夜の間借り人 ~夜来館奇譚~
一階の水島さんには、煎茶。
二階のカインさんには、熱い紅茶。
廊下で待つお鷹さんには、ブランデー入りの温めのミルク。
一階のホールにある古い柱時計が夜の八時を打ったのを確認して、私は台所でそれぞれの準備を始める。
まずは平皿に入れたミルクを持って廊下に出る。定位置に置けば、奥の暗がりから白と黒のブチ猫が現れて、とことこと近づいてきた。
こちらを見上げて、にゃあとは鳴かずに「ありがと、お嬢ちゃん」と妙齢の女性の声で礼を言う。
彼女の名は鷹江。皆からは『お鷹さん』と呼ばれている。
かつて、江戸の町で長唄の師匠をしていた女性だそうだ。本人にもわからないようだが、死んで気づいたら猫になって、この館にいたという。
お鷹さんは小さな赤い舌でミルクをちろりと舐める。口周りに撥ねた白い雫を舐めとる仕草は、猫なのに妙に色っぽい。
「ああ、おいしいねぇ。でもね、もうちょっと酒多めでもいいのよぉ?」
「駄目ですよ。前に酔っぱらって、廊下の花瓶の中に落ちちゃったでしょう?空だったから良かったものの……」
「ふん、アタシゃ溺れ死んだりしないよ」
もうとっくに死んでるしねぇ、とお鷹さんはぼやく。
そんなお鷹さんの前に、私はしゃがみこんだ。
「それならなおさら、猫になってまで死んじゃったら困ります。お鷹さんいなくなったら、寂しくなっちゃうもの」
「あらあら、何だい茜ちゃん。可愛いこと言ってくれるじゃないのさ」
まんざらでもないように目を細めて髭を揺らした後、お鷹さんはミルクを再び舐めた。
「ほらほら。アタシの相手はいいから、早く二階の坊やに茶ぁ持って行ってあげな。あの坊やは子犬みたいにきゃんきゃん五月蠅いからねぇ」
「はい、そうします」
私は苦笑した後、台所に引き返す。
茶葉とお湯を入れ、ティーコージーを被せたポット。ティーカップとソーサーと。それから銀色のピッチャーに入れた砂糖とミルク、お茶菓子のフィナンシェに、お湯の入った小さな魔法瓶をお盆に乗せて、二階の洋室の一つに急いで向かった。
***
半年前、大学に入学した私――夜来茜は、祖母からあるものを引き継いだ。
下町の一角にある、古い屋敷。大正時代に作られたという和洋折衷の造りの屋敷は『夜来館』と呼ばれている。
この夜来館には、幾つもの部屋があり、各部屋に間借り人が存在する。
もっとも、彼らは普通の間借り人ではない。
夜にだけ現れる住人だ。
一夜限りの滞在者、偶にふらりと再訪する者、毎晩現れてくつろぐ常連。
死者や生者、過去や未来から訪れる者、異界から迷い込んだ人や人じゃないモノ。
彼らを迎えてもてなすのが、夜来館の主である祖母・夜来朱鷺子の役目であった。
しかし、七十歳になったのを機に、祖母は世界一周旅行をしたいと一念発起した。折しも、私の大学入学が決まった年で、大学から夜来館までは二駅という条件が重なった。
旅行で長期不在となる祖母の代わりに、夜来館に下宿することになった私は、祖母の仕事を引き継ぐこととなったのである。
***
二階の洋室をノックをし、扉を開いた途端――
「遅い!!」
と叱責が飛んでくる。
アンティークの家具を揃えた洋室には深みのある青色の絨毯が敷かれており、その上に焦げ茶色のブーツを履いた足があった。ここは土足じゃないですよと毎回注意していたが、一向に脱ぐ気配が無いので、もはや諦めている。
ブーツで絨毯を踏みしめているのは、一人の青年だった。
二十代の前半くらいだろうか。
シャンデリアの下で輝く金色の髪に、深みのある青色の目。洋画で見た美麗な俳優のような容貌。
まるで西洋の王族が着るような詰襟の綺麗な服を着た彼は、腕組みをして私を睨んだ。
「遅いぞアカネ!どこで道草食っていた!」
「すみません」
「ふん、どうせあの猫だか鷹だかわからんやつの相手をしていたのだろう。なぜ俺のところに先に来ない。俺よりもあの猫が大事というわけか?」
「いや別にそういうことでは……」
「いいか、何度も言うが、俺はアイゼンリンゲ王家の第二王位継承者であり、王立魔法騎士団の副団長を務める、あのカインハルト・フォン・リベリア・ゼオ――」
「あ、紅茶が出過ぎちゃう」
青年――カインさん(本名は長いので覚えていられない)の言葉の途中で、私は慌てて部屋の中央にあるテーブルにお盆を置いた。
カインさんは、この世界とは少し違う、魔法を使う世界から訪れた間借り人である。
彼がこの洋室に現れるようになってから、約二か月。三日に一回のペースで訪れる人だ。最初こそ彼の居丈高な態度に戸惑ったものの、今はようやく慣れてきた。
ティーコージーを取ったポットから紅茶を注ぎ、色が出過ぎていないのを確認してほっとする。そんな私の後ろに近づいていたカインさんは、私の肩をがしりと掴んで振り向かせた。
背が高い彼を見上げる形になれば、せっかくの美貌が怒りに歪んでいた。怒っていても、それはそれで綺麗な顔ではあるのだが。
そういえば、この人の笑った顔を見たことがないなあ、と考えていれば、次なる叱責が飛んでくる。
「お前はいつもいつも……人の話を最後まで聞かんか!」
「す、すみません」
「だいたい、お前は不器用でそそっかしいのだ。紅茶だって、最初は渋いわ薄いわとても飲めたものじゃなかった。俺が淹れ方を教えてやっと……」
「すみません。……あの、カインさん、紅茶が冷めてしまいます」
「だから平民のお前が気安くカインさんと呼ぶなと」
「え?ええと、じゃあ……『殿下』でよろしいですか?」
「……」
カインさんはしばし黙ると、私の肩を離した。もういい、やっぱり名前で呼べ、となぜか拗ねたように言う。
困惑する私の前で、カインさんは花柄の古風なソファに足を組んで座り、優雅な動作で紅茶のカップを取った。
一口飲んで、しばし沈黙。
少し緊張しながら待っていると、「合格だ」と彼が小さく呟く。熱い紅茶を飲む彼は、ふと小皿に目をやり、フィナンシェに気づくと目を瞠った。
「これは……たしか、先日食した……」
「はい。カインさん、気に入っていたでしょう?喜ぶかなぁと思って、買ってきました」
「……ま、まあ、不味くはなかったというだけだ。まあ、何だ、その……お前がせっかく用意したと言うのなら、食べてやろうじゃないか。……そうか……うむ……」
白い頬をわずかに赤くしたカインさんは、機嫌を良くしてフィナンシェを食べる。口元が少し緩んでいた。よかった、余程フィナンシェが好きなのだろう。
ほっと笑う私の顔を見て、カインさんの頬がますます赤くなったのだが、それに私が気づくことはなかった。
カインさんの部屋でその後一時間、愚痴(腐った貴族が企んだ国家転覆の陰謀を食い止めた話とか、近隣の国から見合い話が幾つも来て困っている話とか)に付き合わされた。
壁の時計が九時を打ったのを見て、そして話の切れ目を見て、私は立ち上がる。
「すみません、私そろそろ行きますね」
「……あいつの所か」
「え?」
首を傾げる私に、カインさんは眉間に皺を寄せた。そっぽを向いて素っ気無く言う。
「ふん、さっさと行けばいいだろう」
「あ、はい。それでは、失礼します。あ、紅茶のお代わりが欲しいときは、呼び鈴を鳴らして下さいね。それから、読みたい本があれば書斎から取ってきますので」
言い残して、私は洋室を出た。ぱたぱたとスリッパを鳴らして廊下を急いでいれば、階段の手すりの上に座ったお鷹さんが声を掛けてくる。
「ずいぶんと長く捉まっちまってたねぇ。まあ、水島さんは大人だから、遅れても坊やみたいに怒りゃあしないよ」
だから慌てなさんな、とお鷹さんは私の足元を見て注意する。
「ありがとう、お鷹さん。気を付けます」
「何てことないよぉ」
ふふふ、と笑う声を後にして、私は足元に気を付けながら台所に急いだ。
***
沸かして少し冷ました湯で煎茶を入れる。お盆に湯呑を二つ、お茶請けは大福もちを用意した。
お盆を持って向かうのは、一階の和室である。
襖越しに「失礼します」と声を掛けると、若い男の声が返ってくる。
「どうぞ、お入んなさい」
柔らかな響きの低い声。
八畳の和室の縁側に腰を下ろした、着流し姿の男が振り向く。
二十代後半くらいの男は、セルロイド眼鏡をかけた、黒髪に黒目のごく普通の日本人の姿をしていた。
それもそのはず、彼の名は水島さん――水島和生。れっきとした日本生まれの日本人である。
私はお盆を縁側まで運ぶ。湯呑に煎茶を注いで、水島さんに差し出した。
「すみません、お待たせして」
「いえいえ、気になさらず。ちょうど読みたい本があったものですから」
水島さんの膝の上に広げられたのは、宇宙の仕組みについて書かれた科学の教本だった。
「いやあ、日本語が横文字で書かれているなんて、最初は驚きましたけどね」
昔はほぼ縦書きであり、横書きは英語や独逸語などの外国語ばかりだったそうだ。最初のうちは読むのに違和感があったそうだが、今ではすっかり慣れたものだ。
ページを捲る骨ばった大きな手。文字を追うのは、奥二重の涼やかな目。
地味ながらも整った風貌をした彼は、私がまだ小学生の頃に見た時と変わらない姿をしていた。
そう、彼もやはり、この夜来館にふさわしい住人だ。
しかも、私よりもずっとこの館のことを知っている。
彼は祖母の代から十二年、この館に滞在する間借り人だ。
その間、全然年も姿も変わらない、不思議な人。本人曰く、明治の生まれらしく、この館ができた当時のことを知っているとのことだ。
とはいえ、見た目も中身もごくごく普通だ。穏やかな性格で、感じの良い人である。
本に視線を落とした彼は、ぽんぽんと隣を手で叩く。招かれた私は、拳三つ分開けた隣に腰を下ろした。
自分の分の湯呑に茶を注ぎ、煎茶を啜る。ひんやりとした秋の夜気に心地良い温かさだ。
お茶を飲みながら、大福を頬張る。柔らかな餅と餡子の甘みに頬が緩む。
紙が擦れる音。眼鏡をかけ直すときの小さな音。
虫の鳴く音。庭の草木が風に揺れる音。
風に乗って、庭には植えられていないはずの金木犀の香りが漂ってくる。
不思議に思っていれば、すかさず水島さんが答えた。
「以前はあったんですよ、金木犀」
館が建てられたときにはあったそうだ。
「病気でやられて切られてしまいましたが……でも、この香りだけは残してくれているんです」
毎年の楽しみですね、と彼は微笑む。
そうですか、と相槌を打てば、水島さんは本を閉じた。縁側の踏み石に置いていた下駄を履いて、庭に降り立つ。
「よかったら、庭の散策でもしますか。もしかしたら、金木犀が見られるかもしれませんし」
そうして差し伸べられた彼の手に、私は遠慮がちに己の手を重ねる。自分用の草履を履いて、水島さんの隣に並んだときだ。
「――ミズシマ!貴様、何をやっている!」
二階の窓から身をのりだしたカインさんが水島さんを怒鳴った。水島さんは、おや、と二階を見上げて首を傾げる。
「何って……散策をしようと思いまして。庭は暗いですから、手を引いた方が良いと思ったまでですが」
「ふん、そう言って単にその娘の手を握りたいだけだろうが」
「おや、それは殿下の方では?」
「なっ……」
「どうぞ夜はお静かに。いくらこの館が夜は異空間になろうとも、宴でもないのに騒ぐのは野暮というものですよ」
水島さんはさらりとカインさんの攻撃をいなして、歩き始める。
カインさんは悔し気に「満月の夜は覚えてろこの昼行燈!」と怒鳴った後、いささか乱暴に窓を閉めた。
普段、間借り人は各々の部屋から出ることはできない。
カインさんは二階の洋室から、お鷹さんは廊下から――というように。
館には幾つかの制約があるらしい。カインさんが庭に降りてきて水島さんに直接の喧嘩を売ってこないのはそのせいだ。
しかし、水島さんは十年以上この館に住んでいるせいか、館の力に馴染んでおり、少しの時間なら部屋の外に出ることができるそうだ。
それから、満月の夜だけは特別だ。間借り人は皆、部屋から出ることができ、館の敷地内であればどこでも行ける。
……次の満月の夜までに、カインさんが機嫌を直してくれるといいのだが。この館では、住人同士の諍いはご法度なのだ。
心配事が顔に出た私に、「まあ、殿下も一応大人ですから、大丈夫ですよ」と水島さんが軽やかに流した。
庭を歩けば、土と植物の香りを強く感じる。
秋の夜風に、水島さんの着物の袂が揺れる。
斜め前を行く彼の横顔を、眼鏡を見ていた私は、足元に張り出ていた木の根に躓いてしまった。
「わっ…」
「おっと」
水島さんがすかさず私の手を強く握って支えた。すみません、と謝る私に「手を握っていて正解でしたね」と水島さんは笑った。
やがて、金木犀の香りがひと際強く香ってくる。
行く先が少し開けており、ぼんやりと淡く光っている。オレンジ色の小さな花が満開になった木。
夜の闇に浮かぶように、美しい金木犀の木が佇んでいた。
あるはずのない木。
だけど今夜は存在する。
金木犀の彼、あるいは彼女もまた、今夜この『夜来館』に招かれた『間借り人』なのかもしれない。
金木犀を見上げた水島さんは、目を細める。
「ああ、綺麗ですね」
――夜の庭で、こうして二人で散策することは珍しくない。水島さんと過ごす静かな時間が、私は好きだった。
だが、いつまでもこの時間が続くわけではない。夜が明ければ、彼はいなくなる。
彼だけではない。
お鷹さんも、カインさんも、他の住人達もみんな――
夜にだけ現れる住人。
……いつかは、この『夜来館』からいなくなってしまうかもしれない、人達。
だけど、それでも。
「……はい、綺麗ですね」
私は微笑んで、傍らの彼を見上げる。
出会いの喜びも、別れの悲しみも。
語らうときの愛しさも、静かなときの寂しさも。
夜来館での時間を大切にしたいと思うのだ。
だから、どうか。
どうかもう少しだけ、この時がゆっくりと進みますようにと――
願いを込める私の手を、水島さんは優しく握ってくれた。