第2話 槍が導く世界(※主人公、一人称)
「拾って?」
そう言われて、「はい」とうなずくわけがない。空間の中から槍が出て来ただけでも怖いのに。それを拾うのは、どう考えても危なかった。それを拾った瞬間に死、あるいは、死に近い状態を味わうかも知れない。創作の主人公ではない僕は、その提案に「嫌だ」と脅えてしまった。「それを拾う義務はないし、そもそも『拾いたい』とも思わない。君が本当に『邪神』と言うなら。それが与える物なんて!」
受け取らない方が良いだろう。彼女が『それで良い』とは思わないだろうが、それでも「やっぱり嫌だ」と思った。現実の世界に不満は持っているが、それをすぐに「捨てたい」とは思えない。僕は否定の意思を込めて、彼女の目を見かえした。彼女の目は、僕の動揺に微笑んでいる。「と、とにかく! そんな物は、要らない! 『貴女と仲良くなりたい』とも! 僕はただ、今の生活が続けば」
良い。そう言おうとした瞬間に戸惑った。「自分は、本当にそう思っているのか?」と、無言の内にそう思ってしまったのである。僕は自分の葛藤に震えて、邪神の三叉槍をじっと見てしまった。「く、うっ」
邪神は、その声に微笑んだ。僕の事を馬鹿にしたわけではない。僕の浮かべる躊躇いを見て、それが「面白い」と思ったようだ。僕がそれに苛立った時も同じ、その反応に「クスクス」と笑っただけ。僕の反応を見て、その様子に喜んだだけだった。彼女は僕の頬に手を伸ばすと、楽しげな顔で頬の表面を撫でた。「大丈夫、怖くない。これは、貴方の運命を変える」
槍、らしい。が、それでも信じられない。たかが一本の槍で運命が変わる程、人間の人生は「甘くない」と思った。そんな物で変わるなら、とっくの昔に変わっている。こんな詰まらない、現実の世界に生きるのは。僕はそんな思いに駆られて、彼女の前からすぐに離れた。「帰って下さい、お願いします」
それを無視された。「沈黙」と言う手で、それをじっと聞き流された。顔の表情は、相変わらずニヤニヤしているのに。僕の目を見詰める瞳には、ある種の蔑みと哀れみが感じられた。僕はその瞳に対して、言いようのない怒りを覚えた。「帰れ!」
口調も、荒くなった。「帰って下さい! 僕は、邪神となんて関わりたくない。そんな槍を拾う事も! 僕は……悔しいけど、そんな物とは無縁に」
生きたいのだろうか、この退屈な世界に? 本当の自分を隠して、生きたいのだろうか? 突然の疑問に黙る。葛藤の奥に隠れた、本当の思いに震える。「これは、千載一遇のチャンスなのでは?」と言う思いに。僕は「恐怖」と「興奮」、「維持」と「挑戦」の間に立って、今までにない葛藤を覚えた。
「このチャンスを」
「うん?」
「もし、逃したら?」
「たぶん、このままでしょう。日々の生活に追われ、現実の生活に飽きる。そんな生活にずっと、追われるだけ」
僕は、その言葉に押し黙った。気持ちの葛藤が消えたわけではないが、それ以上に「嫌だ」と思ったからである。こんな生活を続けていたらきっと、この気持ちも壊れてしまうだろう。「発狂」に近い発狂を感じて、「うわぁあああ」と暴れまわるに違いない。
「自分の欲望を抑える」と言うのは、それだけ厳しい事なのだ。中途半端な思いでは、抑えられない。理性で抑えた欲望は、文字通りの爆弾なのである。僕は「それ」が壊れるのを恐れて、邪神の顔を恐る恐る見かえした。「ね、ねぇ?」
それに「クスッ」と笑う、邪神。邪神は槍の向こう側に立って、僕の目をそっと見かえした。
「なに?」
「どうして、僕に? こんな」
「気まぐれよ」
「気まぐれ?」
「そう、私の気まぐれ。貴方の欲望に惹かれた、私の。私は学校の中で見つけた貴方、貴方は私に気付いていなかったけどね? その欲望に心を惹かれたの。貴方が抱える葛藤と一緒に。私は、貴方の欲望を満たす事で」
「何らかの利益を受ける。それこそ、人間の想像を超えるような?」
邪神は、それに答えなかった。「答える必要はない」と思ったのかも知れない。彼女の笑顔を見れば、「人間の僕でも察しが付く」と思ったようだった。邪神は地面の上に目を落として、視線の先に落ちている槍を指差した。「道は、二つ。夢に挑むか否か? 貴方の足下には、その試練が落ちている」
さあ、選んで。そう訴える、彼女の視線だった。「私は、貴方の答えを待つ」
僕は、その言葉に促された。躊躇いはない。恐怖はあるが、それを拾うのに抵抗はなかった。僕は槍の前に歩み寄って、それにゆっくりと触れた。「硬い」
それに冷たかった。文字通りの金属。校庭の鉄棒を握るような、そんな感触が感じられた。邪神の提案で槍を持ってみても、「金属バットよりも少し重い」と感じるだけ。それを思い切り振り回しても、「それと似たような感じ」と思うだけだった。僕は地面の上に槍を落として、邪神の顔に視線を戻した。邪神の顔は、今の動きに「クスクス」と笑っている。
「槍って意外と軽いんですね? 実際はもっと」
「それは、特別製。普通の槍とは、違う。普通の槍は、貴方の力じゃ振り回せない」
「そ、そうですか。う、うん、それなら納得です。僕が扱えた理由も」
「なら?」
「待って下さい」
それとこれとでは、話が違う。槍は確かに本物だろうが、それでもすぐに決められなかった。この槍を持ったところで、「自分の欲望を解き放てる」とは思えない。槍一本で自分の我を通すのは、「どう考えても無謀だ」と思った。世界の兵力は、僕が考えるよりもずっと多い。僕は世界との戦争を考えて、その光景に思わず震え上がった。
「怖いです」
「何が?」
「人を殺すのが。恨みも何もない人を殺すのは、いくら僕でも耐えられません。自分の罪に押し潰される。自分がどんなに強くても、自分のやった事は消せないでしょう? 相手が本当の善人だったら? それを殺した僕は、文字通りの悪魔になってしまう」
邪神は、その訴えに呆れた。僕としては、普通の事を言っているつもりだったのに。人間の倫理から離れた彼女には、そんなのは些細な事でしかないようだった。邪神は僕の落とした槍を捨てて、その柄をゆっくりと舐めた。そうする事で、僕の衝動を促すように。
「大丈夫。貴方が倒すのは、この世界の住人じゃないから」
「え?」
そう、思わず驚いた。特に「この世界の住人じゃない」と言う部分。そこには、自分の良心を忘れてしまった。僕は彼女の前に詰め寄って、その目をじっと睨みつけた。「どう意味です? 『この世界の住人じゃない』って?」
邪神は、その質問に「ニヤリ」と笑った。まるで、その質問を待っていたように。彼女は僕の怒声を聞いても、その怪しい態度を崩さなかった。「異世界」
思わぬ台詞。でも、聞き慣れた言葉だった。神が導く、向こうの世界。それを示す事がふと、僕の前に現われたのである。「そこなら何でも許される。この世界のルールにも縛られないし、その倫理にも捕らわれない。貴方は向こうの世界に行く事で、本来の自分を取り戻す。貴方の中に居る、内なる悪魔を。今の貴方には、そのチャンスが」
与えられている。だから、躊躇うな。躊躇う意思を持つな。彼女が差しのべる手を取れば、その素晴らしい世界が待っている。何もかもが許される、文字通りの異世界が。僕はその魔力に魅せられて、彼女の提案にうなずこうとしたが……。
ある少女が脳裏にふと浮かんだ瞬間、その意欲をすっかり失ってしまった。
僕の欲望を封じてきた少女、頼長亜紀。彼女にだけは、別れの「さよなら」をしなければ。僕は「それ」を思って、心の底から「クスリ」と笑った。「分かりました、行きます。貴方の導く世界に、僕の求める異世界に。その槍を持って。ただ」
邪神も、それにうなずいた。僕の本質を見抜ける彼女なら、僕が何を考えているのかも分かる。あの憎き幼馴染にどんな報いを与えるか、その内容すらも察している筈だ。悪魔に逆らう人間が、どんなに愚かであるのかも。彼女は「それ」を察した上で、僕に「一日だけ待つ」と言った。「〇〇公園で待っている。彼女との決着が付いたら、すぐに来て」
僕は、それにうなずいた。これから来る、自分の未来を思って。