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ゴジラ、神がかりの獣  震災はいつまで続くのかの補稿として

作者: 藤代京


 震災はいつまで続くのか ではわざと脇道に逸れ過ぎるからわざと触れなかったのが、やはりご指摘を頂いたのでゴジラ全体についてつらつら書いていこうと思う。


 と言っても全作見てるマニアでもないので抜けがあったらばご容赦を。


 凶悪な初代ゴジラがシリーズを重ねるにつれ善玉になって、いつのまにか人類の味方になってしまうのておかしくない? と思う人もいるだろう。


 しかし、おかしくはないのだ。


 呪術としてみた場合、初代ゴジラを退治した、つまり調伏したことによりゴジラは使役可能な存在になった訳だ。



 呪術? いきなり何を言ってるんだ? って方は俺が書いた怪異探究行シリーズでも読んでいただくとして、これはそうゆう話なのである。


 ゴジラが呪術的に使役可能な獣になったことにより、心理的補償にも変化が現れる。


 初代ゴジラが幻想の本土決戦とその勝利であったとすれば、それ以降のゴジラの心理的補償は幻想の戦争のコントロールとその勝利に変化する。


 幻想としての日本国の核武装と言い換えてもいい。



 太平洋戦争の心理的補償としては、幻想の本土決戦の勝利だけは足りなかった訳だ。


 もっともっとおかわりと時代の無意識が要求した結果がゴジラの変な善玉化になる訳だ。



 そのゴジラも1984年にひとつのエポックを迎える。


 初代に回帰してゴジラは荒ぶる神のごとく破壊を尽くす。


 ゴジラを倒すためにゴジラの体内の核反応を抑制するためにカドミウム弾を打ち込む等、84ゴジラは生ける核兵器のごとく描かれる。


 要求される心理的補償の変化したためだ。


 太平洋戦争のトラウマへの心理的補償から冷戦下での起こるかも知れない核戦争の恐怖への心理的へと。


 善玉ゴジラの心理的補償は戦争のコントロールであったから、起こったら最後全てが焼き払われる(当時はそう考えられていた)つまりコントロール不能な核戦争の心理的にはなり得ない。


 だから時代の無意識の欲求に従えば、初代に回帰するしかなかった。


 核戦争の恐怖を体現して破壊を尽くすしかなかったのだ。


 そして俺に言わせれば84ゴジラは退治されていない。


 あれは荒ぶる神がひとしきり暴れて、あるべき所へお帰りになっただけである。


 幻想として心理的補償と言えども、いまだ勃発していない核戦争を体現するゴジラを退治してしまってはさすがに嘘になってしまうしな。



 以上を踏まえて、とりあえずゴジラを神がかりの獣、もしくは時代の無意識を体現する巫覡の獣と定義させてもらう。


 

 そしてビオランテやらミレミアムやらは飛ばして、シン・ゴジラだ。


 何故飛ばすかって?


 見てないからだ。


 見てないものは語りようがない。



 シン・ゴジラ、海から現れているし破壊を尽くしてから人類に退治される。


 震災後のゴジラだし、これだけ見ると震災の心理的補償として機能しそうだけどなんか違う。


 変な違和感がある。


 ぶっちゃけて言うと、シン・ゴジラってゴジラというより実写版ヤシマ作戦じゃね?


 あれ、ゴジラを使徒に変えてもなんの支障もなく話が成立するんじゃね?



 それが駄目だと言っている訳ではない。


 クリエイターにとって同じことも何度も繰り返すということは、ワンパターンやマンネリということでは決してない。


 おそらくそこには余人には知れぬ、もしかしたら当の本人も気づいていない繰り返して表現しなければならない深刻な理由がある。


 庵野監督のヤシマ作戦の場合、テレビ版でやって劇場版でやって形を変えてシン・ゴジラでやって、と繰り返して表現しなければならない洒落にならないシリアスな問題があると思われる。



 そして、それがシン・ゴジラを震災の心理的補償として見た場合、違和感を感じる最大の理由だ。


 ヤシマ作戦だから違和感があるのではなく、時代の無意識の欲求と庵野監督の個人の欲求がガチでぶつかって、個人の欲求が勝ってしまった結果がシン・ゴジラであると感じる。


 個人の欲求の結実だから、震災の心理的補償の条件を満たしているに関わらず、それは共同幻想とはなりえない。


 違和感の原因である。


 もちろん、以上は作品の出来不出来とは関係のない話だ。



 そしてゴジラを神がかりの獣として見た場合、シン・ゴジラからは周到に神がかりの要素が排除されている。


 シン・ゴジラはその形態ごとに大幅に姿を変えるが、神は変形しない。


 なにがしかの司るものがあっての神だから、神の姿は不変である。


 変態して姿を変えるのは神ではなく、虫である。


 その虫の神様というか蝿の王ベルゼバブだってウジ虫の姿から蝿に変態したりはしない。最初から蝿のまんまである。


 つまりシン・ゴジラは形態を変えるという生態によって、あらかじめ神性を省かれている。


 更には、組織に神は宿らない。


 神が宿るのは組織ではなく個人である。


 トリップして脳の保護機能をぶっ飛ばした個人が時代の無意識にシンクロして託宣を述べるものだから、神がかって見える。


 組織にそれはない。


 ドラゴンが一人の英雄によって討伐される理由もそれである。


 一人だからこそ神がかる。軍では神がからない。


 初代ゴジラが日本政府でも自衛隊でも芹沢博士という一人の科学者によって退治される理由もそれである。


 神がかりの獣を退治するためには神がかりの英雄が必要される。


 84ゴジラであれは退治されてない、神としてあるべき所にお帰りになっただけと述べた理由もそれである。



 対してシン・ゴジラではゴジラ対組織の構図であって、神がかりの要素がどこにもない。


わざとか、わざとやってるんだというほどオカルティックか解釈を拒むのがシン・ゴジラだ。


 シン・ゴジラの退治されたあとに見せるなりかけの最終形態、あれは神がかってはいないのか? という向きもおられようが、あれは俺には神だとしても庵野監督個人の神のように感じられる。



 誤解や誤読を恐れずに書くと庵野監督の個人の幻想が共同幻想をとことん否定して完成したのがシン・ゴジラであり、それにより条件を満たしていても震災の心理的補償として機能しない。



 俺の解釈は以上だ。


 震災を背負って破壊尽くし獣はいまだ現れず。


 しかし、ゴジラ以外にそんな存在がいるかと言われると、ゴジラ以外にはいないんだよな。


 困ったことに。

 

 




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