墜ちろ、満月
お越しいただきありがとうございます!自然豊かな秋の風景を感じてもらえたら幸いです。
ふと見上げれば、雲一つない澄み切った夜空。そして、空を綺麗に切り取ったかのような見事な満月が目に入った。
思わず、息が漏れる。
こんなにも美しい月を、きちんと見たのはいつぶりだろうか。……もしかすると、大人になってからは初めてのことかもしれなかった。
「ほら、月が綺麗だよ」
そう部屋の中に声をかけると、彼女は山盛りの団子とともに姿を現した。なんだその量……!?明らかに月より団子じゃないか……。
「あ、ほんとだー!綺麗ー!」
どすん、と擬音語をつけたいほどの動作で団子をテーブルに置くと、彼女は目を輝かせてそう言った。
「なんか、たまにはこういう長閑な一時もいいものだね」
あぁ、本当に。荒んだ心が癒されるようだ。お月見なんてしたことなかったけれど、なかなかいいものなのかもしれない。……特に、君が隣にいるなら。……なんて。
「あ、ウサギさんがあんなにくっきり見えるよ!すごい!」
静かな夜に似合わず、一人で何かと騒いでいるのは、少しどうかと思うが……。まぁ、田舎町の一軒家だ。誰に迷惑をかけるわけでもないし、いいだろう。彼女が喜ぶ姿を見ると、こちらも嬉しくなってくる。それなら尚更、止める必要なんてあるわけがない。
一頻りはしゃいだ彼女は、少し難しげな顔をして言った。
「んー、月が眩しいのはいいんだけど、その周りの星が見えなくなるのはちょっと残念だね」
星の明かりを吸い取ったかのように、月は煌々と輝いている。
なるほど。月の明るさにしか目がいかなかったが、確かに星は、あまり見えなくなってしまっていた。
「……あ!でも、ほら!それでも見える星があるよ!ふふ、なんか趣あるんじゃない?」
彼女が指差すその星は、月に呑まれないように必死に輝いているようで。眩しい月に照らされてもなお、光り輝いていた。
「……あの星みたいにさ、こう、何とかして輝こうとするのって、何か、いいよね」
「私たちもああやって、輝いていたいね」
そんなことを言って、彼女は口を噤んでしまった。目を細めて、じっと月を見上げている。こんなときに、何と声をかけたらいいのかわからなくて。気の利いた言葉を考える間もなく、思わず口が動いていた。
「なぁ、来年もこうして二人でいられるのかな」
「ん?……あはは、当たり前だよ」
彼女はそう言って、団子をひょいっと口に入れた。彼女に倣って、俺も団子を一つ食べる。……美味しいが、すこし、塩辛いような気もする。
「む……これ、ちょっとしょっぱいね。塩、入れすぎたかなぁ」
彼女は能天気にそんなことを呟いている。普段なら、こんな彼女の姿を見て、すぐに安心するはずなのに。どうしてだろう、今夜の不安は強まるだけだった。
「急にどうしたの?そんな不安になって」
「……いや、大したことじゃないんだ。でも、ふとしたときにさ、頭に過ぎるんだよ。……嫌な、想像が」
本当に、大したことではないんだ。月に負けじと必死に輝くあの星が、それでもいつか消えてしまうような気がしただけ。月の光に、呑みこまれてしまう気がした、だけ。
「あはは!そんなの考えても、どうしようもないよ!考えたって、避けられるわけでもないんだから。……そんなことより、もっと楽しいこと考えよ?ほら、例えば、隣にいる美人さんのこととか!」
「……はは、本当、その通りだな。美人さんだってよ、褒められてよかったな、ススキ!」
「そっちじゃないでしょー!?」
心地よい虫たちの演奏。
頬を撫でる風と、踊るススキたち。
二人に微笑みかける満月。
微かなれど確かに夜空を彩る星々。
そして、月なんかよりも眩しい笑顔を俺に向ける、彼女。
いつのまにか、俺の不安は彼女の光に呑みこまれて消えてしまっていた。
あぁ。
これが、これこそが俺の幸せなんだな。
この幸せを、いつまでも君の隣で噛み締めていたいと、強く思う。
……でも、それと同時に。
――このまま死んでしまいたい、とも思ってしまうのは、おかしな事だろうか。
月に魅入られて、だとか。月に吸い込まれて、だとか。時々耳にはするけれど。その言葉の意味を、やっと理解できた気がする。
ただ単に月が綺麗だからとか、月の見せた幻がどうとか、そんな理由じゃなくて。
きっと。
月に照らされた世界が眩しすぎたんだ。
その世界は夜が明ければ消えてしまうから。そしてもう二度と戻らないように思えてしまうから。
だから、その光景を人生で最期に見たものにしたくて。自分の中で永遠に輝かせておきたくて。
月への道を一歩、踏み出してしまうのだろう。
「ねぇ」
ハッ、と意識が引き戻される。
横を見れば、いつになく真剣な顔をした彼女がこちらを見ていた。
「……何、考えてるの」
……やってしまった。彼女の目にかかれば、こんなのはすぐにバレてしまうというのに。でも、流石に正直に言うわけにはいかないだろう。何とか言い訳しなくては。
「あはは、いや、大したことじゃ――」
「……はぁ。ま、大体わかるから、いいけど」
おいおい、じゃあ何で訊いたんだ。こっちは必死に言い訳を考えてたんだぞ?この完璧な言い訳、折角だから言わせてくれよ……!
「……ん、そうか。……ごめん」
「謝らなくていいよ。……でも、もしも本当に実行したら、許さないから」
……ま、不味いぞ……!こんなにも冷たい声色、未だかつて聞いたこともない……。相当怒らせちゃったなぁ。まぁ、それほどまでに俺の身を案じてくれているってことは、本当に嬉しい限りだが。どうやって機嫌を取ろうか。コンビニで何か甘いものでも買ってこようかな……。
「――でも」
「……ん?」
「もしも本気で実行するなら、私と二人で、ね?」
……あはは。そうだ。こういう女性だからこそ、俺は好きになったんだったな。
「なぁ。来年も、一緒に月を見ような」
「ん?もちろん!約束だよ!」
彼女は、約束を必ず守る女性だ。普段は少し抜けたところもあるが、約束を違えたことだけは、一度も見たことがない。だから、大丈夫。この月を見れるのが。君と二人で見れるのが、これて最後ではないのなら、俺は踏み出しなんてしないから。
○○○○○
「えへへぇ、今夜の月は、何だか大きく見えるねぇ。あはは、今にも墜ちてきそうだよ」
……墜ちてきて堪るものかよ。満月ではあるが、いつもより大きく見えるかな?……別に、そんなことはないように思えるけれど。
恐らく、もうかなり酔いが周っているのだろう。そろそろ潮時か。酒に弱いのに、グイグイ呑むからすぐ出来上がるのだ。だからあれ程ゆっくり呑めと言ったのに……。
「あぁ、そうだね。ほら、もう寝よっか?歩ける?」
「んー?えへへ、ねぇねぇ。もしもさ、あの月が墜ちてきたら、どうする?」
突然何を言い出すんだ、この酔っ払いは。ダル絡みというか、甘えというか。……まぁ、何にせよ可愛いから許すが。
「どうするって……何が?」
「残された時間を、どう使うかって訊いてるのー!」
うぅん、これ、実は一つしか選択肢がないやつだ。めっちゃ期待を込めた目線送られてるし。……はぁ、しょうがない。愛しい酔っ払いのご機嫌でも取りますか。
「俺は、二人で一緒に過ごしたいかな」
「……!えへへ、私も!!じゃあ〜、約束ね?」
「……約束?」
「うん!もしも月が墜ちてきたら、二人で最期を迎えよ?」
なんちゅう約束だ。ロマンチックというよりも、少し狂気じみてるだろ。こんな最高の月の下で、こんな狂った約束したくないよ……。ま、まぁ、ここは、しょうがないか。そこまで俺を想ってくれてるということは、素直に嬉しいし、な。
「あぁ、約束だ」
「あはは!それじゃあ、はい!ゆーびきーりげんまん……」
あぁ、彼女が楽しそうで何よりだ。ここに君がいて、その笑顔を俺に向けてくれて。それだけで、俺は幸せだ。他に何もいらない。それだけが、俺の幸せだから。
……だからさ。
なぁ、月よ。
今しばらくは、墜ちないでいてくれないか。
俺たち二人の人生が、穏やかに終わるまでは。
星に、月に願うのは一つだけ。
来年も、再来年も。
この月を二人で眺めていられますように。
涼しげな風が頬を撫でた。
目を開ける。
ふと見れば、団子は一つも減っていなかった。
「……はは」
随分と長い間、妄想に浸っていたようだ。……あぁ、まさに、妄想だ。
あるいは、月の見せた幻とでも言ってみようか。……はは、それは違うな。いつだって、月が照らし出すのは、惨たらしい現実だけだ。
ふと、横を見たって、彼女の姿がぼんやりと見えることなんてない。彼女はもう、四角い枠の中で微笑むだけだ。
「ほら、月が綺麗だよ」
そんなことを呟いても、言葉を返してくれる人なんて、もういない。聞こえるのは虫の声と、ススキを撫でる風の音だけ。ため息が、やけに大きく聞こえた。
ひょいっ、と。すっかり冷えた団子を口に入れる。……少し塩辛い。だけど、俺はこの味が大好きだ。
あれから、随分経ったね。
君は、元気にしているのかな。
こっちは、沢山のモノが変わったよ。
君とよく行ったスーパーは、潰れてしまったし。
君の好きだった雑貨屋は、遠くに引っ越してしまったよ。
家の近くの田んぼも、畑も無くなって、誰かの家が建っちゃってさ。
あぁ、何もかも変わってしまったな。
……俺の目に映る景色も。
耳障りな虫の声。
風に殴られて俯くススキ。
俺を嘲笑うかのように輝く月。
もう、星なんてものは見えない。
虫も、風も、月も。……星さえも。
全部だ。
……いや、違うのかな。もしかしたら俺だけが。俺の目が、耳が、変わってしまっただけなのかもしれないね。
変わりたくなかったんだ。
認めたくなかったんだ。
でもさ、時の流れは、残酷だね。
どれだけ認めたくなくても、肌で感じてしまうよ。
全てのものは、いつか変わってしまうんだ。
それなら、きっと色褪せてしまうんだろうな、いつか。
黄金色に輝いていたあの月も。
君が綺麗と言ったあの星も。
そんな君の笑顔も、思い出も。
何もかも、全部。
「どうすれば、よかったんだよ」
そう、月に問いかけても。
月はただ、いつも通りに世界を照らすだけだ。
月はいつものように昇って、そしていつものように落ちていく。……正直に言って、羨ましいよ。妬ましいよ。……目障りだよ。どうして、お前は“日常”のままでいやがるんだ。どうして、お前は昇っても、落ちても、また帰ってこれるんだよ。……彼女は昇ったきり、もう帰ってこないというのに。
……あぁ、目障りなんだよ。
まるで何もなかったかのように、俺を見下ろし続けるその顔が。
無様な俺の姿を煌々と照らし続けるその輝きが!
俺とは違って、俺たちとは違って、少しの欠けもない、その完璧な姿が!!
……本当に、目障りだ。
もう一つ、団子を食べる。
なんだか少し、不味い気がしたのはきっと、気のせいだ。
「なぁ」
彼女は、決して約束を違えない。
だから、彼女はきっと戻ってきてくれる。俺の隣で、また笑いかけてくれるんだ。綺麗だね、って。大好きだよ、って。もう一度、あの愛しい声を、聞けるはずなんだ。もう一度、あの幸せを、掴むことができるはずなんだ!……今度は、二人一緒に、死ねるはずなんだよ。
だからさ。
「墜ちろ、満月」
風に吹かれたススキだけが、意味もなく頷いている。
虫は俺のことを嘲笑って。
そして月はただ黙って、俺のことを見下すだけだ。
……当たり前だ。月が墜ちるはずなんてない。仮に墜ちたところで、彼女が帰ってくるわけでもない。
本当に、馬鹿みたいだよな。
漠然とした、幸せというものが欲しくて。どこを探しまわっても、そんなものなんて落ちてなくて。諦めて。
そんなときに、一筋の光が俺に差したんだ。それは、月の光なんかよりも輝いていて。まさに俺の全てだった。
彼女と交わした言葉が。彼女と過ごした時間が。彼女と食べたものが、見たものが。
その全てが、俺の幸せで。
俺の全ては、彼女だった。
それなのに。
その輝きは、泡のように静かに溶けて。
あれからずっと、君との思い出と共に眠りについたんだよ。少しでも、君を感じることができるかもしれないと思って。少しでも、この痛みを和らげることができるかもしれないと思って。……あはは、でも、全然ダメだった。むしろ、痛みも絶望も、増していく一方だった。
……もう、飽きたんだよ。こんな世界で生きるのに。
当たり前のように月は昇って。当たり前のように彼女はどこにもいない。……こんな、ふざけた世界、こちらから願い下げだ。
……だからさ。今夜は、君の思い出と共に、眠りにつくことにしたんだ。
ふと見上げれば、薄い雲に覆われた醜い夜空。そして、雲に綺麗に包まれた、それでもなお輝く満月が目に入った。
思わず、ため息が漏れる。
こんなにも薄汚れた月を、きちんと見たのはいつぶりだろうか。……もしかすると、彼女がいなくなってからは初めてのことかもしれなかった。
「ほら、月が綺麗だよ」
そんなことを呟いても、返事をしてくれる女性なんてもう、この世にはいなくて。
もし、彼女がいたのなら。
きっと、彼女は言うんだろう。
微かに輝く星々も綺麗だと。
君の見つけたあの星も。もう、俺には見えなくなってしまった。……あるいは、君と共に、消えてしまったのかもしれない。
……それなら。
ぐっ、と。
力強く手すりを握りしめる。
お前は、勝手に輝いていればいい。
好きなだけ、光を散らしていればいい。
だけど。
俺は、お前のことが嫌いだ。
星の輝きを奪った、お前が嫌いだ。
……でも、俺がどれだけ喚いたって、何も変わらないんだもんな。お前は墜ちたり、しないんだもんな。
手すりに足をつける。
こんな俺のことを引き留めてくれる女性も、一緒に落ちてくれる女性も、もういないから。
月は輝いて。星は消えて。彼女は昇ってしまって。
誰も共に落ちてなんてくれない。
それなら、落ちるのは。
「落ちるのは、俺だけで充分だ」
月が遠ざかっていく。
あはは、結局、君との約束は何も果たせなかったよ。
君も、俺との約束を守れなかったんだから、お互い様だよね。
……でもさ、決して、月に魅入られたからでも、世界が眩しすぎたからでもないんだ。
ただ単に。
――月が照らす現実に、耐えきれなかっただけ。
君との思い出が、現れては消えて、輝いては消えていく。それはまるで、夜空で輝いた星々のようで。
あはは、こんなこともあったなぁ。そんなことを思ったって、ただ苦しくなるだけなのに。もっと見たいけれど、もう見たくないような。
……あはは、なんだ。俺の走馬灯、君との思い出ばかりじゃないか。俺の人生は、俺の全ては、本当に君だけだったってことかい?はは、確かに、そうかもしれないなぁ。
そうか。そう、だよな。
俺の人生の全てが、君だったのなら。
君と出会ってから俺は、ようやく息をし始めて。
君を失ったあの瞬間に。
もう、とっくの昔に。
――俺の人生は終わっていたんだなぁ。
「あははははは!」
どうしてだろう、笑いがこみ上げてくる。……いや、当たり前か。あの日から必死に生き抜いてきたつもりでも、もう、俺は死んでいたのだから。あぁ、あまりに滑稽だ。もっと早く、こうすればよかったかな。
君が見つめた月を見上げながら、レクイエムには虫たちの合奏。献花はススキ、と。こんな俺には、勿体ないほどの葬式だ。
それでも、相変わらず星は見えない。
こんなときにも、眩しく光りやがる満月のせいだ。あぁ、憎たらしいな。やっぱり、お前も墜ちろよ。
……いや、違うか。恨むべきは、月なんてものじゃあ、ないんだ。俺が……いや、俺たちが、本当に憎むのは。
――星の輝きを奪った、満月だ。
それなら、俺だけが落ちるだなんて、おかしいだろう。
なぁ。
俺と一緒に。
地獄に落ちろ、満月。
俺の命を供物に、この運命を呪っておくから。君を奪った運命には、俺と一緒に消えてもらうからさ。……来世で、もう一度出会えたときは、今度はきっと、大丈夫。
来世では、星が瞬く夜空を見ようね。
それじゃあ。また、来世。