゃなくて……僕?
「大丈夫だ」
文字通りカナヅチになっていた肩にガバッと腕が回り、ポンポンと撫でられる。親が子に、或いは兄が弟にするような温かい手つきだった。たったそれだけのことで、海水を前に萎縮していた身体が嘘みたいに綻んでいく。
「ここに、清めと嘯いてお前を沈める馬鹿はいねぇよ」
「ぇ、き、清め……沈める?」
「あぁいやこっちの話」
とにかく大丈夫だからと咳払いをして、今度はバシバシッと強く叩いてくる。ちょ、痛くはないけど衝撃がすごい。
「いざ、大船に乗って海底冒険だ!」
「いや沈む! 出発早々沈没一択だろ!」
「はいレッツゴー」
ピチョン。
「……ぁ…?」
鳥居をくぐった刹那、視界が暗転し音も匂いも掻き消える。かと思いきや水面を穿つ一雫の響きとともにそれらが一度に戻り、塩辛さが鼻腔と鼓膜を突いた。ゴポッと気泡が溢れた時は焦って口を押さえたが、恐れていた息苦しさはいつまで経っても訪れず、そろりと手を放してもそれは変わらなかった。そういえば飛び込む前に[エアフリード]かけてたっけ……。
「っ、ソウシ?」
「いるよ」
ハッと振り向けば当たり前の顔をしてソウシはそこに立って、いや浮かんでいた。見渡す限り一面の暗黒色、光の届かない深海は真っ黒って本当だったんだな……あれ? 真っ黒ならソウシの姿が見え……まさか罠! 敵の幻影!?
「着眼点はいいけど今回はハズレ、俺はモノホンだよ」
「ぇ、じゃあ何で……」
ていうか、何かさっきからグゥウオォ~ンて海流が畝ってる感じがするんだけど。だんだん大きくなってる気がするんだけど! これ近づいてる? 確実に近づいてるよね!?
「終太郎、ビビってくっ付いてくるのは可愛いけど」
「ビビってるのもくっ付いてるのも本当だけど可愛くはないから!」
「潔いいんだか頑ななんだか……まぁいいや。それよりもこういう時のための補助魔法、教えたろ?」
「補助魔法……あ! アンダート・エリア!」
閃いたまでは良かったけど、声に出したのがまずかった。発声=魔法発動の呪文。意図しないままにブルーラベンダーの光が四方八方に広がってしまい、またあの時のように膨大な情報の波がくると僕は身構えた。吐き気を堪えるため、じゃなく、
(今度こそ……!)
返ってくる情報を一つとして逃がさないために。海中を漂う微生物や深海生物の動き、砂粒が転がる音、底冷えしそうな塩の匂い……違う。今欲しい情報はそれじゃない。
――[アンダート・エリア]のコツ? んー、やっぱ最初は`取捨選択`かな?
人を捜しているなら匂いや足音、その場の雰囲気を把握したいなら人の声や風の強弱といった具合に、あらかじめキーワードを決めておき、無関係な情報はひたすら右から左へ流す。それなら情報の爆輸入における混乱をある程度抑えられるだろうというマリッちさんのアドバイスに従い、とりあえず`海水の動き`に全神経を集中させる。
(なんか……大きく畝ってる?)
まるで巨大な海蛇がそこにいるみたいに海流が縦長に、いや横長にも渦を巻いてる。これじゃまるで海中ジェットコースターじゃん。
「お、御名答だ」
「へ? ぇ、ふんぎゃあぁあぁあ!?」
ぐわっと一瞬浮遊感が強くなったかと思いきや、それまで穏やかだったはずの海流が叛旗を翻したみたいに僕らを呑み込む。その突発的な畝ねりは[アンダート・エリア]で把握した畝ねりと合流し、そのままパワフル海中ジェットコースターと化してしまう……って呑気に解説してる場合じゃない!
「うわっ……!」
縦に横にグワングワンと頭が揺れる揺れる! と同時に、黒く閉ざされていた視界がパッと青く開けた。ぶっちゃけ、景色はめっちゃ綺麗だった。澄み渡った水色の世界と、群れを成して遊泳する色とりどりの深海魚。とても深海とは思えない。
「ぎゃっ、ンガ!」
前言撤回バミューダトライアングルも真っ青な危険海域だわ! 激しい海流の動きについていけない身体が右に左に上へ下へ、ついでに斜めに振り回される。死ぬ、内蔵が! 周りが水なだけにドカボコ身体を打ちつけることはなかったけど、その分反動が全部内蔵に返ってきて三半規管が揺さぶられる……せっかく対[アンダート・エリア]法見つけたのに! 結局気持ち悪さ全開なんですけど!
「お、ご丁寧に遊び相手まで用意してくれてるぜ」
「へぶぇ!?」
どうにか体勢を整えようと藻掻く僕を嘲笑うように、ソウシが浮遊しながら優雅に足を組んでいる。いや腹立つなその余裕さ! 安心もするけどさ!
「っ、うぇえ!?」
バビュンって、すんごい勢いで何かが眼前を過ぎっていった。魚だ。群れて泳いでいた深海魚の一匹が、矢みたいな鋭さで突っ切っていった……え? 魚ってあんなスピードで泳ぐっけ?
「ピシャアアァアァ!」
あんなギザッギザの牙剥き出しで大口開けて向かってくるような生物だっけ!? ピラニアのほうがまだ可愛げあるよ!?
「ま、魚は魚でも戦闘特化型の深海モンスターだから」
「早く言えってぇええぇ!」
叫んでる間にもバビュバビュ深海モンスターが突撃してくる。時には巨大ロケットのように群れて、時には個々がサブマシンガンの弾丸と化してとにかく来る来る飛んでくる――僕目掛けて。
「いやなんで僕ばっか!?」
咄嗟に[バリアモンド]を張ったはいいものの、体当たりを食らった身体はバランスを崩してひっくり返る。元に戻ろうとしてもまた体当たりされて邪魔され、遂には四方八方からガガガガッて啄かれる羽目に……言いたかないけど隣にも的あるじゃん!? 余裕顔でティーカップなんか傾けちゃってる絶好の的が! 普通あっち狙うくない!? なんで必死に身構えて必死に攻撃凌いでる僕ばっか狙うの!?
「そりゃ、俺のほうが強いからじゃね? 強者を恐れてこその弱者だし」
「僕とお前のステータスってイコールじゃなかったっけ!?」
「オーラだよオーラ。レベルが同じなら、見るからにビビってるほうを襲うだろ」
コクリと喉を鳴らして紅茶の最後の一滴を飲み干したソウシは、手首だけ器用に動かしてカップを投擲し、一匹のモンスターフィッシュの土手っ腹をぶち抜いた。戦闘に特化してるだけあって、小さな身体には意思疎通能力や理解力は備わってるらしく、モンスターフィッシュの群れは一斉にギョッと引いていく。その隙に僕は逆さまだった身体をどうにか元通りにし、犬掻きでソウシとの距離を詰めた。
「即座に[バリアモンド]を使ったのは正解だ。けど防戦一方だと今みたいにナメられるぞ」
「しょ、精進します……」
「ん、じゃあ新魔法で一斉駆除といきますか」
容赦なく眇められたソウシの双眸にビリビリと身体を震わせつつも、モンスターフィッシュは特攻兵よろしく突撃してくる――けどもう遅い。
「アビサルターミネート」
ソウシに囁かれた呪文をそのまま唱えれば、目の前のモンスターフィッシュを始めとする深海魚たちの動きがビタっと静止した。次の瞬間にはブクブクと全身から泡が吹き出し……そのまま消えてしまう。半径五メートル以内にいるレベル200以下の水系モンスターを問答無用で海の藻屑にする大技……。
「うし、これで喧しい外野は一掃できたな」
「…………」
「どうした終太郎? んなカッチンコッチンな顔して……ぁ、もしかしてビビった?」
「……ビビった」
「ダーイジョブだって! 深海モンスターって戦闘以外じゃ百害あって一利なしの役立たずだし、そのくせ水面に打ち上げられた水死体の白色泡沫みたいに知らないうちにブクブク湧いて出てくるから」
「いや例えっ、例え怖いって! なんで水死体例に挙げんの!?」
「え、水死体以外にある?」
「あるでしょっ、真夏の雑草とか部屋の埃とか指の第二関節の薄い毛とか!」
「地味、インパクト皆無。逆によく思いついたな」
「お前が言う!?」
立場も状況も半ば忘れてボケツッコミの応酬を繰り広げていると、海流が一際大きな唸り声を上げて向きを変え加速する。だいぶ流れに慣れてきたとはいえ、掴まるところもない水の中では急な方向転換についていけずまたひっくり返りそうになったが、ソウシが腕を掴んで踏み止まらせてくれた。
「第二関門へ移るぞ」