プロローグ
「へえ~、今人間界ではこんな物語が流行っているんですねえ」
少年は行儀悪くベンチに寝そべりながら、一冊の本を読んでいた。本というよりはコミックといった方が正しいだろうか。立ち寄った本屋の一押しコーナーの半分以上を占めていたシリーズ。内容はというと、トラックに轢かれたなどの不慮の事故にあった主人公が異世界に転生して、その世界で人生を謳歌するというもの。
「”人間”の思い描く”神様”ってのは、こんなにも優しいんだなあ!ははっ、僕の上司と違いすぎて泣けてきた。神様の恩恵に与り特殊能力欲しい・・・」
ページをめくるごとに、走馬灯のように上司にこき使われた過去を思い出し、少年の目はちょっぴり潤った。過去の惨憺たる思い出が目薬程度には活用できることを学んだ。
「本当の神様を知ったら幻滅するだろうなあ。あー、君たちの上司や先生と同じような堅物頭ですよって言ったら、どんな顔するんだろうなあ」
独り言にしては大きな声で本を読み進めていくマナーの悪い少年に、通りすぎる人々は注意もせず、見向きすらしない。なぜなら、人間には少年の姿が見えていないからである。
少年、テルは天使であった。彼らの仕事は人間の魂を天界に連れていき、また新たな命として巡るように手助けをする存在である。そんな彼の上司、本の中でいう”神様”の位置である上司はその輪廻転生を司る人だ。しかし、”神様”のように、誰かを特別視したりはしない。善人も悪人も、天界に来れば平等に扱われる。哀れに死んだとしてもそれを報うわけではない。それが何千何万年とも続く、古の理だからである。
そんな慈悲に満ち溢れる本の中の神様に敬意を払いながら読み進めていたが、穏やかな時間というものは往々にして突然終わりを告げるものである。
「特殊能力が欲しいの?」
聞こえてきたのは女性の声。その問いに、少年は本のページを捲りながら、鼻歌をうたうように軽やかに返答をする。
「ああ、僕が手にしたら一発逆転、今の天界をもっと居心地よくするのになー。例えば人間の本屋を天界にもってくるとかな!あ、出版社設立とかもいいな」
「それってただの野望よね。滅私奉公の天使らしくないわよ」
「欲望の一つや二つ持ってないと生き物としての教示を失うだろー?」
「あなたがそういう態度だから上司は厳しくなるのではなくて?」
「僕は自他ともに認めるエリート君なんですけど!上司がそれに気づいていないだけなんでー。だって今もこうやって外界に降りて視察を」
「ええ、無断でね」
「んあ?」
少年はようやく疑問を抱いた。自分は今誰と会話をしているのだろうかと。本を閉じ、足元に目を落とす。そこには見知った輪郭をもつ影があった。
「はは、どうも」
「ごきげんようテルくん。いやエリート君と呼んだほうが良いのかしら?」
少年はごくりと喉を鳴らした。目の前の女性は少年にとって天敵とも言える存在であったからだ。なぜなら先ほど悪態をついた上司の一人が彼女であった。
「視察ですか?ホニャララさんも大変ですねえ」
「おさぼりさんを抱えていると上からの目も厳しくなるのよね、わかるかなテル少年。あとフルネームで呼ぶなといつも言っているでしょう」
「語感がいいものでつい。いいじゃないですかホニャララさん。なんとかかんとかみたいで」
女性の名前はホニャー・ララ。少年の上司兼同期でもある。ララは自分のことをフルネームで呼ばれる事が嫌であった。その一因を作った少年のことを、彼女もまた天敵と思っていた。幾度となく交わした軽口により、からかいは無視した方が良いと学んでいるララはさっさと自分の要件を伝えた。
「先日の課題の徴収に来たわよ。さあ、人間界での魂の引き渡しについてのレポートを提出していただける?」
テルは笑顔のまま固まった。なぜならおさぼり少年はそんな課題のことなどとうの昔に忘れていたからだ。
***
天界とはその名の通り、人間たちの住む地球上にある世界で、雲の中を転々としている。白を基調とした天界は、天使の清らかさを表していると言い伝えられている。中央には大きな役所があり、その周りを囲むように人間界と同じような街が形成されている。今もなお、役所では様々な天使が自らの仕事を遂行するためにせわしなくうごめいている。
そんな世界の隅に丸焦げになった少年が1人。真っ白な世界に点々と黒い足跡を付けていた。
「こほ…なんとかさんはすぐに灰にするんだから!このこの…」
課題をすぽかしていたテル少年は、白紙のレポートごと、見事にララに焼き尽くされたのだった。課題の不履行ということで、その罰として今は消し炭の姿で公舎の清掃をしていた。
「特殊能力が欲しいなら、勤勉に働くことね。」とはララの言葉である。
少年が欲しいと言っていた特殊能力は、天使であれば手にすることは出来るのであった。天使には階級があり、その階級に応じて羽を得る。2枚は空を飛ぶため。それ以降は個人の才能により神様から力を授かるとされている。
炎を操ることが得意なララは4枚の羽根を持っている。天使としてはスタンダードな能力だが複数枚の羽根を授けられるのは珍しい。そのような恵まれた立場にもかかわらず弱者を助けようとしない、そんな天使の行いが、テルは気に入らなかった。
天使は人を助けない。ただ傍観するだけだ。
たとえ子供を救おうとした人間のもとに高速でトラックが突っ込もうとも、それを助けることは無い。たとえ貧困にまみれる一家がいたとしても一滴の施しも与えない。なぜなら全てに平等であるためだ。それが、人間の多くが望んだ神の在り方だったから、神はそうあるのだ。
神に仕える天使はただそこに在るだけ。そして自らの役目を全うするだけ。天使は祈る。永久の平穏を、変わりなく続く恒久の世界を。
テルは平等が嫌いだった。なぜなら、努力している人は報われるべきだと考えているからである。天賦の才により玉座にふんぞり返る、暴君が嫌いだった。だからできる救済をしない天使が嫌いであり、その天使の業務をさぼり続けている自分は他者からは評価されるべきではないと考えている。現時点では。
「あっ、そうか。」
モップを引きずりながら、擦りもしないで落ちた汚れを見て、少年はひらめいた。
「不満があるなら僕が変えればいいんだ」
この汚れのように。間違ったことは正さねばならないのではないか。自身に問いかけ、考える。
そして、テルは決意した。いかなる敵に阻まれようとも自らの野望を成し遂げることを。
かのバイブルのような、すべての生き物に優しい世界を、全生物の民意を反映させる行政を築くことを決意した。そしてその野望を遂げた時、頂に立つ自分の姿を描き、テルの表情は緩むばかりであった。
「目指すは天界会社シャチョーだな!」
これはとある天界のとある天使の天界革命のお話である。